27×19.4㎝
全40丁
題箋 「和歌作法」の下部に何か一文字認められていた模様。
【因みに】
刊記に関する記事も無く、虫喰いが全体に広がっていている。
記されている文字は端正で、貴品さえ感じられ、しかるべき人の筆のような気がする。
本文中33丁裏【画像 5 参照】に
此本帖宗祇為関東修行便~中略~
文明八(1476)年丙甲仲秋十九日 宗祇
とあり、宗祇が文明五年頃までに宗砌、専順、心敬などに連歌を学び、東常縁からは「古今伝授」され、以降公家、将軍、近衛尚通、三条西実隆、細川政元などと交流を深めていることと符合する。
題箋には「和歌作法」とあるが、内容的には和歌をも含めた「連歌」に関することが多く見られる。どちらかと言えば「連歌作法」なのかも知れない。
問題は上記の「此本帖」が何を指しているかであるが、
15丁表の末が2行分空いていることと、15丁裏から各項目に「一」の文字が頭に据えられるようになることを合わせると、この辺りからと認めて良さそうではある。
ではその後は?と言われると困る。その最後には
五七五を二七もしらぬみとり子に 【画像 9 参照】
と五七五の句で終わっていて(連歌は「七七」で終わるはず。)尻切れトンボの感じがする。
宗祇の連歌論には「吾妻問答」「浅茅ヶ」「雨夜談抄」「紫塵愚抄」等があるが、そのどれとも違うようである。
文中には、(安末期から鎌倉初期にかけての歌人、歌学者)顕昭法師の名が幾度か出てくる。宗祇とは二百数十年年ほどの隔たりがあるが、彼の連歌論の支えになっていたのかも知れない。
※全体的に、経年によるくすみ、汚れあり。
※経年による紙の劣化、変色、斑点状の染み、虫喰い多数あり。
※梱包材の再利用に努めています。ご理解下さい。