作品の解読|Decoding the Work
これはひとつのアルバムというより、ひとつの始まりである。
1960年代末、ラテンアメリカの各地で同時多発的に芽吹いた音楽運動――ヌエバ・カンシオン(Nueva Cancion)は、民衆の言葉と旋律を再構築することで、植民地主義的文化支配と資本の均質化に抗う「歌う文化闘争」だった。それはプロテストソングにとどまらず、失われた風景や口承詩、農民の言語、母の声を、もう一度公共圏に響かせるという試みでもあった。チリでは、詩人・収集家であるヴィオレータ・パラが運動の原点を築き、その系譜を最も鮮明に引き継いだのが、この作品に刻まれたビクトル・ハラであり、そしてキラパユンだった。
ビクトル・ハラは元は演出家であり、舞台と言葉に精通した「語る身体」としてヌエバ・カンシオンを変革した人物である。彼の歌は叫びではなく沈黙から立ち上がり、抗議よりも先に祈りのように響いた。一方のキラパユンは、都市出身のインテリ青年たちによる声の集団でありながら、アンデス楽器と先住民的アイコンを用い、あらゆる抑圧の周縁に寄り添う表現を模索していた。1966年、両者は出会い、翌年には本作『Canciones Folkloricas de America』を発表する。このレコードはその名のとおり、「アメリカ」の民衆歌を再発掘・再解釈し、ひとつの「フォークの大陸地図」を描くように編まれた記録である。
ボリビア、ウルグアイ、ベネズエラ、スペイン、アメリカ、イスラエル、そしてチリ。各地の伝統音楽が国籍や宗教の違いを越えて並置され、そこには明らかに政治的意図というより、「多文化的記憶を繋ぎ直す」という詩的戦略が働いている。ケチュア語の哀歌「El Llanto de mi Madre」、アフロ・キューバンの子守歌「Drume Negrito」、ウルグアイの労働詩「El Carrero」、ベネズエラの先住民伝承歌「Mare Mare」、そしてイスラエルのヘブライ語民謡「Noche de Rosas」。それらは単に歌い継がれる遺物ではなく、声を媒介に再構成された「現代の民俗」である。選曲は折衷的でありながら、まったく散漫ではない。すべての曲が、音のうちに「名前を持たぬ人々」の姿を刻印している。
キラパユンの合唱は厳粛で、ハラのソロは祈りのように静かだ。その音響は、過剰な装飾を排しながら、チャランゴやケーナ、ボンボといったアンデス楽器を要所に配し、空間に「民衆の気配」を定着させる。子守唄が多く含まれているのも印象的で、それは文化が最も深く伝達される瞬間――つまり、母から子へ、語られないままに染み込む歌の瞬間――を再現しようとする意図でもあるだろう。とりわけハラ自身が作詞作曲した「Gira, Gira, Girasol」と「Coneji」は、のちの政治詩的代表作に比べて穏やかで、しかし逆にその優しさゆえに、運動の本質が色濃く滲む。すなわち、「声を取り戻すことは、それ自体が革命である」という信念だ。
録音媒体としてのレコードにもまた、文化の軌跡が刻まれている。本作はもともとモノラルで録音され、EMIオデオンのチリ盤としてリリースされたが、のちに各国で再発され、ヌエバ・カンシオンのアーカイヴの中でも最も広く聴かれた作品のひとつとなった。アートワークを手がけたビセンテ・ラレアによるジャケットも特筆に値する。カラフルな鳥と自然の図像は、プロパガンダではなく「文化の優しさ」を象徴しており、音楽を子どもにも開かれたものにする視覚的配慮が込められている。つまり、この作品は視覚と音響の両面から「民衆文化の教本」として機能する設計になっているのだ。
やがてヌエバ・カンシオンは、サルバドール・アジェンデ政権を支持し、軍事クーデターによって弾圧されることになる。ビクトル・ハラは虐殺され、キラパユンは亡命し、彼らの音楽は禁じられた。しかしその声は地下に潜り、国外に拡がり、現在でも多くのアーティストによって再解釈され続けている。本作が果たした役割は、まさにその「始まり」の場所の記録である。そこにはまだ血の臭いはない。あるのは、民衆の声が地中から掘り起こされ、もう一度歌として立ち上がる瞬間の、透明な予兆である。
状態詳細|Condition Overview
メディア:EX(やや擦れがあるが再生に支障なく大変良好。)
ジャケット:EX(軽微なスレや経年感あり。良好。)
付属品:カンパニーインサートスリーブ
支払と配送|Payment & Shipping
発送:匿名配送(おてがる配送ゆうパック80サイズ)
支払:!かんたん決済(落札後5日以内)
注意事項:中古盤の特性上、微細なスレや経年変化にご理解ある方のみご入札ください。完璧な状態をお求めの方はご遠慮ください。重大な破損を除き、ノークレーム・ノーリターンにてお願いいたします。