【 資料名 】 真筆・会津藩士 秋月胤永 ( 北越潜行詩書・軸装 )
【 サイズ 】 本紙サイズ…横 15.5センチ× 縦 22.0センチ、総丈サイズ…横 23.3センチ× 縦 106.0センチ
【 状 態 】 紙本
【 真 筆 】 印刷ではありません ( 墨で書かれた作品と保証するもので、万が一印刷、巧芸品の場合、返品に応じます。 )
『 会津藩士 秋月胤永 ( あきづき かずひさ ) 』
通称は、『 秋月悌次郎 ( ていじろう ) 』。 文政7(1824)年、会津藩士 丸山胤道の二男として生まれ。 藩校 日新館での成績は優秀で、23歳の時、江戸の昌平坂学問所に入学。 安政3(1856)年、藩命で西国の各藩を視察するなど、諸藩の事情に詳しく交際範囲も広い特異な会津藩士でした。
文久2(1862)年、松平容保公が京都守護職に任ぜられると、悌次郎は公用人に抜擢。 藩主一行の京都赴任の準備や、諸藩の代表や公卿と交渉する外交も担当しました。 中でも、薩摩藩の高崎佐太郎と面談し、これが会薩同盟結成のきっかけとなります。 そして文久3(1863)年、薩摩藩と連携して「八・一八の政変(尊皇攘夷派の長州藩や公家を京都から追放した政変)」の原動力となります。
これと同じ頃、八重の兄・覚馬も京都にのぼっています。覚馬はすぐに気鋭の藩士を選抜して、砲兵隊を組織しています。 自ら師範となり兵たちを調練して、御所の守衛体制を整えた功績により、覚馬は悌次郎と同じく公用人に任ぜられました。
悌次郎が41歳の時、彼の功績を嫉む者たちによって、当時会津藩領となっていた東蝦夷(北海道のオホーツク海東沿岸)に左遷されてしまいます。 その間に将軍・天皇が相次いで亡くなり京都の政情は急変。 会津藩は会薩関係の修復のために、悌次郎を至急京都に呼び戻します。 しかし全て手遅れで、長州と薩摩は密約を結び、翌年には15代将軍徳川慶喜が大政奉還の上奏文を天皇に提出しました。
戊辰戦争では、副軍事奉行として籠城戦を指揮しました。 一ヶ月に及ぶ激しい戦いの後、藩命を受けて敗戦の対応に当たります。 その後は猪苗代で謹慎処分となりましたが、僧侶に扮してひそかに抜け出し、面識のあった長州藩士に会津藩の寛容な処分を訴えたというエピソードもあります。
5年後に特赦されて、東京大学予備門の教諭となり、教育界で大いに貢献することになります。 明治23(1890)年、熊本第五高等中学校の教諭となり、その名講義は多くの生徒から慕われました。 同校教師の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は悌次郎の高潔な人間性、深い学識にふれ、「神様のような人だ」と尊敬して親しくつきあったといわれています。
「 北越潜行の詩 」
猪苗代に謹慎中の悌次郎に、西国を周遊したとき長州で会った長州藩士奥平謙輔から連絡が入った。変装しひそかに抜けだし越後の水原に向った悌次郎は、奥平と会い藩の寛容な処分を訴えた。その帰途に、想いなやむ気持ちを詩に託したのが後世に伝わる「北越潜行の詩」である。
行無輿兮帰無家 ゆくにこしなく かえるにいえなし
國破孤城乱雀鴉 くにやぶれて こじょうじゃくあみだる
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