刀 銘(葵紋)於武州江戸越前康継
「刀 銘(葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持」は、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ:別称長曽祢興里[ながそねおきさと])や「野田繁慶」(のだはんけい)らと共に、「江戸新刀」を代表する名工として、「江府三作」(こうふさんさく)のひとりに数えられる「越前康継」(えちぜんやすつぐ)が手掛けた日本刀です。新刀期の発展を牽引した越前康継の作風や人となりについてご説明すると共に、「刀剣ワールド財団」が所蔵する本刀の鑑賞ポイントを分かりやすく解説します。
目次
人物:越前康継(えちぜんやすつぐ)
作風
評価
銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 /以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持の特徴
人物:越前康継(えちぜんやすつぐ)
結城秀康
結城秀康
「越前康継」は刀工「広長」(ひろなが)の三男として、近江国・下坂浜(現在の滋賀県長浜市)で生まれたと伝えられています。
広長は、「大和伝」(やまとでん)系の「千手院」(せんじゅいん)一派が、美濃国・赤坂(現在の岐阜県大垣市)へ移住してきたことから始まった「赤坂千手院派」(あかさかせんじゅいんは)の末裔です。
父に作刀を学んだ越前康継(当時の名は下坂市左衛門[しもさかいちざえもん])は、全国を行脚してさらに修行を重ね、文禄年間(1592~1596年)頃に「肥後大掾」(ひごのだいじょう)を受領。作刀に「肥後大掾下坂」の銘を入れるようになります。
慶長年間(1596~1615年)頃に越前康継は、越前国・福井(現在の福井県福井市)へ移住。「関ヶ原の戦い」のあと、68万石で北の庄(きたのしょう:現在の福井県福井市)に入封した徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)のお抱え刀工となったのです。
(2024年 11月 26日 19時 38分 追加)刀 銘(葵紋)於武州江戸越前康継
「刀 銘(葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持」は、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ:別称長曽祢興里[ながそねおきさと])や「野田繁慶」(のだはんけい)らと共に、「江戸新刀」を代表する名工として、「江府三作」(こうふさんさく)のひとりに数えられる「越前康継」(えちぜんやすつぐ)が手掛けた日本刀です。新刀期の発展を牽引した越前康継の作風や人となりについてご説明すると共に、「刀剣ワールド財団」が所蔵する本刀の鑑賞ポイントを分かりやすく解説します。
目次
人物:越前康継(えちぜんやすつぐ)
作風
評価
銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 /以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持の特徴
人物:越前康継(えちぜんやすつぐ)
結城秀康
結城秀康
「越前康継」は刀工「広長」(ひろなが)の三男として、近江国・下坂浜(現在の滋賀県長浜市)で生まれたと伝えられています。
広長は、「大和伝」(やまとでん)系の「千手院」(せんじゅいん)一派が、美濃国・赤坂(現在の岐阜県大垣市)へ移住してきたことから始まった「赤坂千手院派」(あかさかせんじゅいんは)の末裔です。
父に作刀を学んだ越前康継(当時の名は下坂市左衛門[しもさかいちざえもん])は、全国を行脚してさらに修行を重ね、文禄年間(1592~1596年)頃に「肥後大掾」(ひごのだいじょう)を受領。作刀に「肥後大掾下坂」の銘を入れるようになります。
慶長年間(1596~1615年)頃に越前康継は、越前国・福井(現在の福井県福井市)へ移住。「関ヶ原の戦い」のあと、68万石で北の庄(きたのしょう:現在の福井県福井市)に入封した徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)のお抱え刀工となったのです。