Frederic ChopinKonzert fur Klavier und Orchester Nr. 1 e-mol op. 11Krakowiak, Grosses-Rondo F-dur op. 14Stefan Askenase, KlavierRESIDENTIE ORKEST DEN HAAGDIRIGENT: WILLEM VAN OTTERLOOSTEREOHELIODOR 2548 066DEUTSCHE GRANNOPHON1950年代初期から1980年代初期にかけて、かのヤン・スメテルリン(1892~1967)と並んで稀代のショパン演奏家として英国を始め欧州楽壇で令名を馳せたステファン・アスケナーゼ(1896 - 1985)、彼について英国のピアニストで碩学評論家であるJ.M.キャンベル(テオドル・レシェティツキの弟子のフランク・メリックに師事)が名著『Chopin Playing』のなかでアスケナーゼのショパン演奏を口を極めて高く評価しているのでそのくだりを拙訳で引用しよう。『彼はスメテルリン同様、直截的なショパンを弾く。彼の比類なき特徴はウィーンで修得した流麗快適な奏法と情熱的なポーランド派の夫れとを融合していることであり、その演奏を称賛する際に往々『貴族的』という形容詞が使われる。それには彼がかなり緩やかなテンポを採り、純粋にピアニズムの華やかな効果を意図して演奏する等ということが皆無ということが理由である。彼がショパンの勇壮華麗な楽句を軽視しているやうに聴かれることがあるとすれば、彼はそのことをショパンのモーツァルトに対する敬愛を想わせる透徹した洞察力でもって補っている。そこには透明な明澄性と純正さが存在している。彼は数多くのショパン作品、二曲のピアノ協奏曲、14曲のワルツ集、全4曲の即興曲集、二つのソナタ集、24の前奏曲そして他の作品を録れている。彼が録音を開始したのは50代を過ぎてからであるが、爾来、彼のショパン解釈は権威的な存在となっている。とりわけ第一番のホ短調協奏曲、ワルツ集全曲の二枚のレコードは彼がショパン作品の真諦をものにしていることを示している。ホ短調協奏曲の第一楽章はかなり緩やかなテンポで名人芸を披露することを控え、勇壮華麗さを避けている。彼の弾くショパンからは、うわべを飾る虚飾のようなもの(varnish and veneer)が剥ぎ取られているのである。多くの若いピアニストの芝居じみた耽溺などというものは全く存在していないのである。故ディヌ・リパッティと同様、メロディー部だろうが伴奏部だろうが、それら双方における個々の音符に在るべき正当な位置を与えているのである(Like the late Lipatti, he gives each note its rightful place, whether belonging to the melody or the accompaniment.) アスケナージのフレージングには、いにしえの巨匠ピアニスト達に特徴的だった権威的なものが存在しているのだ。』ところが彼の数々のショパンのLP盤が我が国に登場して以来、本邦のレコード評論家の多くはそれらの卓越さを全く感得することが出来ず、勇壮で華麗なショパン奏法を信奉する楽壇の故老評論家に付和雷同し,アスケナーゼの音盤ことごとくに酷評を書き連ねた。『・・・フレイジングがあいまいで、アクセントもだらしがないから、ただダラダラとつづいていく感じになりやすい。いかにも古風な抒情詩人的演奏だ。ポロネーズなどになるといかにお国物とはいえ、軟弱過ぎて話の他だし、ワルツも古ぼけた癖の多いひきぶりで、現代人の感覚にはついていきかねる』(佐川吉男)「(夜想曲の)演奏には、ショパン独特の張りがないし、ショパンの情緒を迫るように伝えてくるものがない。・・・勘どころや締めるポイントに不足している。それにミスタッチも多い。ショパンの精神は持っていても、それを自己流に現しているといえるかもしれない。ワルツの方は、リズムに難点があり、夜想曲の方は自己満足的で自己陶酔に陥っているといいたいところだ。どちらも余り感心したものではない」(門馬直美)また博学多識かつ誠実な盤評で信頼されている小林利之氏はレコ芸に連載された『現代名盤鑑定団』で「この人(アスケナーゼ)のショパンの素晴らしさが、日本で認められたのは、比較的後になってからですよね。」とのたまわっていたが、昔、アスケナーゼを始め、マルクジンスキー、ハースらのショパンのワルツ集の比較試聴で「これ(リパッティ盤)1枚あれば、ほかの凡百のショパンのワルツ集は全部、横浜のドブ海に捨てても惜しくない(ステレオ藝術誌)」と言い放った張本人である。本邦のレコード評論家の間でアケナーゼのショパン演奏への評価の風向きが変わってきた一因は、欧州楽壇でアスケナーゼが名教授として令名高く、内田光子やアルゲリッチらも指導したという情報が本邦に伝わったからのやうに思われる。とりわけアルゲリッチは「アスケナーゼの親切とレッスンが彼女に自信を取り戻させ、翌年なんとか彼女をワルシャワに向かわせ(故佐藤泰一)」第7回ショパンコンクールを制覇したという事実にレコード評論家は自尊心を傷つけられ、また自身の浅学菲才さと偏狭な先入観念への反省の念を抱く向きもあったことだろう。2005年には日グラモフォンから『ステファン・アスケナーゼの芸術(7枚組CD)』が発売されるころには本邦のレコード評論家で彼のショパン演奏を誹謗するどころか、好悪は措いて一目を置かぬものはいなくなったやうである。ステファン・アスケナーゼはガリツィア(現ウクライナ領)のレンベルク(現リヴィウ)に生まれ、W・A・モーツァルトの息子のレッスンを受けたクサヴェラ・ザハリャシェヴィチの許で学び、その後、ルドヴィク・マレク音楽院の院長であるテオドール・ポラックに師事。1913年にウィーンへ移住し、1914年から1915年にかけてフランツ・リストの高弟エミール・フォン・ザウアーに師事し1919年にウィーンでデビュー。1920年にはワルシャワの国立フィルハーモニーでショパンのピアノ協奏曲を弾いた際には批評家からはその完璧なテクニック、暗譜力、驚嘆すべき音色、華麗な打鍵、そして並外れた才能と解釈を絶賛される。ウィーンとワルシャワでの成功の後、オーストリア、ドイツ、フランスで演奏旅行をおこなう。1922年から1925年までカイロの音楽院の教授。1927年にブリュッセルへ移住し、1967年までブリュッセル王立音楽院で教鞭を取る。教育活動の傍ら、全欧や北米、アフリカなど世界各地へ演奏旅行を行う。ケルンやボンではマスタークラスで教鞭を取り1955年から1960年まで、ワルシャワのショパン国際コンクールで審査員を務めた。当録音はCD復刻されているが、1957年にオリジナル・ステレオ録音された録音テープがほぼ半世紀を経て磁性体の剥離等で劣化が著しくピアノのみならず弦楽部も当初の瑞々しさを失ってしまい、CD制作時のノイズカットやデジタル変換による周波数カットも重なりアスケナージの比類なき高貴な音色を似て非なるものにしてしまっている。それゆえこの1973年に製作された独プレス盤価値は高い。当LPは盤面、ジャケットともニア・ミントレヴェルで使用感は無く、全曲試聴するもノイズの類は聴かれなかった。