明治初期の儒教とキリスト教が良質で結びついた時代のかたの著書です。
論語教話(正)(続)(続々) 覚書の4部揃うのはまれです。
そのほかの書籍もまず古書市場には出ることはありません。
川合信水先生を仰ぐ 月見草 鬼塚正二 壮神社
※カバー無し。
川合信水先生「完全教育」実践の記録 誠修学院創立八十五周年記念誌 わが父の家
川合義信先生御遺教集
Ⅲ:一切の秘訣を得たり ピリピ書講義
Ⅳ:労働と信仰 テサロニケ前書講義・他
Ⅴ:新時代への召命 ペテロ後書講義・他
神と偕に労す ―川合義信先生追悼文集
※箱入り。箱にやや汚れが見られます。
※これ以降は経年による劣化が見られます
山月川合信水先生遺書刊行会 発行
山月川合信水先生御教話覚書 学道叢書4
山月川合信水先生論語教話 学道叢書5
山月川合信水先生論語教話(続) 学道叢書7
山月川合信水先生論語教話(続々) 学道叢書8
大塚栄三著 郡是の川合信水先生 岩波書店
人物
甲斐国都留郡桂村小沼(現・山梨県南都留郡西桂町小沼)において、父・川合立玄(はるつね)、母・つね(旧名:律)の長男として生まれる[1]。
19歳の時、日本の改革を志す。1890年(明治23年)23歳のときにメソジスト教会谷村基督講義所で、勝沼教会牧師の原野彦太郎から洗礼を受ける[3]。この時、勝沼で巌本善治に出会い、巌本の勧めで女学雑誌社に入り、島崎藤村、北村透谷、徳富蘇峰、清水紫琴、三宅花圃らと交流した。
1893年(明治26年)に東北学院院長押川方義の弟子になり、東北学院邦語神学部に入学し[4]、1896年(明治29年)に卒業した。1897年(明治30年)に仙台市宮城野で宗教的な体験をする。そして、東北学院作文科の教授、日本地理、歴史科教授になる。1901年(明治34年)に山形県鶴岡市の鶴岡日本基督教会の伝道師として赴任した。しかし、ミッションと対立して辞任した。
その後、函館毎日新聞の主筆になる[4]が、重役と対立して辞任する。また、前橋市共愛女学校(現・共愛学園中学校・高等学校)の校長に就任した[4]。
1908年(明治41年)には東京の雑司ヶ谷で独立伝道を行う。戸川安宅(戸川残花)の孔子教会や、松村介石の『道』の協力をした。
1909年(明治42年)、京都府何鹿郡(現・綾部市)の郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)社長波多野鶴吉の招聘により同社教育係として入社[5]。
1927年(昭和2年)1月には『耶蘇基督讃』を著し、基督心宗を創立し、開宗宣言を発表した。1932年(昭和7年)には基督心宗東京教会を設立して、1939年(昭和14年)には六大誓願を発表した。
1948年(昭和23年)には富士吉田市に基督心宗総本山を設立して、1959年(昭和34年)に富士吉田市の初代名誉市民となり[1]、1962年(昭和37年)に死去した。
実弟は、独自の鍛錬法を創始した肥田春充。長男は川合義信(1900-92)、次男は日本近代文学の川合道雄。
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