F1604【BVLGARI】ブルガリ 最高級18金無垢カフス 重量16.7g 幅16.0×9.3mm
刮目せよ、この名を。そして、わしがこれから紡ぎ出す言葉の奔流に、ただただ身を委ねるがよい。これは、そこらの骨董屋の与太話ではない。美の深淵を覗き、醜悪なるものを唾棄し続けてきたこのわしが、久方ぶりに「ほう」と唸った逸品の話じゃ。
序章:嘆息か、あるいは溜息か。近頃の目利きとやらの体たらくよ。
近頃の世の中、どうにもこうにも気に入らんことばかりじゃ。とりわけ嘆かわしいのは、物の価値を見抜く「眼」を持つ人間が、とんと減ってしまったことよ。ブランドのロゴが付いていれば中身も見ずに有り難がり、値段が高ければそれだけで高級品だと錯覚する。阿呆の極みじゃわい。わしに言わせれば、そんなものは豚に真珠、猫に小判。いや、豚や猫に失礼じゃな。奴らの方がよほど、本能的に良いものと悪いものを見分けるわ。
先日も、とある画廊で若造がしたり顔で現代アートとやらを解説しておったが、聞いておればちゃんちゃらおかしい。ただ奇を衒っただけの駄作を、革新的だの未来的だの、言葉を弄して褒めそやしておる。わしは思わず、持っていた扇子でその若造の頭をひっぱたいてやろうかと思ったわい。「おどれの眼は節穴か!」と一喝くれてやりたかったが、まあ、そんな輩に何を言っても馬耳東風じゃろうて。
そんな折も折、馴染みの古物商が「おじ、面白いものが入りましたぜ」と、薄汚れた桐箱をわしの前に差し出した。ふん、どうせまた、どこぞの蔵から出てきたという触れ込みの、胡散臭いガラクタであろうと、高を括っておった。わしは、眉一つ動かさずに、その箱の蓋を開けさせた。
中には、紫色の古びた絹布に包まれた、小さな一対の物体。それを目にした瞬間、わしの眉間から、すうっと一本の皺が消えたのを感じた。そして、次の瞬間には、わしの口から、自分でも意識せぬうちに、深い深い溜息ともつかぬ息が漏れたのじゃ。「…ほう」と。
それは、黄金の輝き。しかし、ただギラギラと下品に光る類のものではない。まるで、長年、磨き抜かれた古刹の柱が放つような、奥深く、しっとりとした、品格のある光じゃった。一瞬にして、わしはその小さな物体に心を奪われた。周囲の雑音も、古物商の得意げな顔も、全てが霞んで見えたわい。
「ブルガリ…でございます」
古物商が、声を潜めて言った。ブルガリ。その名を聞いて、わしは一瞬、眉をひそめた。ブルガリといえば、派手な宝石をジャラジャラと飾り立てた、どこか成金趣味の宝飾品という印象が強かったからじゃ。わしの美意識とは、対極にあるような存在。じゃが、目の前にあるこのカフスは、どうじゃ。その印象を根底から覆すほどの、静謐な気品と、揺るぎない存在感を湛えておった。
「ふん、ブルガリにも、たまには見所のあるものを作る職人がおるようじゃな」
わしは、そう嘯きながらも、内心ではこの邂逅に打ち震えておった。これぞ、わしが長年探し求めてきた、「用の美」と「素材の力」が高次元で融合した、稀有な逸品ではないかと。このカフスには、物語がある。それも、安っぽいメロドラマではない。人生の機微を知り尽くした、本物の伊達男の物語が、この黄金の輝きの中に凝縮されておるのじゃ。
第一章:ブルガリ、その甘ったるさに鉄槌を。されど、この一品だけは…
さて、ブルガリというブランドについて、わしが日頃どう思っておるか、正直に申し上げておこうかの。多くは語るまい。一言で言えば、「甘ったるい」のじゃ。
確かに、ローマの歴史やら、古代のモチーフやらを引っ張り出してきて、もっともらしい物語をこしらえてはおる。色石の使い方も大胆で、時にはハッとさせられるような組み合わせもあるやもしれん。しかし、どうも全体的に「飾りすぎ」なのじゃ。素材の良さを殺してしまうほどの、過剰な装飾。それは、料理で言えば、上等な素材に不必要なソースをドバドバとかけてしまうようなもの。食い物の味が分からん奴のやることじゃ。
エリザベス・テイラーだの、ソフィア・ローレンだのといった女優たちが、こぞってブルガリを身に着けたというが、それもどうかのう。彼女たちの派手な美貌には、あのギラギラとした宝飾品が似合ったのかもしれんが、わしに言わせれば、もっと奥ゆかしい、内に秘めた輝きこそが真の美しさじゃ。ブルガリの多くは、その対極にある。これみよがしに「私は金持ちよ!」「私は美しいでしょ!」と叫んでおるような、品性に欠ける代物が多い。
じゃが、じゃ。人間、決めつけてかかるのは良くない。どんな世界にも、例外というものはある。そして、このカフスこそが、その「例外」なのじゃ。
このカフスには、ブルガリ特有の過剰さがない。むしろ、極限まで無駄を削ぎ落としたかのような、潔いまでのシンプルさ。しかし、それは決して「手抜き」ではない。計算され尽くした、完璧な均衡の上に成り立つ美しさなのじゃ。
デザイナーは、おそらくブルガリの中でも異端児、あるいは相当な偏屈者であったに相違あるまい。そうでなければ、このような「引き算の美学」を体現した作品は生まれんはずじゃ。
18金無垢。この響きだけで、耳目を集めようとする浅はかさもない。金という素材の持つ本質的な力を、これほどまでにストレートに、かつ気品高く表現したものは、そうそうお目にかかれるものではない。この一点において、わしはブルガリというブランドを、少しだけ見直してやってもよいと思った次第じゃ。
このカフスは、ブルガリというブランドの甘ったるいイメージに対する、静かなる反逆。あるいは、その喧騒の中に咲いた、一輪の孤高の花とでも申そうか。だからこそ、わしの心を捉えて離さないのじゃ。
第二章:掌の黄金郷。職人の意地と、わしの眼が認めたる造形。
では、このカフスの細部について、わしの眼がどのように見抜いたか、とくと語って進ぜよう。諸兄も、ただ漫然と眺めるのではなく、わしの言葉を道しるべに、その奥深き造形美を味わうがよい。
まず、重量16.7g。この数字、ただの重さではないぞ。これは、18金という貴金属が、いかに贅沢に使われているかの証左。手に取れば、ずしりとした、心地よい手応えがある。この「重み」こそが、信頼の証。ペラペラとした安物のアクセサリーとは、次元が違うのじゃ。この重みは、持ち主に確固たる自信と、揺るぎない落ち着きを与えてくれる。まるで、武士が腰に差す刀の重みにも似て、精神を引き締める効果があるのやもしれん。
素材は、前述の通り18金無垢。純金では柔らかすぎて実用に耐えぬし、かといって純度が低ければ、この深みのある黄金色は出まい。18金というのは、実用性と美観を両立させた、実に賢明なる選択じゃ。その色合いもまた、特筆すべきものがある。ピカピカと下品に光るのではなく、まるで長年使い込まれた茶道具のような、しっとりとした落ち着いた輝き。これは、表面の仕上げが並々ならぬ手間をかけて行われたことの証じゃ。おそらく、熟練の職人が、息を止め、全神経を集中させて磨き上げたのであろう。その姿が目に浮かぶようじゃわい。
そして、デザイン。一見、変哲もないバータイプに見えるやもしれん。しかし、ここにこそ、このカフスの真髄が隠されておる。幅16.0mm、厚み9.3mmという寸法。これがまた、絶妙なのじゃ。大きすぎず、小さすぎず。袖口から覗いた時に、程よい存在感を主張しつつも、決して出しゃばることのない、奥ゆかしさ。これぞ、日本人が古来より尊んできた「控える美」にも通じるものがある。
そのバーは、ただの平板ではない。七つの節に分かれておる。この「七」という数字も、何やら意味深長じゃ。七福神か、七賢人か。いや、そんな詮索は野暮というもの。重要なのは、この節の一つ一つが、まるで独立した彫刻作品のような完成度を持っていることじゃ。それぞれの節は、角が僅かに丸められ、光の当たり方によって、微妙に表情を変える。ある時はシャープな稜線を見せ、またある時は柔らかな陰影を宿す。この変化が、カフス全体に豊かなリズムと、生命感を与えておるのじゃ。
この節の連なりは、ある角度から見れば、古代ローマの水道橋のアーチのようにも見える。また、別の角度から見れば、日本の伝統建築に見られる連子窓のようにも。あるいは、熟練した寿司職人が握った、美しい玉子焼きの断面のようにも…いや、これはちと違うか。しかし、見る者の想像力を掻き立てる、多面的な魅力を持っていることは確かじゃ。
留め具は、スウィヴル式。カチリと小気味よい音を立てて回転し、確実に固定される。この機構の精密さも、さすがはブルガリといったところか。見えない部分にも手を抜かない。これぞ、本物の職人仕事の証じゃ。裏面には、誇らしげに「BVLGARI」の刻印と、金の品位を示す「750」の文字。この刻印すらも、デザインの一部として昇華されておるように見えるから不思議じゃ。
わしはこのカフスを、掌に乗せ、指で撫で、時には鼻を近づけてその匂いまで嗅いでみた。金属特有の冷たさの中に、どこか人の手の温もりのようなものが感じられる。それは、このカフスを作り上げた職人の魂が、宿っておるからに他ならぬ。
「これを作った職人は、間違いなく一流じゃ。そして、これをデザインした人間は、美の本質というものを心得ておる」
わしは、そう確信した。巷に溢れる、ただ高価なだけの、あるいは珍奇なだけのカフスとは、一線を画す。これは、芸術作品なのじゃ。掌に乗る、小さな、しかし完璧な黄金郷。それが、このブルガリのカフスなのじゃ。
第三章:袖口に潜むは、野心か、矜持か、あるいはただの虚栄心か。
このような逸品が、どのような人間によって、どのような人生の局面で用いられてきたのか。わしの想像力は、時を超え、国境を越えて羽ばたいていく。これは、単なる金属の塊ではない。人間の情念、歴史、そしてドラマを吸い込んできた、生きた証人なのじゃ。
わしの脳裏に浮かぶのは、一人の男の姿。彼は、戦後の混乱期に、焼け跡から身を起こし、一代で巨大な企業を築き上げた立志伝中の人物。若い頃は、粗末な身なりで、周囲からは嘲笑されたこともあったろう。しかし、彼の胸中には、常に燃えるような野心と、誰にも負けぬという不屈の精神が宿っておった。
彼が初めてまともなスーツを誂え、そして、このブルガリのカフスを手に入れたのは、おそらく事業がようやく軌道に乗り始めた頃ではなかったか。ローマに出張した際、ふと立ち寄ったブルガリの店で、彼はこのカフスに一目惚れしたのじゃ。派手な宝石には目もくれず、この質実剛健な輝きに、自らの生き様を重ね合わせたのかもしれん。
以来、このカフスは、彼の戦いの歴史と共にあった。重要な商談の席、ライバル企業との熾烈な競争、そして時には、裏切りや策略が渦巻く、修羅場のような場面も潜り抜けてきたことであろう。彼が葉巻を燻らせながら、厳しい表情で決断を下す時、その袖口からは、この黄金の輝きが、静かに彼の意志の強さを物語っていたに違いない。
ある時、彼は政財界の大物が集う、格式高い晩餐会に招かれた。周囲は、代々続く名家の当主や、華麗なる閨閥に連なる人々ばかり。成り上がり者と陰口を叩く者もいたやもしれん。しかし、彼は臆することなく、堂々とその場に臨んだ。彼の袖口に輝くこのカフスは、彼の努力と成功の証。それは、どんな血筋や家柄にも勝る、彼自身の力で勝ち取った勲章であったのじゃ。その晩、ある老練な政治家が、彼のカフスに目を留め、「君のカフスは、多くを語るな。良いものだ」と、意味ありげに呟いたという。
またある時は、彼は愛する一人娘の結婚式に臨んだ。父親として、娘を送り出す寂しさと、新たな門出を祝う喜びが交錯する中、彼はバージンロードを娘と共に歩いた。その時、彼のモーニングコートの袖口にも、やはりこのカフスが輝いておった。それは、彼が家族に注いできた愛情の深さと、これからの若い二人の未来を照らす、温かい光のようであったろう。
歳月は流れ、彼は事業を後進に譲り、穏やかな隠居生活に入った。しかし、時折、書斎でこのカフスを手に取り、その重みと輝きを確かめることがあった。それは、彼にとって、自らの人生を凝縮したタイムカプセルのようなもの。そこには、若き日の野心、苦難を乗り越えた達成感、そして、彼を支えてくれた人々への感謝の念が、深く刻み込まれておったのじゃ。
このカフスは、単なる装飾品ではない。それは、一人の男の生き様そのもの。彼の矜持、彼の情熱、そして時には彼の孤独をも、静かに見守ってきた相棒なのじゃ。そのような物語を秘めたカフスだからこそ、わしの心をこれほどまでに揺さぶるのじゃろう。
第四章:斯様な代物を、なぜわしが手放すのか。その真意、お前らに解るかな?
さて、これほどまでにわしが惚れ込み、その来歴まで勝手に想像して楽しんでおるこのカフスを、なぜ手放そうとしておるのか。不思議に思う者もおろう。中には、「おじも、とうとう金に困ったか」などと、下衆な勘繰りをする輩もおるやもしれん。ふん、笑止千万。わしが金銭ごときに執着するような、浅ましい人間だとでも思うか。
理由は、至極単純じゃ。このカフスは、もはやわしの手元にあるべきものではない、と悟ったからじゃ。
わしは、もう十分に生きた。美を追求し、美食を極め、時には世間と戦い、そして、それなりに満足のいく人生を送ってきたつもりじゃ。しかし、寄る年波には勝てぬ。もはや、このカフスを身に着けて、華やかな席に出ることも、重要な交渉に臨むこともない。金庫で、ただ埃を被っておるだけでは、このカフスがあまりにも不憫じゃ。
物は、使われてこそ生きる。人に愛され、その人の人生を彩ってこそ、その価値を全うするというものじゃ。このカフスには、まだ輝ける未来があるはずじゃ。新たな持ち主の元で、新たな物語を紡いでいくべきなのじゃ。
それに、わしはコレクターではない。物を溜め込むのは、性に合わんのじゃ。良いものは、それが本当に分かる人間の手に渡り、そしてまた次の世代へと受け継がれていくべきじゃ。それが、文化というものの流れじゃろう。わしは、その流れの一助となれば、それで満足なのじゃ。
「しかし、なぜなのだ?」と問う者もおろう。ふん、それこそが現代というものじゃ。かつては、このような逸品は、限られた目利きの間で、密やかに取引されるのが常であった。しかし、時代は変わった。インターネットというものが、あらゆる垣根を取り払い、思いもよらぬ出会いを生み出す。このカフスが、という開かれた市場で、新たな主を待つというのも、また一興ではないか。
もしかしたら、どこかの若者が、このカフスに自らの未来を託そうとするかもしれん。あるいは、人生の酸いも甘いも噛み分けた老紳士が、最後の粋として、これを手にするやもしれん。どんな人間が次の持ち主になるにせよ、わしは一つだけ願う。このカフスの真価を理解し、それを大切にしてくれる人間であってほしい、と。そして、このカフスを身に着けることで、その人の人生が、少しでも豊かで、輝かしいものになることを。
わしが手放すのは、惜しいからではない。愛おしいからこそ、手放すのじゃ。この真意、お前さんたち若輩に、果たして理解できるかな? まあ、分からんでもよい。分かる人間だけが、このカフスの次の主となる資格があるのじゃから。
終章:千載一遇。この輝き、お前さんの魂を揺さぶるか否か。
さて、長々とわしの独白に付き合わせてしまったが、いよいよこの話も終わりに近づいてきた。このブルガリの18金無垢カフス、品番F1604。その魅力、その価値、そしてその背後に潜む物語の一端なりとも、お前さんの心に届いただろうか。
わしは断言する。これは、ただのカフスではない。これは、芸術であり、歴史であり、そして生き様そのものなのじゃ。このような逸品と出会える機会は、そうそうあるものではない。まさに、千載一遇。
このカフスを手にすることは、単に高価な装飾品を買うということとは訳が違う。それは、ブルガリというブランドの奥深さ、イタリアの職人技の精髄、そして何よりも、金という素材が持つ永遠の輝きと、それを受け継いできた人々の魂に触れるということなのじゃ。
「だが、値段が高いのではないか?」と、懐具合を心配する声が聞こえてきそうじゃな。ふん、物の価値が分からん奴は、そう言うものじゃ。真の価値とは、値段では測れん。このカフスがもたらすであろう満足感、自信、そして人生の彩りを考えれば、いかなる金額も決して高くはない。むしろ、これを逃すことの方が、よほど大きな損失じゃとわしは思うがな。
想像してみるがよい。重要な会議で、このカフスを袖口に覗かせながら、堂々と自らの意見を述べるお前さんの姿を。あるいは、愛する人と過ごす特別な夜に、この黄金の輝きが、お互いの心をより一層近づける様を。このカフスは、お前さんの人生の、あらゆる輝かしい場面で、最高の引き立て役となるでありましょう。
このカフスは、持ち主を選ぶ。誰にでも似合うという代物ではない。それなりの品格と、審美眼と、そして何よりも、これを身に着けるにふさわしい「魂」を持った人間でなければ、このカフスの真価を引き出すことはできまい。
お前さんは、どうじゃ? このカフスに見合うだけの人間か? この輝きを、自らのものとする覚悟があるか?
もし、お前さんの心の奥底で、何かが疼き、このカフスが「我をここに」と呼びかけてくるのを感じたならば、迷うことはない。それは、お前さんとこのカフスが、出会うべくして出会った証拠じゃ。
さあ、決断の時じゃ。この稀代の逸品を手に入れ、お前さん自身の新たな物語を始めるがよい。このブルガリのカフスは、沈黙のうちに、しかし力強く、お前さんの人生を照らし続けるであろう。
わしは、このカフスが、真に価値の分かる人間の手に渡ることを、心から願っておる。そして、願わくば、その新たな持ち主が、いつかどこかでわしと出会い、「おじ、良いものを譲っていただきましたな」と、にやりと笑いかけてくれる日が来ることを、密かに夢見ておるとしようかの。
こちらはあんまり反響なかったら取り消します〜奮ってご入札頂けると嬉しいです〜