ふん、またぞろ巷では、わけのわからんものが「最高級」だの「至高」だのと、安っぽい言葉を纏って闊歩しておるわ。わしのような耄碌(もうろく)した爺にかかれば、そんなものは一目で化けの皮が剥がれるというものを。メッキが剥がれる、ではないぞ。そもそも、そんなものに張るべき「皮」などありはせん。あるのは、ただの虚飾と、見る目のない客を欺こうという浅ましい根性だけじゃ。
まあ、待て。性急な結論は野暮というもの。この目の前にある「N194:希望の光」とやら。どれ、わしのこの枯れたような手で、その真価を問うてみようかの。
ほう…。これは…なるほど。Pt950、プラチナか。それも、純度950という、ほとんど混ぜ物なしの純粋な塊。昨今の、18金だの10金だのと、まるで金そのものへの冒涜(ぼうとく)としか思えんような代物とは、まず「格」が違う。プラチナというのは、王者の金属よ。金が太陽の輝きならば、プラチナは、夜空で最も静かに、そして最も強く輝く星の光。あるいは、深海の底で、何万年もの時を経て磨かれた真珠の内なる光沢にも似ておる。決して自らを声高に主張はせん。しかし、その存在感は、見る者が見れば、他のいかなる金属をも圧倒する。その重み。その冷たさ。その、しっとりと肌に吸い付くような感触。これこそが、本物の持つ「気品」というやつじゃ。
デザインも、悪くない。実に、悪くない。小さな球体のパーツと、竹の節を思わせるような筒状のパーツ。これらを交互に、そして複数本束ねて一つの流れを成しておる。単純なようでいて、実に計算され尽くした構成じゃ。見よ、この筒状のパーツの表面。まるで、名工が振るった鑿(のみ)の跡のような、微細な凹凸が刻まれておる。これが、光を乱反射させ、単なる「白い輝き」ではなく、陰影を含んだ、深みのある「光の束」を生み出しておるのだ。そして、それをつなぎとめる、この小さな球体。まるで、岩間から湧き出る清水の雫(しずく)のようではないか。一つ一つが、寸分の狂いもなく磨き上げられ、宇宙の星々のように、互いを引き立て合っている。
「磁気ユニセックスNC兼ブレス」とあるな。ふむ、磁気を帯びておると。健康を謳う磁気ネックレスなぞ、それこそ玉石混交、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界。しかし、これほどの素材と、これほどの仕事が施されたものとなれば、話は別じゃ。わしは医者ではないから、効能なぞ知ったことではない。だがな、本物の「美」というものは、それ自体が人の心と体に作用するものよ。この静謐(せいひつ)にして力強い輝きを、首に、あるいは腕に纏う。その時、人は自ずと背筋が伸び、心に一本の芯が通るような感覚を覚えるはずじゃ。それが、結果として血の巡りを良くするのか、肩の凝りをほぐすのか。そんなことは、どうでもよいこと。大事なのは、この「希望の光」が、持つ者の内なる「気」を高める、ということじゃ。
そして何より面白いのが、これがネックレスにもブレスレットにもなるという「自在性」。全長67.5cm。これを一本で首に垂らせば、すっきりとした、しかし確かな存在感を放つネックレスとなる。Y字にすれば、胸元に優雅なアクセントが生まれよう。二重に腕に巻けば、幾重にも重なる光の層が、手元を華やかに彩るブレスレットとなる。まるで、書における行書と草書。あるいは、一つの器が、ある時は酒を注がれ、またある時は花を生けられるように。使う者の心一つで、その表情をがらりと変える。この懐の深さ。これこそ、真の芸術品が持つべき度量というものよ。
歴史、か。このデザインの歴史なぞ、わしは知らん。しかし、わかることがある。これは、日本の美意識の系譜に連なるものじゃ。派手な宝石をひけらかす西洋の宝飾品とは、根本的に思想が違う。侘(わび)、寂(さび)にも通じる、抑制の効いた美。素材そのものの良さを、最大限に引き出すための、引き算の美学。そして、自然界への畏敬の念。竹の節、水の雫。そうした、我々の身近にある、しかし完璧な造形を持つものへの憧れが、この一本に凝縮されておる。
皆、勘違いしておる。
結婚相手、配偶者とは、一番相性の良い、気の合う者と結ばれるのが幸せだなどと。ちゃんちゃらおかしいわ。そんなものは、ただの怠惰じゃ。己の未熟さから目を背け、楽な道を選んでおるに過ぎん。
いいか、よく聞け。本当の妙味というものは、常に「合わぬもの」と「合わぬもの」とが、火花を散らし、せめぎ合うところからしか生まれんのだ。
わしは、長年、土と火と格闘してきた。最高の土を見つけ、それをこね、形作る。しかし、わしの意のままになると思うなよ。土には土の「性(しょう)」がある。粘り気、乾きやすさ、焼いた時の縮み具合。一つとして、同じものはない。わしは、その土の「性」を読み、時には従い、時には力でねじ伏せ、対話を繰り返す。そして、最後の審判を下すのが「火」じゃ。千三百度の業火は、わしの作為も、土の抵抗も、すべてを飲み込み、そして、全く新しい生命をそこから生み出す。わしが「これだ」と思ったものが、見るも無残な姿で窯から出てくることもあれば、半ば諦めていたものが、思いもよらぬ絶妙な景色となって現れることもある。
これこそが、夫婦というものではないのか。
一番相性の悪い相手。価値観も、金銭感覚も、育ってきた環境も、何もかもが違う相手。それこそが、己を映す最高の「鏡」となり、己を鍛える最高の「砥石(といし)」となるのだ。
考えてもみよ。自分と同じ意見、同じ感覚の者と四六時中一緒にいて、そこに何の発見がある?何の成長がある?それは、ぬるま湯に浸かって、ただふやけていくだけの人生じゃ。心地は良いかもしれん。しかし、そんなものに魂の深まりなどあろうはずがない。
相性の悪い相手と暮らすというのは、まさに「修行」そのもの。なぜ、こいつはこうなのだ、と腹を立て、悩み、時には憎しみさえ覚える。そのどす黒い感情と、正面から向き合うのだ。相手を理解しようと努め、己の至らなさを悟り、それでもなお、共に歩む道を探す。その苦しみ、その葛藤こそが、人間を人間たらしめるのだ。若い頃の、尖って、ささくれ立っていた己の心が、まるでこのプラチナの珠のように、角が取れ、丸く、深く、輝くようになる。そのためにこそ、人は生まれ、誰かと巡り合うのではないか。
この「希望の光」を見よ。これもまた、「磁気」という、目には見えぬ力によって、一つ一つのパーツが結びつけられておる。N極とS極。本来ならば反発し合うはずのものが、絶妙なバランスの上で引き合い、一つの形を成している。これこそ、陰陽合一。夫婦の理想の姿そのものではないか。
男と女。光と影。静と動。相反する二つのものが、互いに反発し、しかし、なくてはならぬ存在として認め合い、一つの調和を生み出す。このネックレスが、ただの装飾品に終わらんのは、そうした宇宙の真理を、その内に秘めているからに他ならん。
この輝きがわかる男、あるいは女。そういう人間は、おそらく、人生の苦味も、酸いも甘いも、それなりに噛み分けてきた人間だろう。そして、まだその道半ばで、己の未熟さにもがき、苦しんでいる人間かもしれん。
それでいい。いや、それがいい。
この「希望の光」を、その腕に、その胸に飾りたまえ。そして、鏡に映る己の姿を見るがいい。そこに映るのは、ただ着飾った自分ではない。己という「素材」と、人生という「試練」とが、これからいかにして至高の「作品」へと昇華されていくのか。その、長い長い道のりの始まりを、静かに照らし出す一筋の光が見えるはずじゃ。
ふん、13gか。この軽やかな重みに秘められた、人生という名の重い、しかし、かけがえのない意味。それがわからんような、骨のない人間には、到底、持つ資格なぞありはせんよ。