火入(ひいれ)とは煙草盆の中に組み込み、煙草につける火種を入れておく器のことです。
中に灰を入れ、熾した切炭を中央に埋めて、喫煙の際の火種とします。
切炭の埋め方は、火入の灰にあらかじめ炭火を入れて灰を温めてから、炭火を取り出して火箸で灰をならし、その中央に、客が煙草をつかうときに上部が燃えて灰とならないように、切炭を黒い部分を残して熾し、熾きた方を下に黒いほうを上にしてして、煙管で吸い付けやすいよう正面から見てやや斜めに頭が少し出るように埋め、灰押で灰を押さえ、火箸で筋を入れます。
切炭は、表千家と武者小路千家では右に、裏千家は左に傾けます。
灰形は放射状に筋を入れたものが多く用いられますが、流儀、火入により異なるものもあります。
香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりのようで、煙草盆と火入の組合せは、材質、形状、煙草盆との大きさ、煙草盆の縁の高さと火入の高さ、火入の釉色と煙草盆の塗色などが考慮されます。
銅器や鉄器はふつう用いられず、陶磁器が主に用いられますが、染付・呉須などの磁器には真塗や溜塗など、志野・織部・唐津などの施釉陶には一閑張など、備前・信楽など自然釉陶には木地・焼杉などを合わせます。薩摩焼の苗代川系(苗代川焼)に属し、初代・沈当吉の末裔である沈家の明治以降(第12代以降)の当主によって襲名されている。
江戸時代の「沈家」
沈壽官家の始祖である初代・沈当吉は、慶尚北道青松郡に本貫を置く青松沈氏の家系で、慶長の役の際、慶長3年(1598年)、島津義弘によって朝鮮国から連行された「被虜人」の一人である。
彼の子孫は、他の被虜朝鮮人の子孫と同様に朝鮮風の氏名を代々受け継ぎ、苗代川に居住することを薩摩藩から命じられた。
第2代・沈当壽および第3代・陶一は陶工として優れた技能を持ち、藩の陶器所を主宰し、第6代・当官以降、当主はしばしは郷役役人を兼ねた。
明治以降の「沈壽官家」
【12代 沈壽官】
1835年天保6年~1906年明治39年
幕末維新期の激動期を生き、廃藩後、藩の保護を失った薩摩焼の窯が次々と廃業を余儀なくされるなか、民間経営への移行に成功するなど薩摩焼生産の近代化に尽力した。
明治06年1873年 ウィーン万博以降、数々の万国博覧会や内国勧業博覧会などに出品を重ねて高い評価を受け、海外販路の拡大に大きく貢献した。
【13代 沈壽官(本名は正彦(まさひこ))】1889年明治22年~1964年昭和39年
12代 沈壽官の長男で
1906年明治39年 12代の死去に伴い沈家当主とともに「沈壽官」の名を継ぎ、これ以降沈家当主は、現在に至るまで代々「沈壽官」の名を襲名している。
彼は鹿児島県における陶磁器産業の振興に努め、戦時期・戦後期を通じた地域経済の復興にも関与する
1920年大正09年 以降は文化政治下の植民地朝鮮の陶芸界とも交流を持った。
【14代 沈壽官(本名 大迫恵吉(おおさこ けいきち))】1926年大正15年~2019年令和01年
13代の長男
早稲田大学卒業
1964年昭和39年 13代の死去に伴い沈家当主と沈壽官の名を継いだ
司馬遼太郎と親交があり、司馬の小説『故郷忘じがたく候』(1969年刊)の主人公のモデルとなった
1989年昭和64年 国内初の大韓民国名誉総領事に就任するなど、日韓の文化交流に努めたことでも知られている
2000年平成12年 母校早稲田大学より芸術功労賞を受賞
2010年平成22年 旭日小綬章を受章
【15代 沈壽官(本名 一輝)】
14代の長男
1983年昭和58年 早稲田大学を卒業
1988年昭和63年 イタリア国立美術陶芸学校を修了
1999年平成11年 14代在世中に15代 沈壽官を襲名、現在に至る
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サイズ:約上直径8×下直径7×高9cm
作者:沈壽官窯(沈官寿官窯)
箱:木箱
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