まったくない、本場中山のうちぐもり砥石 在庫あと数個
最高峰 仕上げ砥石 古都京都のすぐ近くに むかし鎌倉時代 豪氏本間家が管理をし、江戸末期まで管理をしていまいた。 いくつかの坑道があり、中心の坑道には 木のレール
木の車がいくつもありたくさん産出していました。これは浅草の野村さんから聞いた話です。刀の切れ味を美しさを追求してきました。また各藩からの徳川家に贈答品として、漆が塗られ 金梨地の装飾蒔絵が施され繁栄を物語っております。銀座や築地 浅草の料亭さんの板前さんや 店主人店に飾っています。
きずがなく 大きい何層ものものは 数千万円の価値があり 太平洋戦争で焼失してしまったものもあり そのものは あと3点しかありません。一点は浅草のといしや もう一点は 加藤鉱山主 加藤家にあります。 あと宮内庁にあるはずです。
車口砥は そのもので すう層の重なった厚さ3寸ものはいまは見ません、これはさっきの天下逸品の物
一層のものばかりです 層の厚さは1・6cmで 場所により厚くなります 。品質は最高で神がかり物で 砥石を研ぐと 真っ黒な汁が出て かぶらず 砥石は 減らず 砥石の研ぎ面が 光にかざすと 細かく光輝く すんっばらしいものです。なみど 戸前の梨地 層があり 上から 天井 八枚 千枚 戸前 あいさ 並砥 すいた となり 用途によりわかれています。
本間 中心のもの は 表山と呼ばれていました。幕府直轄で刀剣の為に採掘していましたから表にはでてきませんでした。また幕府から位の高い人物として認められた人物にしか買えませんでしたので、
町人個人で は使用できません。 町衆の口利き役などに言い役所から承認されれば 御用砥残砥として木端などを、 庄屋や 大名武家 におろされた。
車口砥石 は表山として大量に使用され中心を中山とし 有名で たくさん産出した (新政府 時代。)表山と 印が押してある
戦後 ほかの周囲産出したもの は本間からとり あたらしい呼び名 本山 そのまた周辺 正本山 です。 商標までとる業者が出てきました、 そのものは本山 の本場ものでわなく その他を ブランド化する
それは加藤鉱山のマルカです 昭和10年ごろの 中山産です 浅草のといしやを 通して流通していた関係で
東京都台東区に砥石協同組合が設立されました。 ですから まだ 商品があります 。晩年は 一般のお客様に販売した 商品を買戻し
して 商売をして いました。また金庫に問屋倒産の在庫が あります。
江戸幕府【千代田城】江戸城直轄で刀剣だけの砥石を産出していた中山を一体した地域
天井スイタの上 内曇り砥 刀剣専用砥石 刃引き用
層天井スイタ更にに上の層・・・・・昭和の初期 中山車口砥
サイズ・・・・・ 180mm 幅65mm 高さ22mm2層重ね 550g
特徴・・・・・ これは中山本場物。 板目模様 刀剣刃引きに柔らかめ 不純物が無く肌理がそろう まるか正本山 印 とてもなく、まぼろしの砥石
番手・・・・・20000番手
用途 ・・・・・こがたな のみ かんなの刃 包丁 かみそりの仕上げ 刀の刃用
(2025年 9月 26日 1時 52分 追加)追加で質問で、基本の山ですから、全部御座いました、刀剣専用で掘っていましたから、1枇杷砥 2柿砥 3内曇り と順番に使われ
その他硬いのは埋め戻した。これが正解です。明治になって、江戸千代田城の天領から一般になりました。
幕府許可はなくなり それを掘り出した。硬いのを売った。
それでも刀剣研磨には必要で、数人の研師のため、やわらかい物、わずか天井を掘った・・・・・・・ので内に伝わったものが存在する。
牧野家の本家なので刀がたくさんあった1000振り以上 刀では食えないのでみんなお米と交換した。関東大震災のとき暴動があって、刀をさいたま市全土にいきわたらせた。
言い伝え、文献にある。歴史があるので説明しました。