ご入札をご検討いただき、誠にありがとうございます。
これは単なる宝飾品ではございません。一つの物語であり、哲学であり、これから人生の荒波に漕ぎ出す、すべての勇敢なる魂に捧げる護符(アミュレット)でございます。
長文となりますが、このジュエリーが宿す本当の価値をご理解いただくため、しばし私の拙い筆にお付き合いいただければ幸いです。
序章:鎌倉の夕暮れと金の鎖
「話にならん。まったくもって、話にならん」
硯山(けんざん)先生は、火から下ろしたばかりの鉄瓶から、白くもうもうと立ち上る湯気を無感動に眺めながら吐き捨てた。その声は、長年使い込まれた備前の擂鉢(すりばち)のように、ざらりとしていながら妙な深みがあった。
私の名は百合子。先生の亡くなった奥様の姪の娘、という遠縁にあたる。つまりは他人だ。しかし、幼い頃からこの鎌倉の谷戸(やと)にある先生の住処兼工房に遊びに来ては、泥遊びをさせてもらったり、庭で採れた無骨な形の胡瓜に味噌をつけてかじらせてもらったりした。先生は、陶芸界では人間国宝の一歩手前と噂されるほどの巨匠だが、私にとってはただの「硯山のおじいちゃん」だった。
そのおじいちゃんに、私は今日、泣きつきに来たのだ。結婚して三年になる夫との、のっぴきならない不和について。
「価値観が、あまりにも違いすぎるんです。食べ物の好みから、休日の過ごし方、お金の使い方まで、何一つ合わない。もう、疲れました。相性が悪い、としか思えません」
私が涙ながらに訴えても、先生は眉一つ動かさない。ただ、手元にあるものを、鹿のセーム革でゆっくりと、執拗なまでに磨いている。ちゃり、ちゃり、と金属が立てる微かな音だけが、縁側に差し込む西日の中で響いていた。
先生が磨いているのは、一本の金の首飾りだった。
ずっしりと重厚な、喜平(きへい)のネックレス。
「百合子、お前は凡俗だな」
「え……」
「凡俗の極みだ。相性が良いだの悪いだの、そんなものは恋愛ごっこに興じている若造の戯言だ。夫婦を舐めるな。人生を舐めるな」
先生はそう言うと、磨き上げたネックレスを畳の上に置いた。
夕陽を受けて、それはまるで溶けた黄金の川のように、ぬらりとした官能的な光を放つ。
「これを見ろ。750YG……つまりK18の金無垢だ。比重は15を超える。見掛け倒しのメッキなんぞとはわけが違う。喜平の6面ダブルカット。40センチという短めの寸法は、持ち主が華奢な女だったことを示唆している。重量24.17グラム。幅4.4ミリ。この数字が何を意味するかわかるか?」
唐突な問いに、私は首を横に振ることしかできなかった。
「わからんだろうな。お前にはわかるまい。これはな、美と、強靭さと、歴史そのものだ。ただの装飾品ではない。お前が言う『相性』などという薄っぺらな言葉では到底測れない、凄まじい『摩擦』の物語なのだ」
硯山先生は、その金の鎖を指先でそっとなぞりながら、遠い目をした。その目は、工房の奥にある登り窯の、最も熱い場所で燃え盛る炎の色をしていた。
第一章:喜平という名の鍛錬
「そもそもだ」と、先生は語り始めた。その口調は、弟子に作陶の秘訣を語る時のように、厳しく、そしてどこか楽しげだった。
「この『喜平』という形がどうして生まれたか、お前は知らんのだろう。諸説あるが、もとは騎兵、つまり馬に乗る兵士のサーベルに付いていた鎖だという説が有力だ。戦場で揺られ、ぶつかり合い、それでも決して切れぬ強さが求められた。だから、この一つ一つの輪(コマ)は、ただ繋がっているだけではない。輪を90度ひねり、さらに上下左右の六面を押し潰すように削り出す。そうすることで、面が生まれ、光を複雑に反射し、同時に鎖としての密度と強度が増すのだ」
先生はネックレスを手に取り、私にずいと突き出した。
「持ってみろ」
言われるがままに手のひらに乗せると、見た目の印象を裏切る重みがずしりときた。24グラムという数字以上の、存在の重さ。冷たく、滑らかで、それでいて生命の熱を帯びているかのようだった。
「これは『6面ダブル』だ。一つのコマに、次のコマが二つ掛かっている。シングルよりも密度が高く、目が詰まっている。だからこそ、この4.4ミリという決して大げさではない幅にもかかわらず、これだけの重量と存在感が出る。鋳造(ちゅうぞう)で安直に作るのではない。一つ一つのコマを丁寧に組み上げ、気の遠くなるような工程で削り、磨き上げる。これは宝飾品であると同時に、一種の工芸品だ。武具の末裔としての、機能美と堅牢さを宿している」
先生の指が、留め具の部分を撫でた。
「見ろ。中折れ式のクラスプだ。ここには造幣局の品位証明の刻印と、『K18』の文字がはっきりと刻まれている。嘘偽りのない、本物の証だ。こういう細部にこそ、作り手の矜持が表れる。見せかけだけの虚飾ではない。内側から滲み出る、本質的な価値だ」
私は、ただただその黄金の輝きに見入っていた。今まで、こんな風にジュエリーをまじまじと見たことなどなかった。夫に買ってもらった流行りの華奢なネックレスは、すぐに切れてしまった。修理に出すのも億劫で、引き出しの奥に眠ったままだ。
「お前の言う『相性』とやらは、メッキのようなものだ」
先生の言葉が、私の心に突き刺さった。
「最初の見た目が綺麗で、肌触りが良い。だが、時が経ち、互いに擦れ合ううちに、あっという間に剥がれて地金が見えてくる。そうなると、もうみすぼらしくて見ていられない。お前たちは、その剥がれたメッキを見て『相性が悪かった』と嘆く。愚かしい。実に愚かしい」
先生はネックレスを畳の上に戻すと、すっくと立ち上がった。
「腹が減った。何か作る。お前も手伝え。いや、手伝うな。そこで黙って見ていろ。お前の手際はどうせ雑で、話にならんからな」
その背中は、偏屈な老人のそれだったが、なぜかとても大きく見えた。
第二章:不調和の調和――筍と山椒の饗宴
先生の台所は、工房と同じくらい雑然としていて、それでいて奇妙な秩序があった。壁には年代物の包丁がずらりと並び、土間の隅には炭俵が積まれている。先生はそこから、朝掘りだという泥付きの筍(たけのこ)を一本、無造作に取り出した。
「旬の筍だ。だが、ただの筍ではない。うちの裏の竹林で、私が土の具合から水のやり方まで、徹底的に管理して育てたものだ。スーパーで売っているような、水っぽくてえぐみばかりの代物とは違う」
先生は大きな出刃包丁を手に取ると、穂先を斜めに切り落とし、皮にすっと一本、切れ込みを入れた。そして、まるで赤子の産着を剥がすかのように、一枚、また一枚と皮を剥いでいく。現れたのは、象牙のように白く、艶やかな筍の肌だった。
「これを米糠(こめぬか)と一緒に茹でるのが定石だが、うちの筍にそんな手間は不要だ。えぐみなど、もとより存在せんからな。真に良い素材とは、余計な手を加えさせんものだ」
先生は筍を輪切りにすると、それを土鍋に入れ、昆布と鰹で丁寧にとった出汁、酒、薄口醤油だけで静かに煮始めた。台所に出汁の香りがふわりと立ち込める。私のささくれ立った心が、少しだけ和らいでいくのを感じた。
ご飯は、先生が自ら作ったという信楽焼の土鍋で炊くのだという。米は魚沼の農家から直接取り寄せているコシヒカリ。研ぎ方がまた独特だった。決して米粒同士を強くこすり合わせず、水を張った桶の中で、手のひらで米を掬い上げては落とす、という作業を繰り返す。
「米を研ぐのではない。米の表面のぬかを、水で洗い流すだけだ。力を入れれば、米が割れて旨味が逃げる。何事も、力任せは下の下だ」
やがて炊き上がったご飯は、一粒一粒が真珠のように輝き、蓋を開けた瞬間に甘い香りがほとばしった。先生は、煮上がった筍をそのご飯の上に盛り付け、さらに庭で摘んできたばかりだという青々とした実山椒をぱらりとかけた。
「さあ、食え」
私の前に置かれたのは、先生が作ったという、いびつな形の黒い茶碗だった。備前焼だろうか。土の塊から無理やり刳り出したような、野趣あふれる器だ。その荒々しい器の肌が、白いご飯と淡い色の筍を、まるで一枚の絵画のように引き立てていた。
一口、口に運ぶ。
まず、筍の歯ざわりに驚いた。さくり、という軽やかな音とともに、上品な甘みと出汁の香りが口中に広がる。えぐみなど微塵もない。そして、白米の甘さ。一粒一粒がしっかりとしていて、噛むほどに味が出る。
そこへ、ぴりり、とした衝撃が走った。実山椒だ。
鮮烈な香りと、舌を痺れさせるような刺激。甘く優しい筍ご飯の世界に、突如として投げ込まれた異分子。
普通なら、合わない、と感じるかもしれない。
甘さと、刺激。優しさと、攻撃性。
だが、それは違った。山椒の刺激が、筍と米の甘さを、さらに奥深い次元へと引き上げていく。山椒があったからこそ、筍ご飯の輪郭がくっきりと浮かび上がる。後口は、驚くほどに爽やかだった。
「どうだ。うまいか」
「……はい。すごく……美味しいです。でも、なんだか不思議な味です」
「そうだろうな。お前ならそう言うと思った。筍の甘さと、山椒の刺激。お前の言う『相性』で言えば、最悪の組み合わせかもしれん」
先生は、自分の茶碗に盛られた筍ご飯をかき込みながら、にやりと笑った。
「だがな、百合子。これが『調和』というものだ。似た者同士が寄り添っても、そこに深みは生まれん。甘いものに甘いものを重ねれば、ただくどいだけだ。互いに全く異なる性質を持つものが、一つの器の中でぶつかり合い、反発し合い、そして高め合う。そこにこそ、真の味わいが生まれる。料理も、焼き物も、そして……人間関係もな」
黒く、ごつごつとした茶碗。
白く、つやつやとしたご飯。
甘く、柔らかい筍。
青く、刺激的な山椒。
すべてがバラバラで、不揃いで、相性が悪いように見える。
しかし、それらが私の口の中で一つになった時、えもいわれぬ感動が生まれた。
それは、私が今まで「美味しい」と思ってきたものとは、全く違う種類の体験だった。
第三章:相性の悪い相手と結婚するということ
「皆、勘違いしている」
食後のお茶をすすりながら、先生は再びあの説法のような口調に戻った。
「結婚相手、配偶者とは、一番相性の悪い人間と一緒になるのが道理なのだ」
私は、思わず聞き返した。
「一番、相性の悪い、相手……ですか?」
「そうだ。これ以上ないというくらい、自分とは正反対の、理解しがたい、腹立たしい、どうしようもない相手と一緒になる。それこそが、人間がこの世に生まれてきた意味であり、課せられた修行なのだ」
あまりに突拍子もない理論に、私は言葉を失った。世の中の誰もが、自分と価値観が合い、一緒にいて楽で、居心地の良い相手を求めているというのに。
「考えてもみろ。自分とそっくりな人間と一緒にいて、何が生まれ、何が磨かれる? 楽なだけだ。心地よいだけだ。それは成長ではない。ただの停滞だ。ぬるま湯に浸かって、自分という素材を腐らせているに過ぎん」
先生は、縁側に置かれたままの喜平ネックレスを再び手にとった。
「私の妻……お前の大叔母だな。あの女は、私が人生で出会った中で、最も相性の悪い人間だった」
衝撃的な告白だった。私の知る大叔母様は、いつもにこにこと笑っていて、この偏屈な芸術家の夫を、大きな愛情で包み込んでいるように見えたからだ。
「あの女はな、私の作る器を、一度として『素晴らしい』と言ったことがなかった。『あら、また泥んこ遊びの成果ができたのね』が口癖だった。私が命懸けで窯の火の番をしている時も、『そんなものより、裏の畑の草むしりを手伝ってくださいな』と平気で言う。私が料理の素材の産地にまでこだわるのを、『あなたの舌は贅沢すぎて、かえって可哀想ね』と憐れんだ。私が何かに感動し、その美について熱く語っても、あの女はきょとんとして、『それより、今夜のおかずは何にするんです?』と聞き返す。何一つ、噛み合ったことなどなかった」
先生の声には、不思議な温かみがこもっていた。それは、怒りや諦めではなく、懐かしさと、そして深い愛情の色だった。
「毎日が戦いだった。毎日が理解不能との遭遇だった。腹立たしくて、器を叩き割りたくなったことも一度や二度ではない。だがな、百合子。そのおかげで、私は磨かれたのだ」
「磨かれた……?」
「そうだ。あの女の、俗物としか思えなかった現実的な視点が、独りよがりになりがちな私の芸術に、大地の匂いを与えてくれた。美意識だの哲学だの、そんな雲の上の話ばかりしている私を、地に足の着いた生活という場所へ、何度も何度も引きずり下ろしてくれた。あの女の存在そのものが、私にとっての砥石(といし)だったのだ。荒々しく、硬く、触れれば血が出るような、最高の砥石だ」
先生は、喜平ネックレスの、光を放つ一つの面を指先でなぞった。
「この6面のカットもそうだ。なぜ輝くか。それは、削られているからだ。元はただの丸い線だったものを、六つの方向から刃を当て、削り取る。痛みと引き換えに、輝きが生まれる。人間も同じだ。自分とは全く違う価値観という名の刃で、日々、少しずつ削られていく。自分の常識が、自尊心が、こだわりが、容赦なく削り取られていく。痛いぞ。辛いぞ。だが、その果てに何が残るか。余計な贅肉をそぎ落とされた、人間としての『芯』だ。そして、その芯から放たれる、本物の輝きだ」
「相性の良い相手との結婚は、言ってみれば、柔らかい布で自分を撫でているようなものだ。気持ちはいいが、傷一つ付かない代わりに、輝きも増しはしない。だが、相性の悪い相手との暮らしは、まさに『切磋琢磨』だ。切られ、磋(みが)かれ、琢(う)たれ、磨かれる。その日々の摩擦と衝突こそが、互いを人間として成長させ、魂を輝かせる唯一の道なのだ」
終章:切磋琢磨の輝き
夕日はとっぷりと暮れ、工房は濃い藍色の闇に包まれ始めていた。
先生は、裸電球のスイッチを入れた。
電球の生々しい光の下で、喜平のネックレスは、昼間の太陽の下とはまた違う、深く、妖艶な光をたたえていた。
「このネックレスはな、死んだ妻のものだ」
先生は、静かに言った。
「私がまだ売れない陶芸家で、食うや食わずの生活をしていた頃、あの女が内職で貯めた金で、こっそり買っていたものだ。『いざという時のために』と言っていたが、結局、一度も売ることはなかった。それどころか、私が大きな窯を築くと言って借金を作った時も、これを手放そうとはしなかった」
「あの女は、私の芸術なぞ、これっぽっちも理解していなかった。だが、私が陶芸に命を懸けているということだけは、誰よりも理解していた。そして、守ろうとしてくれた。価値観は合わなくても、根底にある部分で、繋がっていたのかもしれんな」
先生は、ネックレスを私の前に置いた。
「この鎖の輝きはな、ただの金の輝きではない。あの女が、私という相性の悪い男と四十年以上も暮らし、日々、切磋琢磨し続けた末に生まれた、魂の光沢なのだ。一つ一つのコマが、私とあの女だ。ひねくれ、ぶつかり合い、それでも決して離れることなく、互いを磨き続けた。その時間の重みが、この24.17グラムという数字に凝縮されている」
私は、その金の鎖に触れた。
もう、ただの美しい宝飾品には見えなかった。
それは、ある夫婦が生きた、闘いの記録であり、鍛錬の証であり、そして、言葉にはならなかった深い愛情の結晶そのものだった。
「百合子」
先生が、初めて優しい声で私を呼んだ。
「お前の旦那が、どれほど腹立たしい男かは知らん。だがな、お前が『相性が悪い』と感じるその一点にこそ、お前を磨き、輝かせる砥石が隠されているのかもしれんぞ。逃げるのは簡単だ。だが、その砥石から逃げたら、お前は一生、原石のままだ。くすんだ石ころのままで、人生を終えたいか?」
涙が、こぼれ落ちた。
夫との諍いを嘆く涙ではなかった。
自分の浅はかさを恥じる涙でもなかった。
それは、目の前にある黄金の輝きと、先生の言葉が教えてくれた、あまりにも厳しく、そしてあまりにも尊い「夫婦」という名の修行の意味に、心を揺さぶられた涙だった。
相性が悪い。それでいい。いや、それがいい。
あの人を、私の砥石にしよう。
そして、私もまた、あの人にとっての、最高の砥石になってやろう。
傷だらけになってもいい。削られて、削られて、その先に、この喜平ネックレスのような、深く、温かい輝きを二人で放つことができるのなら。
私は顔を上げ、硯山先生に深く、深く頭を下げた。
先生は何も言わず、ただ静かに、酒の支度を始めていた。その横顔は、登り窯の中で炎に焼かれ、歪み、ひび割れ、それでもなお圧倒的な存在感を放つ、自身の最高傑作のようにも見えた。
鎌倉の夜は、静かだった。
私の手の中には、まだ、あの金の鎖の、ずっしりとした重みと、長い時間だけが生み出すことのできる、温かい光沢の感触が残っていた。