垂直尾翼に菊水マークとカタカナの『キ』がマーキングがなされてますが、これは昭和14~15年頃、中国大陸に展開してた陸軍飛行第65戦隊の98式軽爆撃機になります。
◆趣味の98式軽爆撃機
ラッキーな爆撃機。
昭和初期、陸軍の爆撃機は昭和7年に開発された93式軽爆撃機でした。
93式軽爆撃機は複葉機でエンジントラブルが多く、稼働率の低さから昭和10年には生産中止になりました(わずか3年!)。
そこで陸軍では、昭和11年に93式軽爆撃機の後継機の開発を立川飛行機、三菱、中島、川崎の4社に命じます。
立川:キ29
三菱:キ30
中島:キ31
川崎:キ32
の型番が与えられ、競作する事になりました。
この内、立川のキ29と中島のキ31は、書類審査の段階で没になります。
書類審査に合格した三菱のキ30と川崎のキ32に試作機製作が命じられました。
三菱は名機97式司令部偵察機をベースにした全金属性の軽爆撃機を作成。
一方の川崎飛行機も陸軍が輸入したハインケルHe118急降下爆撃機を参考にして新設計のキ32を完成させます。
試作機を実際に飛ばして比較検討した結果、三菱のキ30が採用され、97式軽爆撃機として量産に入ります。
川崎のキ32は不採用になりました。残念!
が! 昭和12年7月に日中戦争が始まりました。
三菱は海軍の主力である96式艦上戦闘機や96式陸攻などの生産で手一杯になります。しかも新型機の零戦や一式陸攻の開発も同時進行で進んでました。いくら陸軍から発注を貰っても、97式軽爆撃機を生産する余裕が無いとゆー。
そこで陸軍は川崎にキ32の増加試作機を5機発注します。
キ30の方がキ32よりも優秀なのは事実なのですが、だからと言ってキ32が使えない駄目飛行機だったのかというと、そうでもなく、より優秀な方が採用されただけだったのです。
完成したキ32増加試作機は、試作1号機の欠点を克服し改良されていた為、98式軽爆撃機として採用、大量生産に入ります(全部で854機製造)。
98式軽爆撃機は、即座に日中戦争に投入され、主力の軽爆撃機として中国各地で中華民国軍の施設を爆撃、飛行場に駐機してる飛行機を爆撃で破壊しまくります。
まあ、川崎の飛行機の常としてエンジントラブルが続出し、整備員泣かせの機体ではあったものの・・・(※液冷エンジンだから)。
第2次世界大戦が始まると、シンガポールの戦いや香港の戦いにも投入されます。
昭和17年(1942年)になると、流石に旧式化してきたので、99式双発軽爆撃機と交代し、その後は訓練機や連絡機として使われました。