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≪新宿大久保紅谷≫で検索しても 全くなしなので
たぶん 日本でラスト1枚の逸品かも
もちろん 後継者もなく 紅谷の店もなく それを知る人もなく
少なくとも ネットワーク内には いなさそうである
~有為転変 盛者必衰 諸行無常 也
まだ 東京・新宿区 大久保駅(中央線) 新大久保駅(山手線) 界隈が
コリアタウンになるはるか昔(今は 新大久保駅ほ中心に さらに 東側コリアン 西側チャイナ・コリアン・アジアン 北側イスラム横丁 南側タイ・ベトナム系 とめっちゃ 多文化タウン化しているそうだ)
というか まだ マクドナルドも コンビニもないも街にない時代
1940~1960年代 前半もの ワンオーナー(マイ父もの)
昭和 新宿 大久保 紅谷
非売 銘々皿 小皿 径10cm
貫入 景色育ちあり
万人同人
紅谷 は 大久保通り沿い
今も変わらずある 皆中稲荷付近にあった
菓子店? 和菓子? 洋菓子? 料理店?
ワンオーナー
紅谷
A)本店 小石川安藤坂 本店 嘉永年間創業 江戸城にお菓子を納めていた「大久保主水」の菓子杜司であった紅谷志津摩の流れを汲む店であると推察される 西岡家 和菓子のみ系
B)支店 東京神楽坂紅谷 安藤坂の妹と結婚した小川茂七が創業 和菓子&洋菓子 小川は風月堂で修行し海外でも菓子の製法を学び 当時 山の手の代表的菓子店として多くの後進を育て上げた。(銀座コロンバン、自由が丘モンブラン六本木クローバー、和泉屋、宮内庁大膳寮洋菓子担当 ほか多数)風月堂と技術提携をし、名店として多くの人々に愛された
~以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場に充あてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。
~大東京繁昌記~早稲田神楽坂 1927/S2 東京日日新聞 掲載 加能作次郎著より
創業1897/M30-1945/S20 5月の空襲で灰燼に帰し廃業
上記、新聞記事にあるとおり 2階の喫茶店は いつでも女学生が集まる場所で、当時流行歌~紅屋の娘~(日活、東京行進曲B面)この紅谷を歌ったものといわれている。小川は風月堂で修行し、海外でも菓子の製法を学び 山の手の代表的菓子店として多くの後進を育て上げた。(銀座コロンバン、自由が丘モンブラン 六本木クローバー、和泉屋、宮内庁大膳寮洋菓子担当 等多数)風月堂と技術提携をし、名店として多くの人々に愛された
現在も日本中に数十軒の紅谷が存在するが、安藤坂の系列は和菓子のみ、神楽坂の系列は和洋両方を扱っている
A-2)青山紅谷 大正12年創業 小石川安藤坂本店 番頭格の青木氏が 数名の使用人、顧客も一緒に譲り受ける創業 和菓子
C)鎌倉紅谷 戦後S29 元職人有井鉄男が開業