
「レイダース」「インディージョーンズ」を強く意識したと思われる作品です。
以下サイトより
作品自体の企画は、1985年3月の時点でエリック・ツァンの企画として新聞に紹介されていた。そして『ポリス・ストーリー/香港国際警察』『ファースト・ミッション』『七福星』と立て続けに3本の作品の撮影を終えたジャッキーは、エリック・ツァンと本作の製作に取り掛かり始める。
撮影は1985年8月にジャッキーがユーゴスラビアへ。その後、9月2日に『ファースト・ミッション』のプロモーションのため来日、9月4日には日本を立ち、ふたたびユーゴスラビアへ。飛行機を丸々2日かけて乗り継ぎ9月6日に到着したが、その翌日9月7日にユーゴスラビアで撮影中に15メートルの高さから落下、頭蓋骨骨折の大事故に遭い、撮影を3分の2ほど残し一時中断。翌1986年3月に撮影に復帰し、製作が再開された。それまでの監督であるエリック・ツァンから交代し、ジャッキー自らメガホンを取ることになった[3]。そして1985年10月17日にヨーロッパの病院で精密検査を受け、無事退院して、香港へと戻ることができた。
冒頭の木から木へ飛び移るシーンの撮影中(2テイク目)、捕まった木が折れてジャッキーが落ちてしまうハプニングが起きた。その際にジャッキーは頭蓋骨骨折の大怪我を負ってしまった。日本では「ジャッキー・チェン死亡か?」とささやかれた。冒頭のシーンでジャッキーの髪の毛が一瞬で長くなっているが、それは手術のために坊主になったのと、事故の傷跡を隠すためと言われている。なお、ジャッキーはこの事故による後遺症で左耳がほぼ聞こえなくなってしまったが、この事情を知っている者はジャッキーの右側に立って話すようにしている。
当初の監督はエリック・ツァンだったが、ジャッキーの事故からの復帰後はスケジュールの都合[注釈 4]でジャッキー自身が監督に交代した。また、ジャッキーの事故のため、当初は出演予定であったシンシア・ロスロックが『冒険活劇 上海エクスプレス』に出演中の為、ローラ・フォルネルに交代した。
5月上旬には再びスタッフと共にユーゴスラビアへ再入国したが、チェルノブイリ原子力発電所事故の影響で、「1. ミルクや生水は飲まない、2. 雨の場合は即刻撮影中止、3. 果物はよく洗ってから食べる」などの注意書きが渡された[3]。その後、6月14日にはヨーロッパ各地での撮影を終えて帰国している。
ジャッキーが運転するコルト・スパイダーは三菱が数年前から未来車として開発した改造費3000万円のハイテク車だが、撮影で2台が大破している。また、追跡側のパジェロは15台が大破している。ちなみに、コルト・スパイダーから飛び出す通称「サンダー・カー」は特性50ccエンジンを搭載し、足元のペダルで方向を、ハンドルでスピードを調整できる。
ジャッキーがラストで対戦する”アマゾネス軍団”のメンバーは空手や太極拳、二重剣やマーシャルアーツの経験者で結成されている。
クライマックスの気球に飛び乗るシーンは、『007』シリーズなどを手掛けるヨーロッパナンバーワンのスタントチーム「レミー・ジュリアン・グループ」の協力の元で行われた。
劇場公開は、当時の日本でのジャッキー人気の全盛期を物語るように香港よりも5ヶ月も前の1986年8月16日に日本で最初に公開された。
冒頭で大怪我をしたシーンは、バスター・キートンの『キートンのセブン・チャンス』のオマージュである[要出典]。
もしジャッキーが亡くなった場合、アラン・タム主演で今作を撮影する予定であったと言われている。
主題歌
エピソード
編集
ジャッキーは、撮影で使っている三菱ミラージュスパイダーを気に入り、撮影が終了したらその車を貰う約束をしていたが、スタント用車両と貰う予定の装置が可動する車両を間違え、スタッフがカースタントの際に貰う予定の車両を爆発させてしまったという。ちなみに、スタント用車両は現在、三菱自動車の岡崎技術センターに動態保管されている。(一般公開はされていない)