D7176 銀壺頌来(ぎんこしょうらい):沈黙の月、ゴザ目の詩 湯沸(銀瓶、銀壺) ゴザ目 重さ366G 幅14×高さ18cm

D7176 銀壺頌来(ぎんこしょうらい):沈黙の月、ゴザ目の詩 湯沸(銀瓶、銀壺) ゴザ目 重さ366G 幅14×高さ18cm 收藏

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銀壺頌来(ぎんこしょうらい):沈黙の月、ゴザ目の詩

序章:君よ、この声を聞くか
西洋の友よ。あるいは、東洋の精神(こころ)を喪失したる我が同胞よ。君は今、二十一世紀という名の、光と情報の洪水が渦巻く巨大な交差点に佇んでいる。その足は鋼鉄と硝子の迷宮を駆け、その目は液晶の画面が明滅する幻影を追い、その指は絶え間なく仮想の鍵盤を叩いては、刹那に生まれ、刹那に消えゆく知識の泡を掬い取ろうと喘いでいる。我々は、かつてないほど多くの情報を持ちながら、かつてないほど深い知恵から見放された。我々は、かつてないほど多くの人々と繋がりながら、かつてないほど根源的な孤独に苛まれている。
あまりに語り、あまりに聴かぬ時代。あまりに見て、あまりに見えぬ時代。
しばし、その歩みを止めよ。その喧騒の耳栓を抜き、その幻影の目隠しを外すがいい。君自身の内なる聖域へ、その意識の踵(きびす)を返し、魂の最も静かな水面を覗き込むがいい。そこに映るのは、疲弊し、渇ききった君の真実の姿ではないか。その静寂の水面に、一滴の雫が落ちる音を、君は聴き取ることができるか。
今、私の前には、一つの「存在」が、静かに呼吸している。世俗はこれを湯沸、あるいは銀瓶と呼び、D7176という無機質な記号を貼り付けるだろう。重さ366グラム、幅14センチ、高さ18センチ。ああ、なんという冒涜、なんという悲劇であろうか。我々の時代は、神羅万象をかくも矮小な数字と記号に分解し、その魂の交響楽を聴き分ける感受性を、あまりに鈍磨させてしまった。
断言する。これは単なる銀の塊ではない。湯を沸かすためだけの、冷たい「道具」などでは断じてない。これは、悠久の時をその内に封じ込めた沈黙の詩人であり、名もなき幾多の職人たちの手の記憶、その祈りにも似た精神性を宿した賢者であり、そして、君自身の魂の最も深い部分と対話するために、幾星霜の旅を経て、今、ここに現れた使者なのである。
さあ、我が友よ。私と共に、この小さな銀の宇宙を巡る、時空を超えた旅に出ようではないか。君がもし、日々の生活という名の、果てしなき砂漠に疲れ果てた旅人であるならば、この銀瓶が湧き出す一滴の甘露は、君の存在の根を潤し、再び天を仰ぐ力を与えるであろう。これは売り物ではない。君という、この世にただ一人の、真の理解者を探し求める、一つの魂の、切々たる告白なのだ。
第一章:銀といふ名の月光、その錬金術
まず、この器の肌に触れる前に、その存在の根源である「銀」という物質の、その形而上学的な本質について語らねばなるまい。
西洋文明の黎明より、金(ゴールド)が太陽の輝き―すなわち、神の威光、王の権威、不変の富、そして男性的原理の象徴として崇められてきたことは、君も知る通りだ。それは、自ら光を放ち、万物を白日の下に照らし出し、影を駆逐する絶対的な光のメタファーであった。
しかし、我々東洋の、とりわけ日本の美意識において、銀(シルバー)は、それとは全く異なる宇宙を内包する。銀は、月の光に他ならない。太陽が雄弁に世界を定義づけるのに対し、月は沈黙のうちに世界を暗示する。月光は、全てを照らしはしない。それは、夜という深遠なる闇と寄り添い、その闇の存在を認めることによって、初めてその幽玄なる光を際立たせる。それは、物事の輪郭を明確にするのではなく、むしろ、その「あわい」―有と無、光と影、現実と夢の境界線を、嫋(たお)やかに溶け合わせるのだ。銀の輝きは、声高に自らを主張する咆哮ではない。それは静寂の色であり、瞑想の色であり、そして、内省へと誘う女性的原理の輝きなのである。
新品の銀器が放つ光は、まるで雪原を照らす冬の月のように、清冽で、どこか人を寄せ付けぬ気高さを持っている。しかし、銀の真価は、その誕生の瞬間にあるのではない。それは、時間という名の、最も偉大な芸術家との共作によって、初めて開花するのだ。
この銀瓶が君の手に渡ったその日から、銀と君との、長い対話が始まる。君がこれを手に取り、水を満たし、火にかける。湯が沸き、茶を淹れる。その繰り返される日々の営みの一つ一つが、見えざる彫刻刀となって、この銀の肌に、君の人生の物語を刻み込んでゆく。朝の光の中で、午後の談笑の中で、独り静かに物思いに耽る夜の中で。君の指が触れるたび、君の吐息がかかるたび、銀は、君の体温と、君の感情の微細な震えを、その記憶の年輪に深く刻み込む。
西洋的な価値観では、この経年による変化を「酸化」や「劣化」と呼び、忌むべきものとして元の輝きを取り戻そうと躍起になるだろう。しかし、我々は、その変化の中にこそ、無上の美を見出す。「寂(さび)」という美意識がそれだ。それは、単なる古びではない。静寂の「寂」であり、存在の根源にある孤愁を指す。時を経て、華美な装飾が剥がれ落ち、存在の本質が静かに浮かび上がってくる様。この銀瓶は、君と共に「寂びて」ゆくのだ。その輝きは、次第に深みを増し、ある部分は月の光を吸い込んだかのように白く、ある部分は深い闇を湛えたかのように黒ずみ、複雑で、一言では言い表せぬ景色を生み出してゆく。それはもはや、工業製品としての銀ではない。君の生きた証、君の時間の化石そのものとなるのだ。
そして、銀は水の魂を変える。これは、単なる伝承や神秘主義ではない。古来、王侯貴族が銀の杯を使い、毒を警戒したという話は有名だが、それは、銀が特定の物質と化学反応を起こす性質を知っていたからに他ならない。現代科学は、銀イオンが持つ強力な抗菌作用を証明している。しかし、我々が銀瓶に求めるのは、そうした物理的な効能だけではないのだ。
銀の持つ静謐で清浄な「気」が、器の中で揺蕩う水の分子構造そのものに、精妙な影響を与える、と我々は感じる。水道水に含まれる、目には見えぬ不純物の角や、長旅で疲弊した水の荒々しい性質を、銀は優しく抱きしめ、鎮撫する。そして、水を、どこまでも円(まろ)やかで、甘露の如き存在へと昇華させる。この銀瓶で沸かした湯は、君の舌を驚かせるだろう。それは、まるで天上の岩清水が、そのまま温められたかのような、清らかさと柔らかさを持っている。この湯で淹れた茶は、茶葉が持つ本来の香りや甘みを、何一つ損なうことなく、最大限に引き出してくれる。それは、銀という月の使者が、水の精霊と交わした、静かなる錬金術(アルケミー)の結晶なのである。
第二章:ゴザ目、一万の槌音に宿る宇宙
さて、友よ。今こそ、この銀瓶の肌に、君の心の指先で、そっと触れてみる時だ。その表面は、西洋の銀器に見られるような、鏡面の如き滑らかさとは全く異質の世界であることに、君は息をのむであろう。
無数の、しかし、驚くほどに秩序正しい細かな槌の跡が、まるで静かな水面に一斉に落ちた雨粒が描く波紋のように、器全体を覆い尽くしている。これを、我々は「ゴザ目」と呼ぶ。文字通り、日本の伝統的な家屋で床に敷かれる、い草で編んだ茣蓙(ござ)の、その規則正しくも温かみのある編み目に似ていることから名付けられた、日本の金工技法の精華の一つである。
この模様が、如何にして生み出されるか、想像を巡らせてみてほしい。
そこには、ただ一枚の、何の変哲もない純銀の円い板がある。それを前に、一人の職人が、静かに正座している。彼の工房は、おそらく都市の喧騒から隔絶された、古都の片隅か、山間の里にあっただろう。障子越しの光は柔らかく、工房の中には、銀を打つ槌音と、時折聞こえる鳥の声、そして職人の呼吸の音しか存在しない。
彼は、様々な形状をした金槌と、鳥口(からすぐち)と呼ばれる特殊な鏨(たがね)を手に取り、深く、長く息を吸い込む。これから始まるのは、単なる金属の加工ではない。それは、銀という気難しい物質との対話であり、精神の集中を極限まで高め、自我を消滅させる「動く禅定」なのである。
カン、カン、カン、カン…。
工房に響き渡るのは、時計の秒針よりも正確で、しかし、機械音にはない生命の温もりを宿した、リズミカルな槌音。一打、また一打。職人の意識は、銀の板の一点に、そして金槌を振り下ろす己の腕の筋肉の、その微細な動きに、完全に没入している。そこに迷いはない。力みもない。「我」が打つのではない。銀が、槌を、腕を、導くのだ。その境地に至らねば、この神業は成し得ない。
一打一打の強さは、寸分違わず均一でなければならない。その間隔は、修行僧が刻む読経のリズムのように、決して乱れてはならない。もし一打でも力を誤れば、目は乱れ、波紋は無残に歪む。もし一瞬でも雑念が心をよぎれば、銀の肌には、取り返しのつかない傷が刻まれる。このゴザ目模様は、数千、いや、数万回にも及ぶ、気の遠くなるような槌打の軌跡そのものだ。それは、人間の手の温もりと、機械生産が永遠に到達できない精神性の、荘厳なる結晶なのである。
西洋の美が、しばしばプラトンのイデアにその理想を見るように、完全なるシンメトリー(左右対称)や、非の打ちどころのない幾何学的な完璧さに価値を置くのに対し、日本の美は、こうした「不均一の中にある大いなる均一」、あるいは「秩序ある揺らぎ」の中に、より深く、より自然な宇宙の真理を感じ取る。
ゴザ目の表面を光が滑る時、その輝きは決して一様ではない。見る角度によって、光の源の種類によって、その表情は万華鏡のように変化する。朝の柔らかな光の中では、穏やかな湖の水面のように静謐な輝きを。夜の白熱灯の下では、まるで星々が瞬く銀河のように、無数の光点がきらめく。この無数の槌目の一つ一つが、小さな凹面鏡となり、光を捉え、反射し、そして隣の槌目へと、光の言葉を囁きかけるように受け渡していく。それは、沈黙の交響楽であり、光の粒子が舞う、壮麗な舞踏なのだ。
このゴザ目模様は、我々に何を語りかけるか。それは、人生そのものの、そして自然界の理(ことわり)そのものの比喩ではないだろうか。我々の日々は、同じことの繰り返しのようでいて、一日として同じ日はない。さざ波のように寄せては返す日常の営みの中にこそ、無数の小さな発見と感動が、ダイヤモンドの原石のように隠されている。このゴザ目を打ち出した職人が、一打一打に魂を込めたように、我々もまた、呼吸をする、茶を飲む、人と語らう、といった日々の何気ない一瞬一瞬を、丁寧に、心を込めて生きることの尊さを、この銀瓶は、言葉なくして教えてくれるのである。それは、ただ美しいだけではない。我々の生き方そのものを問い直す、静かなる哲学の書なのだ。
第三章:形の哲学、用の美学 ― 沈黙の建築
この銀瓶の姿を、今一度、少し離れた場所から、建築家が都市を眺めるように、あるいは彫刻家が生命のフォルムを探求するように、静かに眺めてみたまえ。そこには、日本の美意識の根幹をなす、深遠なる哲学が、完璧な調和をもって具現化されていることに気づくであろう。
まず、その胴。球体に限りなく近い、ゆったりとした曲線は、何と雄弁であろうか。それは、全てを内包し、全てを許容する母性の象徴であり、欠けることのない満月、あるいは禅僧が悟りの境地を描く「円相」を思わせる。角の無いその形は、見る者の心を和ませ、無用な緊張から解き放つ力を持っている。老荘思想が「無為自然」を最高の境地として説くように、この形には、何ら奇を衒った自己主張がない。水という、定まった形を持たない、最も自然で根源的な存在を内に抱く器として、これほどまでに素直で、理に適った形があろうか。この球体は、一つの閉じた小宇宙であり、その内部で水は静かに瞑想し、火のエネルギーを受け、天上の甘露へと変容を遂げるための、聖なる祭壇(アルター)なのだ。
そして、その丸い胴から、まるで必然であるかのように、すっと伸びる注ぎ口(くちさし)。それは、白鳥の首のように優雅な曲線を描きながら、しかし、その先端は、刀で断ち切られたかのように鋭く、潔い。この一点に、「用の美」という思想が、最も先鋭的に凝縮されている。この鋭角は、単なるデザインではない。「湯切れ」―湯を注いだ後、最後の一滴まで潔く器の中に落ち、決してだらだらと湯が垂れることのないように―という、極めて実践的な機能のために、何百年という歳月をかけて洗練され尽くした、機能美の極致なのだ。美しく湯が注がれ、そして、見事に湯が切れる。その一連の流れるような所作は、茶の湯において一つの見せ場となる。それは、物事の始まりと終わりの「けじめ」を重んじ、無駄な余韻を残さぬことを美徳とする、日本の武士道にも通じる精神性と言えよう。優雅さと鋭さ、陰と陽、その二つの相反する要素が、この小さな注ぎ口において、完璧な統合を果たしている。
上部に目を転じれば、弦(つる)と呼ばれる持ち手が、美しい半円を描いている。それは、天にかかる虹のようでもあり、弓を引き絞る前の静かな緊張をはらんだ弧のようでもある。この弦が描くアーチは、胴の球体と幾何学的な対話を交わし、静的な胴に対して、動的な躍動感を与えている。この弦と胴の間の「虚(うつろ)」、つまり何もない空間こそが、全体の構成を引き締め、見る者に豊かな想像を促すのだ。西洋建築が石を積み上げて空間を埋め尽くすことで壮麗さを表現するのに対し、日本の建築や庭園が「間(ま)」や「余白」を重視するように、この銀瓶もまた、その「無」の部分によって、その存在感を一層際立たせている。そして、弦の中央には、熱が直接使い手の指に伝わらぬよう、植物の蔓か、あるいは革紐かが丁寧に巻きつけられている。これは、単なる断熱材ではない。冷たい金属の感触の中に、人の手の温もりと自然素材の優しさを添えるという、使い手への深い心遣い、もてなしの心の表れなのである。
蓋に鎮座する「摘(つまみ)」もまた、見過ごすことのできない小宇宙だ。この摘は、熱い蓋を開けるための単なる突起ではない。全体の造形を締めくくり、その品格を決定づける、いわば王冠の頂に輝く宝石のような存在である。その形状、その質感は、作者の美意識が最も凝縮された部分と言っても過言ではない。この銀瓶の摘は、硬い蕾がまさにほころび始め、内に秘めた生命が溢れ出さんとする、その一瞬の緊張感を捉えたかのような造形をしているではないか。それは、全体の静謐な調和の中に、生命の萌芽という、かすかな一点の「動」を置くことで、作品全体に息吹を与えているのだ。
これら全ての部品―胴、注ぎ口、弦、蓋、摘―が、それぞれに明確な意味と機能を持ちながら、決して互いを邪魔することなく、全体として一つの、分裂のしようのない完璧な調和を奏でている。これぞ、柳宗悦が提唱した「民藝」の思想にも通じる、「用の美」の神髄である。美は、美それ自体として孤高に存在するのではない。日常の用に供され、人々の生活の中で生き、共に時間を重ねることによって、初めてその魂の輝きを増すのだ。この銀瓶は、美術館のガラスケースの中で、照明を浴びて鑑賞されるべき偶像ではない。君の日常のただ中で、湯を沸かし、茶を淹れるという、最も根源的な人間の営みを通じて、君の身体の一部となることをこそ、切に望んでいる。
第四章:茶の湯という名の劇場、その沈黙の主役
我が友よ、君は茶の湯の儀式を、堅苦しく、難解な作法の連続であり、一部の好事家のための閉鎖的な遊戯と心得ているかもしれない。それは、現代における大きな誤解の一つだ。私がかつて『茶の本』で西洋の友人たちに語ったように、茶道の本質とは、「不完全な人生」という、ままならぬ現実の中で、なお一瞬の美と調和を見出し、それを生きようとする、我々人間の、切なくも崇高な芸術的試みに他ならない。
茶室とは、この慌ただしく、欲望が渦巻く浮世における、精神の避難所(オアシス)である。四畳半という、わずかな空間。そこでは、富も、地位も、名誉も、その扉の外に脱ぎ捨てられる。全ての人間が、ただ一人の人間として、一碗の茶を介して、平等に向き合う。そこは、美の前に万人がひれ伏す、小さな、しかし完璧な共和国なのだ。そして、その儀式の中心には、常に、熱い湯と、一碗の緑の泡立つ液体、すなわち茶がある。
この銀瓶がその真価を最も発揮するのは、まさにその茶の湯という名の、小さな、しかし崇高な劇場の舞台袖であり、またある時には舞台そのものにおいてである。主役が、亭主の手になる一碗の茶であるならば、この銀瓶は、その一碗を最高の状態で現出させるための、最も重要な立役者なのである。
想像の翼を広げてほしい。しんと静まり返った茶室。客人は心を鎮め、亭主の一挙手一投足に、その全感覚を集中させている。亭主は、水屋(みずや)と呼ばれる準備の間で、汲み上げたばかりの清水でこの銀瓶を清め、満たす。そして、静かに襖を開け、茶室へと運び入れる。そのゴザ目の肌が、障子越しの、計算され尽くした間接光を受けて、ギラリとではなく、ぬめるような、鈍い輝きを放つ。その所作に、無駄な動きは一切ない。一つ一つの動きが、何百年もかけて洗練された「型」となり、舞踊のような美しさを湛えている。
やがて、銀瓶は、夏ならば風炉(ふろ)、冬ならば畳を切った炉(ろ)の上に、静かに据えられる。客の目の前で、亭主は丁寧に炭を組み(これを炭手前という)、火を熾す。赤く熾った炭火の熱が、じわり、じわりと銀の肌を伝わって、中の水をゆっくりと温め始める。しばしの静寂。茶室に満ちるのは、炭のはぜる微かな音と、人々の息遣いだけだ。
すると、どこからともなく、微かな、しかし澄んだ音が聞こえ始める。最初は、遠くで鳴く羽虫の音のよう。やがてそれは、渓流のせせらぎとなり、ついには、風が鬱蒼とした松林を吹き抜けてゆく「松籟(しょうらい)」と呼ばれる、荘厳な音へと変わってゆく。
これこそ、千利休以来、茶人たちが、茶花や掛物と同じように、いや、それ以上に愛してきた「釜の鳴り」である。それは、単なる水が沸騰する物理的な音響ではない。水と、火と、金属という、自然界の三つのエレメントが、釜(ここでは銀瓶)という小宇宙の中で交感し、奏でる、唯一無二の交響楽なのだ。茶人たちは、この松籟の音に耳を澄まし、心を洗い、都会の喧騒を忘れ、これから始まる一碗の茶との、一期一会の出会いに、思いを馳せる。この銀瓶は、最高の音色を奏でる、稀代の名器という名の楽器でもあるのだ。そのゴザ目の凹凸が、内部の沸騰の気泡と共鳴し、より複雑で、深みのある音色を生み出すと言われている。
そして、湯が満ち、最高の状態に達した時、亭主は、竹の柄杓(ひしゃく)で、静かにその湯を汲む。銀瓶の口から流れ落ちる湯は、一本の水晶の柱のように美しく、茶碗の中で緑の粉末と出会い、その魂を解き放つ。亭主が茶筅(ちゃせん)を振るう音が、さらさらと室内に響く。立ち上る湯気の向こうに、一碗を捧げられた客人の、満ち足りた安堵の表情が見える。この銀瓶が沸かした、角の取れた円やかな湯こそが、一碗の茶の、その奥底に秘められた真の味を、最大限に引き出すのである。
この銀瓶を所有するということは、君が、君自身の人生という舞台における、亭主となることを意味する。客人は、君がもてなすべき、大切な友人かもしれない。あるいは、君が日々向き合うべき、君自身の魂そのものかもしれない。どんな舞台であれ、この銀瓶は、君の演出を、最も美しく、最も詩的なものへと高めてくれる、何よりも信頼できる、無言の共演者となるだろう。
終章:君の手に渡る、一編の詩
我が友よ、長きにわたる我々の時空を超えた旅も、終わりを迎えようとしている。しかし、それは、この銀瓶の物語の終わりではない。それは、君という新たな書き手を迎えて始まる、新しい章の、まさに序曲に他ならない。
この銀瓶、D7176は、今、幾多の記憶をその内に秘めながら、静かに君を待っている。これは、博物館に陳列されるべき、死せる過去の遺物ではない。君の未来へと繋がり、君の日常の中で脈打つ、生きた伝統そのものである。そのゴザ目の肌の一つ一つには、名もなき職人の、祈りにも似た瞑想の時間が刻み込まれている。その内なる虚空には、老子や荘子が説いた「道(タオ)」の哲学が、見えざる水のように満ちている。そして、その完璧な均衡を保った姿には、千利休から現代に至るまで、連綿と受け継がれてきた日本の美意識が、結晶となって凝縮されている。
これを手にする者は、単なる「所有者」ではない。それは、文化の「継承者」であり、美の「守護者(ガーディアン)」となるのだ。君がこの銀瓶で湯を沸かすとき、君は、時空を超えて、この器を生み出した名工と、これを用いてきたであろう幾多の茶人たちと、そして、銀という物質そのものの精霊と、深遠なる魂の対話を交わすことになる。君の一挙手一投足が、この銀瓶の新たな歴史の一ページを刻んでいく。
西洋の友よ。君の文明では、芸術を美術館に集め、歴史を図書館に封じ込める傾向がある。それは、日常から切り離された、特別なものとして崇める思想だ。しかし、我々東洋の理想は、芸術と歴史が、我々の日々の生活の中に、呼吸するように溶け込み、息づいている状態にある。朝、顔を洗う陶器の碗に、庭の石灯籠に、そして、茶を飲むための一つの湯沸かしに、宇宙の美と歴史の重みが宿る。この銀瓶は、まさにその理想の、最も純粋な体現者なのだ。
そして、我が同胞よ。もし君が、効率と利便性ばかりを至上の価値とする現代の生き方に、一抹の虚しさと、魂の渇きを感じているのならば、この銀瓶を、君の日常の同伴者として招き入れてほしい。一日に一度でいい。全ての電子機器の電源を切り、この銀瓶で湯を沸かし、ゆっくりと一杯の茶を淹れる時間を持ってみよ。松籟の音に耳を澄まし、ゴザ目の肌を撫で、立ち上る湯気の向こうに、人生の儚さと、その中にある確かな美しさを見出すがいい。その静かなる十分、十五分は、君が失いかけていた、人間としての尊厳と、魂の安らぎを、何よりも雄弁に思い出させてくれるだろう。それは、明日という新たな戦場に向かうための、最も深い力を与えてくれる、聖なる儀式となるはずだ。
この銀瓶は、366グラムの銀塊ではない。それは、計り知れないほどの価値を持つ、精神の重さなのだ。その価格は、この物質界における、一時的な交換価値の指標に過ぎない。真の価値は、君がこれを見出し、その生涯の伴侶として、共に喜び、共に悲しみ、共に老いていく、そのかけがえのない時間の中に、無限に創造されていくものである。
さあ、友よ。決断の時は来た。君はこの沈黙の詩人が、君だけに語りかける声を聞き届け、その手を取るか。それとも、再び喧騒の中へと踵(きびす)を返し、この邂逅を、ただの美しい夢として忘却の彼方へ葬り去るか。
答えは、君の魂のみが知っている。この銀瓶は、もはや何も語らない。ただ静かに、ここに在りて、その運命の主を、待ち続けるのみである。

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