竹島、鬱陵島共に日本領の古地図;承応元年(1652年)徳川幕府発行
写真の説明。上段左端の写真;英文do not copyの赤文字は紙片を置いただけ、地図の左上と左下部に古紙の断片が貼りついている、これは竹べらで開いた時の痕跡(後述)。下段右端の写真は江戸の地図、緑の矢印紙は江戸城、酒井サヌキ、浜御殿を指す。
「大日本国全図」と題する地図が商品。この地図は江戸時代前期に刊行された約7cm厚の古文書の前部に刷り込まれています。実際商品となるのはこの古書から切り取った左右の各1ページずつ、薄い和紙に刷られているが、恐ろしく強靭な紙で周辺はクシャクシャになっていても容易に破れません。落札された後、最低限度の裏打ちをして初期状態を維持するようにし、厳重な梱包をしてお届けします。日本列島の輪郭が分かり難いのは、海岸沿いの2つの地点を結ぶ距離線が煩雑過ぎ、列島の海岸線を曖昧にしている。余計な線は白ペンで消去すれば、日本列島の輪郭が明確になり、ほぼ正保日本総図に近くなる。(ただし蝦夷地=北海道はなし)。
*竹島(上)と松島(下)の絵と文字が「大日本国全図」のタイトルの直下に書かれているのだから、世界中誰もがこの2島は日本の領土であることを疑わない。幕末あたりまでは、これら2島は呼び方が逆、現在の竹島が松島と表記され、竹島と書かれているのが松島で現在の鬱陵島である。後はこの地図の信頼性を証明するだけであるが歴史的な発見につき、長い説明が必要と思われるのでその経緯を以下に記す。
●商品の外観、体裁、サイズなど;
18x26x7㎝の分厚い本の7-8ページ目に掲載されている。その前には八卦の起源。元三大師の開祖の噺。釈迦の誕生、成長して悟りを開き涅槃入り滅した後、10人の弟子たちが師の教えを広めていく以上3つのショートストーリーがある。そのあと大日本国全図へと続く。本の体裁は片面印刷した和紙を山折りにして重ね、糸でくくって綴じられた一般的な形態の和本。外観は200~370年前後経ているので、紙は周辺程変色し茶色になり端がまくれている。しかし中は状態が比較的良く、ごく周辺の欠損部以外可読である。
●地図の方は銅版画の技法で製作されているが、大日本国全図の文字と竹島松島の文字は木版のようです。たぶん刷りの工程で墨を付けすぎ、文字の中がくっついて解読不能ですが、3倍くらいに拡大すると墨の中に、木版の凸部が墨を押しのけ、やや白く竹島松島の文字が確認できます。
●大日本国全図の発刊年代確定;地図上に年代表記はないので、隣接した京都、江戸、大阪の絵地図、特に江戸図からは年代推定の大きなヒントが得られる。江戸城の天守は明暦大火で1657年に焼失した。だからこの地図は火災以前に書かれたことになる。また地図の左方下部の海岸沿いには浜御殿(現浜離宮の前身)が描かれている。この宮は1652年に建てられた。故にこの地図は両方の建造物が同時に存在していた期間1652~1657年に作成されたはず。また徳川家康から秀忠、家光と3代にわたって勤めた忠臣酒井讃岐守忠勝の屋敷も外堀の内側、お城の近くにあり「酒井サヌキ」と記されている。彼は家光に仕えたときは大老にまで上り詰め、家光が慶安4年6月に薨去するとその年の末、忠勝も辞世を残して84才で死去した。1651年の末なので、葬式や屋敷のかたづけなどで1652年まで「酒井サヌキ」屋敷は城郭内に残った。ゆえに江戸城の天守、浜御殿、酒井讃岐守屋敷、これら3つの建造物が同時に存在した期間は1652年しかない。この江戸絵図の前前ページに、当出品物の「大日本国全図」がとじ込まれているのだから、両地図共に
1652年の作と断定した。 ●この出品物が長久保赤水地図より古い証拠;現埼玉県岩槻市を長久保赤水氏は大日本国全図と同じに岩付と書いている。改正日本輿地路程全図の出版された江戸時代後期には岩槻に変わったのを知らず、単に本図から模倣した証拠。両図とも犬吠埼の「吠」を「坊」と記しているが、昔から犬坊埼がここの地名として使われた形跡がない。もしも赤水地図より当図が後出ならば、こちらが「吠」を使っているはず。赤水氏はクロシホ黒瀬川をすっかり大日本国全図をまねて記載している。このころは世の中も平穏になり、海の要害も意味をなさなくなっている。慶安事件の犯人探しが江戸時代末期の長久保地図を使ってなされたら時代逆行である。長久保氏の地図はタイトルからして改正日本輿地路程全図とし、「改正」とは何か原図の存在を暗示している。以上本図がその原図であったことはほぼ間違いない。
●この地図の掲載されている本の概要
幸か不幸か当地図の部分のみ左右ページがくっついて、あるいは故意に糊付けされ、見られなくなっていた。経年変化で糊が乾燥し粘着力を失っていたので、多少破れるのを覚悟で、竹べらを差し込み開いたら見事な日本地図が出現した。それがこの大日本国全図である。周辺がちぎれたり、東北地方や九州地方などこすれて不明瞭であり、地図としての実用価値よりも、この時代にこのような目的で製作された歴史と地学の文献があったと言う存在感の方が大事である。
●古秘術百科大典(仮称)とでも言うべきこの大冊子は、出品者が数年前に入手し、古文書解読の特技を生かして独自調査の結果、江戸時代初期から後期にかけて執筆された小冊を8冊束ねて1冊に綴じたものと判明しました。それぞれ年代の異なるものを順不同に綴じてあります。大冊子の中に見られる時代呼称には安政、天保など後世のものも見られるがそれは新旧取り混ぜて合巻にした証でもある。歴代天皇については第1代;天照皇太神(女体)から第14代天皇の后であった神功皇后が、夫の遺志を次いで三韓征伐をした記録がある。第120代今上天皇ご在住万万歳安永8年(1780年)御即位と書かれている。今上天皇はその時点で光格天皇であった。この天皇が退位されたのは文化13年(1817年、明治元年は1868年)だから、この大冊子は江戸時代中初期からやや末期ごろの風俗にじかに触れることができる。ただし本品には歴史年表の性格は皆無、また一般大衆向けのハウトゥブックを超越し、陰陽寮で使われた忍法書なのか、いろんなジャンルの秘伝、秘術が絵付で公開されている。裸体の女性絵図もあるが、卑猥な表現は全くない。兵法や武術に関する記述は全くない反面、刀傷の治し方、溺者の蘇生法、怪我の手当て法、病気、薬など、あくまで人命を存えるべく、料理、酒造りなどサバイバルに徹し江戸時代の秘術百科とも言うべきもので。神学、暦学、天文学は天球儀の絵まであり、ギリシャ神話とは異なる起源をもつ中国、日本古来の星座もあり。天気予想,手相人相の見方、八卦のやり方、100のおみくじに至っては、もと中国から伝来したもので、元三大師の御くじもこれを使っていると書かれ、その由来についてまで説明がある。そして最初期とみられる元三大師のおみくじが1~100番迄当時のままで掲載され、武士や町人の喜怒哀楽がダイレクトに伝わってくる。この時代の道徳感を知るにも適します。この本に掲載されている京都の町図では庶民には入り込めない禁裏の詳細な絵がある。御存世天皇の御居所、上皇の御所など建物と配列の略画付き、本能寺、秀吉の大仏殿、二条城なども略画あり。次は「江戸城の絵」を含む現皇居周辺、墨田川河口あたりから品川あたりまでの大名屋敷図。次のページは大坂城を含む淀川河口付近の複雑な水路、運河は川村瑞賢による河川大改築が行われる以前の、江戸時代初期の大坂町並みを知るにはよい絵図であろう。総体的にみるとこの本は挿絵やカットで満ち溢れ、江戸時代の庶民の生活ぶりがよくわかる。どこを開いてもタイムマシンに乗って300~370年前の時空をさまよっている感覚になる。但しすべて古文書体で書かれているので、その知識がないと読めない。
この商品の効用
この地図の発見により、竹島が完全に日本領だとわかったのです。韓国が李承晩ライン設定の直後から行った我が国漁船の大量拿捕、発砲殺人に対する謝罪と補償の義務を負わねばならないと思います。(韓国がやらなかったので、当時の金で90億円を日本政府が被害者に支払った。これは立て替えとみなすべき。慰安婦問題よりも新しいのだから。現在の価値に直して取り返すべし、と思います。慰安婦の人権をうんぬんする以前に、殺された漁師たちの人権を考えるのが民主国家のモラルでは)。竹島返せと同時に鬱陵島の返還要求運動を起こし、今後我が国がイニシアティブをとるのです。日本側の口癖「穏便に」はウケテ側の台詞でシテにとっては禁句、これ示談屋の常識です。
●この大日本国全図の由来であるが、徳川三代将軍家光公が、各国の国司に命じて作成させた日本全土(蝦夷地を除く)の国絵図を繋ぎ合わせ、一図にまとめたものが、正保元年(1644年)に作成された正保日本総図(千葉県佐倉市の歴史博物館蔵)である。日本国の外観はほぼ現在の姿に近い。本品はこの図をベースに8年後の承応元年(1652年)に完成したとみられる。ここで特筆すべきは、有名なクーデター未遂事件慶安の変があったのは、この前年である。3代将軍家光が48才で薨去すると同時に、継嗣の家綱が4代将軍として11才で即位。幕府が最も不安定になった時期で、軍学者の由井正雪が国中7000人の浪人たちを扇動し謀反を企んだ、駿河の久能山中に集め蜂起する直前仲間に密告され、捕えられた後、由井は自害し、丸橋忠弥他の幹部たち25名は磔に処され、死刑を免れた者たちの多くは遠島刑を科せられた。日本中の山野に散った残党の行方探しに必要なものは、先ず詳細な地図であった。逃亡者は主要道路には関所があるので通行しない。生き延びるためには水の便が不可欠、この大日本国全図を見直せば、幹線道路さえ描かれていないのに、河川は大小さまざま、細々支流から源流迄描かれている。そして反乱者の一行が集まり、決起するはずであった駿河国あたりの地名は、新規に書き換えたのか、加筆修正された銅版画独特の痕跡が残る。慶安事件の残党たちが逃げ込むかもしれない日本海に浮かぶ竹島松島も、監視の対象になっていたと思われる。その証拠が本出品物である。慶安事件の14年前には島原天草の乱、慶安事件の翌年には承応の変も起こった。当時頻発した反乱を抑え取り締まるには、未然に防止するには何としても全国地図が不可欠であった。本図はいかにも官製らしく国府の位置がほとんど明示されている。
●伊豆諸島の多くの島や、八丈島は江戸に近い流刑地として有名であった。本島は現地人も住む平穏な所であったから、囚人たちは本地図で見られる周辺に散らばる無数の無人島に送られた。これらの小島は他の地図では見られない。八丈島のすぐ北に3本の密集した曲線が描かれ、それの注釈は「黒瀬川又ハクロシホ(=くろしお)ト云」。これは黒瀬川との別名もある海の中の急流で、どんな船も押し流してしまう航海の極難所である。囚人が島から逃亡して本土帰還を牽制するため記載されたものと思われる。
物的証拠の乏しい元禄時代の言なるもの。「独島を日本領にしたわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」竹島一件などという信憑性の極めて乏しい理屈。をこね廻しても逆効果、相手国に有利な主張を与えるだけであろう。独島の呼称も明治あたりからで、その当時よりはるかに昔から、松島竹島ともに日本領だったのだから。
これはネット情報であるが、竹島の経済的価値を韓国の学者が見積もったところ、約8800億円とのこと。「これは13年前の評価額で、日本との領有権争いをしている今は、さらに価値は上がっている」と言っている。たぶん日本が購買の意思を匂わせれば、提示したい価格であろう。鬱陵島の近海には最近発見された膨大な量の海底天然ガス田がある。それもこの島返還要求が実現すれば、当然領海内にあるのだから我が国のものとなる。
今度こそ「穏便に」など弱腰を見せないで強気で行きましょう。
最後までお読みいただきお疲れさまです。以上「説明が長くなったのは、当出品物がまやかしや個人の趣向で書かれたものではない」との証しである。内容は出品者個人の調査に基づくものであり、もしも事実との相違が発見された場合でも一切の責任、返金には応じられません。
●「商品は大日本国全図の地図のみで、それの綴じ込まれたぶ厚い大冊子から切り取って送ります」。年代確定の証拠となる京都と江戸の絵地図は部分コピーをお付けします。
●送料無料
●ノークレームノーリターン
●すべて安全な取引を心がけています。少しでも危険が予想される場合、妨害があった時は出品を取り下げます。
●出品者の評価について;悪いが1つありますが、実際は良いどちらでもない100%です。1年前、出品者がある家具を落札したとき、売手の方から送料等について何の連絡もないので、放置しておいたらYahooの方から3か月も経って、予告なく付けられたマイナス評価です。売り手はこの手口の常習者の様です。当方は悪い人ではありません、人畜無害の人なのでご安心ください。
●落札後代金のお支払い法についてはの指示に従います。当然かんたん決済などはできません。
●この商品の周囲は監視カメラ、高電圧による警備、スタンガンなどにより強盗、放火、詐欺、サイバー攻撃などから守られています。悪意をもって不用意に近づかないようご留意ください。