時を超えた輝き:ジャンニ・カリタの遺産と、ある王妃の物語
序章:還暦のセレブレーション
東京の静かな郊外に居を構える島津圭子にとって、六十歳の誕生日は、人生という長い航海のひとつの寄港地に過ぎなかった。大学教授だった夫を十年前に見送り、一人娘の沙織も結婚してボストンへ行って久しい。広すぎる家で、圭子はただ静かに、過ぎ去った日々の記憶という名の海図を広げては、時折、寂寥という名の霧に包まれるのだった。
「お母さん、還暦おめでとう!プレゼント、何がいい?旅行とか、素敵なレストランとか」
国際電話の向こうで、沙織の弾むような声が響く。圭子は微笑みながらも、心の中では首を横に振っていた。旅行も美食も、今はもう心を躍らせるものではない。夫と共に世界中を旅し、あらゆる美味を味わってきた。今、彼女が求めているのは、他者から与えられるものではなく、自らの意志で選び取る、確かな何かだった。
「ありがとう、沙織。でもね、今年は自分で自分に、最高の贈り物をしようと決めているの」
その言葉に、沙織は少し驚いたようだった。圭子は、パソコンの画面に映し出されたオークションサイトを指でなぞった。数日前から、彼女の心は一つのジュエリーに完全に奪われていたのだ。
それは、イタリアの至宝と謳われるジュエラー、「ジャンニ・カリタ」のネックレス。商品番号A8980。初めてその写真を見た時の衝撃は、今でも鮮明に思い出せる。それは単なる宝飾品ではなかった。一つの芸術品であり、一つの哲学の表明だった。
18金無垢のイエローゴールドとホワイトゴールドが、まるで知恵の輪のように精緻に、そして流麗に編み込まれている。そのデザインは、古典的な荘厳さと、未来的なシャープさを同時に感じさせた。そして、圭子の視線を釘付けにしたのは、チェーンの中央に七つ、等間隔に配置されたオーバル型の宝石だった。
鑑定書には「天然ペリドット、天然アメジスト、天然シトリン」と記されている。しかし、その石は、ただの単色の宝石ではなかった。一つのカボションの中で、三つの異なる宝石が、まるで印象派の絵画のように混じり合い、溶け合っているのだ。若葉のようなペリドットの緑が、高貴なアメジストの紫と溶け合い、そこに太陽の光を凝縮したかのようなシトリンの黄金色が差し込んでいる。異なる個性を持つ宝石たちが、互いの美しさを最大限に引き出し合いながら、完璧な調和を生み出している。
「伝統と革新の融合…」
ジャンニ・カリタのデザイン哲学を調べた時、圭子は深く頷いた。まさに、このネックレスが体現している世界そのものだ。古いものと新しいもの。静と動。陰と陽。相反する要素が共存し、新たな価値を創造する。それは、圭子が生きてきた六十年間の人生そのものではないか。夫との穏やかな伝統的な暮らしと、新しい知識を求め続けた知的好奇心。母としての自分と、一人の女性としての自分。
68.4グラムという、ずっしりとした重み。幅13.5ミリという、確かな存在感。それは、決して華奢な若い女性のためだけのものではない。人生の深みと重みを経験した者こそが、その真の価値を理解できる。圭子はそう確信した。
オークションの終了時刻が迫る。圭子は震える指で、決意の入札ボタンをクリックした。画面に「あなたが最高額入札者です」と表示された時、彼女は安堵のため息をついた。数日後、厳重に梱包された箱が届いた。ベルベットのケースを開けた瞬間、圭子は息を呑んだ。画面越しに見ていた輝きは、実物の前では色褪せて見えた。宝石たちは、まるで呼吸しているかのように、部屋の光を吸い込み、そして何倍にもして解き放っている。
圭子は、その冷たくも滑らかな感触を確かめるように、ネックレスを首にかけた。鏡に映る自分の姿は、いつもと同じ、穏やかな老婦人だ。しかし、その胸元で輝くネックレスは、彼女の内なる声に語りかけてくるようだった。「あなたの人生は、まだ終わらない。むしろ、ここからが始まりなのだ」と。
その夜、圭子は寝室の窓辺で、月光浴をさせるかのようにネックレスを手に持っていた。宝石たちの神秘的な輝きは、月の光を受けてさらに妖艶さを増している。ペリドットは過ぎ去った日々の瑞々しい記憶を、アメジストはこれから訪れるであろう平穏と知性を、そしてシトリンは未来への希望と活力を象徴しているかのようだ。
見つめているうちに、宝石の輝きが、ふいに脈動を始めた。緑、紫、金の光が渦を巻き、圭子の視界を覆っていく。まるで万華鏡の中に引きずり込まれるような感覚。めまいと共に、意識が急速に遠のいていく。最後に彼女が感じたのは、首筋に触れる18金の冷たさと、耳元で囁かれたような、遠い異国の言葉だった。
第一章:ヴェルサイユの目覚め
意識が浮上した時、圭子の五感を襲ったのは、経験したことのない情報の洪水だった。
まず、嗅覚。ローズとヴァイオレットの濃厚な香水、蜜蝋の甘い香り、そしてそれらの下に隠しきれない、微かな埃と汗の匂い。次に、聴覚。遠くで奏でられるハープシコードの繊細な旋律、絹の衣擦れの音、そしてささやくようなフランス語の会話。最後に、触覚。肌に触れるのは、信じられないほど柔らかく滑らかな、おそらくは最高級のシルク。体を支えているのは、雲のようにふかふかした寝台。
圭子はゆっくりと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、金糸で豪華な刺繍が施された、巨大な天蓋だった。ゆっくりと首を巡らせると、そこはまさしく、歴史映画で見たような、絢爛豪華な部屋だった。金箔で飾られた壁、天井から下がる巨大なクリスタルのシャンデリア、猫脚の優雅な椅子や化粧台。
何が起こったのか、全く理解できない。夢? それにしては、あまりにも五感が鮮明すぎる。圭子は混乱しながら、自分の体を見下ろした。そして、絶句した。
そこに横たわっていたのは、六十年の歳月が刻まれた自分の体ではなかった。シミ一つない、透き通るように白い肌。華奢で、頼りなげなほど細い手足。そして、その指には、見たこともないような大粒のダイヤモンドの指輪が輝いていた。
「王妃様、お目覚めでいらっしゃいますか?お加減はいかがです?」
声のした方に視線を向けると、フリルのついたエプロンドレスを身に着けた、生人形のように美しい侍女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。彼女の話す言葉は、先ほど耳にしたのと同じ、流麗なフランス語だった。しかし、不思議なことに、圭子にはその言葉の意味が、まるで母国語のように理解できた。
「王妃…様…?」
圭子は、かすれた声で繰り返した。その声すら、自分のものとは思えないほど若く、ソプラノのように澄んでいた。侍女はこくりと頷き、ベッドサイドのテーブルに置かれた銀盆から、水の入ったクリスタルのグラスを差し出した。
「はい、マリー・アントワネット様。昨夜の観劇でお疲れが出たのでしょう。少しお顔の色が優れませんわ」
マリー・アントワネット。
その名を聞いた瞬間、圭子の脳裏に、雷が落ちたような衝撃が走った。嘘だ。そんなはずがない。私は島津圭子。日本の、六十歳の女性。それがなぜ、18世紀フランスの、悲劇の王妃に?
侍女に支えられながら、圭子はベッドから降り、部屋の隅に置かれた巨大な姿見の前に立った。鏡に映る姿を見て、彼女は息を呑んだ。そこにいたのは、紛れもなく、歴史の教科書や肖像画で幾度となく目にした、若く美しいオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネットその人だった。金色の巻き毛、青い瞳、そして少し突き出た「ハプスブルク家の唇」。
パニックに陥りそうになる圭子の視界の端で、何かがキラリと光った。それは、鏡の中の自分――マリー・アントワネットの首元で輝いていた。
「あ…」
思わず声が漏れた。それは、圭子が還暦の祝いに自ら購入した、ジャンニ・カリタのネックレスだった。なぜ、これがここに? この18世紀のフランスに、存在するはずのない、21世紀イタリアのジュエリーが。
ネックレスの存在は、圭子を更なる混乱に陥れると同時に、不思議な安堵感をもたらした。これは、この非現実的な世界で、唯一、自分が「島津圭子」であったことを証明する、確かな繋がりだった。彼女は無意識のうちに、その冷たい金属の感触を確かめるように、ネックレスを強く握りしめた。
その日から、島津圭子の魂を宿した、マリー・アントワネットの奇妙な宮廷生活が始まった。
第二章:伝統と革新の円舞曲(ワルツ)
ヴェルサイユ宮殿での日々は、圭子にとって驚きと当惑の連続だった。特に彼女を辟易させたのは、その非人間的なまでの儀式と、旧態依然とした慣習だった。
朝の目覚めは、「公式の起床(ルヴェ)」と呼ばれる儀式から始まる。王妃の寝室には、血筋の位の高い順に貴婦人たちが集まり、王妃が肌着一枚を着るのにさえ、何人もの手が必要とされた。食事も、入浴も、散歩も、すべてが衆人環視の中で行われる。プライバシーなど、ここには存在しないも同然だった。
そして、ファッション。当時の貴婦人たちは、鯨の骨で作られた巨大なパニエでスカートを左右に広げ、胸をコルセットで締め上げ、髪は「プーフ」と呼ばれる、船の模型や鳥かごまで乗せた巨大な髪型に結い上げていた。美しさとは、不自然さと同義だった。圭子は、その重さと窮屈さに、息が詰まりそうだった。六十年間、機能的で快適な衣服に慣れ親しんだ体には、耐え難い苦痛だった。
「こんなものでは、人間らしく生きることなんてできないわ…」
ある朝、何人もの侍女に体をいじられながら、圭子は心の中で呟いた。その時、ふと胸元のジャンニ・カリタのネックレスに指が触れた。イエローゴールドとホワイトゴールドが織りなす、流麗でモダンなデザイン。伝統に縛られず、常に新しい美を追求するその精神。
「そうだわ…。ここでも、私らしくあればいいのかもしれない」
圭子の中に、小さな革命の炎が灯った。
彼女が最初に行ったのは、髪型の改革だった。高く結い上げることをきっぱりと拒否し、粉を振りかけることもやめさせ、自然なウェーブのかかった金髪を、シンプルなリボンで束ねるだけにした。次に、巨大なパニエと締め付けるコルセットを追放し、インド産のモスリン(木綿)を使った、シンプルで体にフィットするドレスをデザインさせた。それは、後に「シュミーズ・ア・ラ・レーヌ(王妃風シュミーズドレス)」と呼ばれ、宮廷ファッションに一大センセーションを巻き起こすことになる。
当然、保守的な年配の貴族たちは、眉をひそめた。「王妃ともあろうお方が、肌着のようなドレスで人前に出られるとは」「オーストリア女の浅はかな考えだ」という陰口が、宮殿の隅々から聞こえてきた。特に、王の叔母である三人の老王女「メダム・タント」たちは、圭子のスタイルを公然と非難した。
しかし、圭子は揺るがなかった。彼女の自然で活動的なスタイルは、窮屈な宮廷生活にうんざりしていた若い世代の貴婦人たちの心を、瞬く間にとらえた。彼女たちは競って王妃のスタイルを真似し始め、ヴェルサイユの堅苦しい雰囲気は、少しずつ、しかし確実に変わり始めた。
圭子の首元では、常にジャンニ・カリタのネックレスが、彼女の信念を代弁するかのように輝いていた。ペリドットの緑、アメジストの紫、シトリンの金。三つの異なる個性が共存するその宝石は、多様性を受け入れ、調和を重んじる圭子の思想を象EMINEMしていた。ロココ様式の、ダイヤモンドや真珠を過剰に飾り立てた宝飾品の中で、そのモダンで洗練されたデザインは、ひときわ異彩を放っていた。それは、旧時代の価値観に対する、静かな、しかし最も雄弁なアンチテーゼだった。
ある日、彼女の私室であるプチ・トリアノンで開かれた内輪の茶会で、親しい友人であるポリニャック夫人が、興味深そうにそのネックレスを指さした。
「王妃様、その首飾りは本当に不思議ですわね。今まで見たどんな宝石とも違う輝き…。どこの職人の作ですの?」
圭子は微笑んで答えた。
「これは…未来の職人が作った、お守りなのよ。古いものと新しいものが手を取り合えば、もっと素晴らしい世界が生まれる。そう教えてくれる、私の道しるべ」
その言葉の意味を、ポリニャック夫人は理解できなかっただろう。しかし、圭子の瞳に宿る、年齢不相応なほどの深い知性と、確固たる意志の光に、彼女はただ圧倒されるのだった。
第三章:錠前師の心と王の器
圭子の改革は、ファッションだけに留まらなかった。彼女の最大の関心事は、この国の未来、そして、夫である国王ルイ十六世との関係だった。
歴史上のルイ十六世は、錠前作りと狩猟にしか興味のない、気弱で優柔不断な国王として描かれている。実際に圭子が接した彼も、人前に出ることを極端に苦手とし、食事の席ではただ黙々と大量の料理を口に運び、重要な政治判断は大臣たちに任せきりにしているように見えた。
しかし、六十年の人生経験を持つ圭子の目は、彼の不器用さの奥に隠された、別の側面を見抜いていた。それは、稀に見る誠実さと、民を思う深い優しさだった。彼は、王としてどう振る舞うべきか分からず、ただ混乱しているだけなのだ。
ある日の午後、圭子は意を決して、ルイの私的な工房を訪ねた。そこは、大小様々な工具と、作りかけの精巧な錠前で埋め尽くされていた。ヤスリをかけるルイの背中は、国王の威厳とは程遠い、孤独な職人のそれだった。
「陛下。何を作っていらっしゃるのですか?」
突然の来訪に、ルイは驚いて飛び上がった。彼は妻であるマリー・アントワネットと、二人きりでゆっくり話すことに慣れていなかった。
「あ…ああ、王妃か。これは、新しい仕組みの錠前でな。誰にも開けられないような、複雑なものを…」
しどろもどろに答えるルイに、圭子は優しく微笑みかけた。
「素晴らしいですわ。こんなに精巧なものを、ご自身の手でお作りになるなんて。この国で、陛下に開けられない錠前はないのでしょうね」
圭子の言葉には、心からの称賛がこもっていた。それは、ルイが今まで誰からも、特に妻からは受け取ったことのない種類の尊敬だった。彼は驚いて顔を上げ、初めてまともに圭子の顔を見た。
その日から、二人の関係は劇的に変化した。圭子は頻繁に工房を訪れ、錠前の仕組みについて熱心に質問した。彼女は、複雑な機械の構造を理解することに、純粋な知的好奇心を刺激されたのだ。ルイは、初めて自分の趣味に心からの興味を示してくれる相手を得て、子供のように目を輝かせながら、その知識を語って聞かせた。
会話は、次第に錠前から国の問題へと移っていった。圭子は、21世紀の知識を、この時代の言葉に巧みに翻訳して、ルイに語り聞かせた。
「陛下、国というのも、一つの精巧な錠前のようなものかもしれません。税金という歯車、貴族と平民というバネ、そして法律という鍵。一つでも噛み合わなければ、国という扉は開かないのです。今、フランスという錠前は、少し油が切れ、錆びついてしまっているようですわ」
「錆びついている…?」
「はい。一部の歯車だけに負担がかかり、きしんでいます。民は重税に苦しみ、パンを買うお金もないと言います。このままでは、錠前そのものが壊れてしまいかねません」
圭子は、歴史の知識――フランス革命という悲劇的な結末――を口にすることはしなかった。ただ、彼女の言葉には、未来を知る者だけが持つ、切実な説得力があった。彼女は、ルイを無能な王だとは決して見なさなかった。むしろ、彼の誠実さと、物事の仕組みを理解しようとする職人気質こそが、この国を救う鍵だと信じていた。
「陛下には、この国の錠前を修理し、未来への扉を開く力がおありです。私、お側にいて、お手伝いいたしますわ」
圭子の瞳を見つめながら、ルイは静かに頷いた。彼の心の中に、今まで感じたことのない、国王としての責任感と、妻への深い信頼が芽生え始めていた。彼は、圭子の胸元で静かな光を放つ、不思議な三色の宝石に目を留めた。それはまるで、妻の知性と、優しさと、そして未来を見通す力を象徴しているように見えた。
圭子の助言を受け、ルイは少しずつ変わり始めた。彼は、テュルゴーやネッケルといった改革派の財務長官を登用し、貴族や聖職者への課税といった、今まで誰もが手を付けられなかった税制改革に、真剣に取り組むようになったのだ。
宮廷では、王妃が国王を操っているという噂が囁かれた。しかし、民衆は、自分たちの生活に目を向け始めた国王夫妻を、心から歓迎した。歴史の歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、本来とは違う方向へと回転を始めていた。
第四章:首飾り事件の回避と、民衆の愛
圭子がマリー・アントワネットとして生きて数年が経った頃、彼女は歴史の教科書で読んだ、ある重大な事件のことを思い出した。「首飾り事件」。王妃の名を騙った詐欺師によって、天文学的な価格のダイヤモンドの首飾りの代金が、王室に押し付けられた事件だ。史実では、マリー・アントワネット自身は全くの無実であったにもかかわらず、この事件によって彼女の評判は地に堕ち、民衆の憎悪を決定的なものにした。
「あの事件だけは、絶対に起こさせてはならない…」
圭子はその事件の中心人物となる、ラ・モット伯爵夫人という女詐欺師と、彼女に利用されるロアン大司教の名を、記憶の底から呼び起こした。彼女は、警察長官を密かに呼び寄せ、二人の人物の動向を徹底的に監視するよう命じた。理由は告げなかったが、王妃の命令は絶対である。
やがて、報告がもたらされた。ラ・モット伯爵夫人が、宝石商ベーマーから巨大な首飾りを購入するため、ロアン大司教に接近している、と。史実通りの筋書きだ。しかし、今回は圭子の方が一枚上手だった。彼女は、詐欺の取引が行われるまさにその現場に、警察長官を踏み込ませたのだ。
ラ・モット伯爵夫人と、彼女の共犯者たちは、その場で現行犯逮捕された。ロアン大司教は、王妃の名を騙られた被害者であることが証明され、事件は王室に全く累を及ぼすことなく解決した。
この迅速かつ的確な対応は、圭子の評判をさらに高めることになった。「王妃様は、悪事を見抜く千里眼をお持ちだ」と、民衆は彼女を称えた。贅沢を戒め、質素な生活を送り、常に民衆の側に立とうとする彼女の姿勢は、確実に人々の心に届いていた。かつて「赤字夫人」と揶揄された王妃は、今や「慈愛の聖母(ノートルダム・ド・ビヤンフェザンス)」と呼ばれるようになっていた。
圭子は、宮殿の予算を削減し、その余剰分で、パリに無料の診療所や孤児院を設立した。彼女は、身分を隠してお忍びでそれらの施設を訪れ、病人の手を握り、孤児の頭を撫でた。そんな彼女の側には、いつもルイ十六世の姿があった。錠前工房に引きこもっていたかつての王は、今や民衆の中に積極的に入り、彼らの声に耳を傾ける、賢明な君主へと成長していたのだ。
ある日、パリの市場を視察していた時のことだ。一人の老婆が、圭子の前に進み出て、ひざまずいた。
「王妃様…。このパンは、あなた様のおかげでございます。私たちには、もうお菓子は必要ございません。あなたが与えてくださった、この温かいパンがあれば、生きていけます」
圭子の脳裏に、史実のマリー・アントワネットが言ったとされる、あの有名な言葉が蘇った。「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」。もちろん、彼女が実際にそう言ったという証拠はない。しかし、その言葉は、民衆の苦しみに無関心な王妃の象徴として、一人歩きしていた。
圭子は、老婆の手を優しく取り、立ち上がらせた。
「いいえ。これは、あなた方が懸命に働いたことへの、正当な対価です。私たちが為すべきは、あなた方が毎日、安心してこのパンを食べられる国を作ること。それだけです」
その言葉に、周りを取り囲んでいた民衆から、嵐のような歓声が上がった。圭子の目には、涙が溢れていた。それは、歴史を変えることができたという、静かな感動の涙だった。
その夜、ヴェルサイユ宮殿のバルコニーで、圭子はルイと二人、星空を眺めていた。
「君は、本当に不思議な女性だ」と、ルイが静かに言った。「まるで、未来からやって来て、私たちを導いてくれているかのようだ」
圭子はドキリとしたが、微笑んで答えた。
「未来から来たのは、私ではなく、陛下の中に眠っていた、真の王としての魂ですわ。私は、それを目覚めさせるための、小さな目覚まし時計に過ぎません」
ルイは、優しく圭子の肩を抱き寄せた。彼の視線は、圭子の胸元で星の光を反射しているジャンニ・カリタのネックレスに注がれていた。
「その首飾り…君がいつも身に着けている、その三色の石が、君を守り、導いているのかもしれないな」
「ええ、きっと」
圭子は、ネックレスをそっと握りしめた。ペリドットの緑は、この国に芽生えた新しい希望の色。アメジストの紫は、ルイが得た王としての気高さの色。そしてシトリンの金は、民衆の笑顔という、何物にも代えがたい豊かさの色。このネックレスは、この世界で彼女が成し遂げたことの、すべてを象徴しているようだった。
終章:時を超えたハッピーエンド
フランスは、革命の嵐を回避し、立憲君主制への穏やかな移行を遂げようとしていた。ルイ十六世は「民の父」と慕われ、マリー・アントワネットは国母として尊敬を集めていた。圭子の心は、深い満足感と、そしてほんの少しの寂しさで満たされていた。
彼女の役目は、もう終わったのかもしれない。
そんな予感が胸をよぎったのは、彼女がこの世界に来てから、ちょうど十年が経った日の夜だった。その日は、奇しくも、彼女が六十歳の誕生日を迎えた日と同じ日付だった。
ルイと共に、プチ・トリアノンの庭園を散歩していると、彼が不意に立ち止まった。
「マリー。君に、贈り物を」
そう言って彼が差し出したのは、小さなベルベットの箱だった。中には、彼が自らの手で作った、精巧なロケットペンダントが入っていた。錠前の形をした、ユニークなデザインだった。
「私には、君の心の扉を開けることはできないかもしれない。だが、私の心は、いつでも君のために開いている。その証だ」
圭子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。この不器用で、誠実な王を、私は心から愛している。しかし、私はここにいるべき人間ではない。
彼女がルイからのロケットを受け取った、その瞬間だった。
胸元のジャンニ・カリタのネックレスが、これまでになく強い光を放ち始めた。緑、紫、金の光が渦を巻き、圭子の体を包み込む。既視感のある、あの不思議な感覚。
「陛下…!」
圭子が叫ぶと、ルイはすべてを悟ったような、穏やかな顔で微笑んだ。
「行くのだな、マリー。君が来た、未来へと。君が教えてくれたすべてを、私は決して忘れない。この国を、民を、そして…君を愛し続けると誓う」
彼の言葉を最後に、圭子の意識は、まばゆい光の中に完全に吸い込まれていった。
次に目覚めた時、圭子は自宅の寝室の、窓辺の椅子に座っていた。窓の外では、現代の東京の、見慣れた夜景が広がっている。まるで、長い長い夢を見ていたかのような感覚。しかし、それは決して夢ではなかった。
なぜなら、彼女の首には、ジャンニ・カリタのネックレスが、確かにかかっていたからだ。そして、その手には、ルイ十六世が贈ってくれた、錠前型のロケットペンダントが、固く握りしめられていた。
圭子はロケットを開いた。そこには、若き日のルイ十六世の小さな肖像画が、はめ込まれていた。
翌日、圭子は書斎のパソコンで、歴史を検索した。
「フランス、ルイ十六世」。
画面に表示された内容は、彼女が知っていた歴史とは、全く異なっていた。
「ルイ十六世:フランス・ブルボン朝の国王。『賢王』『民の父』と称される。王妃マリー・アントワネットと共に数々の改革を断行し、フランス革命の危機を回避。絶対王政から立憲君主制への平和的移行を成功させた、近代フランス最大の功労者の一人。その治世は、フランス史上、最も平和で繁栄した時代として記録されている」
マリー・アントワネットの項目には、こう記されていた。
「質素倹約を旨とし、慈悲深い人柄で民衆から深く敬愛された。特に、革新的なファッションリーダーとしても知られ、その自然主義的なスタイルは、ヨーロッパ全土に大きな影響を与えた。晩年は、夫ルイ十六世を支え、多くの慈善事業にその生涯を捧げた」
断頭台の悲劇は、どこにも記されていなかった。
圭子は、静かにパソコンを閉じた。胸に去来するのは、達成感と、愛する人を残してきた切なさ。しかし、後悔はなかった。
還暦からの人生は、おまけのようなものだと思っていた。しかし、違った。人生は、何歳になっても、新しく始めることができるのだ。時を超え、歴史さえも変えるほどの、大きな可能性を秘めているのだ。
圭子は、胸元のジャンニ・カリタのネックレスと、手の中のロケットを、そっと重ねて握りしめた。二つのペンダントは、彼女が生きた二つの人生の、そして時を超えた愛の、確かな証だった。
「ありがとう、私の宝物。そして、さようなら、私の愛しい人」
窓から差し込む朝日に照らされて、三色の宝石は、まるで圭子の輝かしい第二の人生を祝福するかのように、静かに、そして力強く、永遠の光を放っていた。彼女の顔には、もう寂寥の霧はなかった。そこにあったのは、すべてを受け入れ、未来へと歩み出す、賢王の妃にふさわしい、穏やかで気品に満ちた微笑みだった。