永禄2年(1559年)に書かれた「新古今和歌集」です。この新古今和歌集には、伊勢物語の和歌が数首載っております。
筆者不詳となりますが、公家の近衛稙家(近衛信尹の父)の書風に似ています。
<古筆の状態について>
400年以上前のものですので、虫食い・焼け・黒ずみがございます。古筆切(断簡)は、厚紙に貼付されております。
<古筆の来歴について>
出品している古筆は、江戸時代に仙台藩伊達家に医師として仕えていた木村寿禎が収集し、所蔵していたものです。寿禎の落款印がございます。所蔵されていたものの多くは、京都の公家(近衛家、鷹司家、九条家、大炊御門家)が書いた古文書でした。
伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が近衛基熈を通じて公家の茶道具や古文書を入手したり、京都の公家の娘が伊達家当主に嫁いだ際に嫁入り道具の一つとして古文書を持参したため、仙台藩では公家が書いた書物を多数所蔵しておりました。その後、一部の古文書は伊達家から仙台藩医の木村寿禎に渡り、木村家で代々受け継がれております。
<サイズ>
古筆:縦24.7㎝、横16.4㎝
厚紙:縦29.7㎝、横21㎝
額縁縦32.7cm、横23.8cm
<送付方法等>
・送料は落札者様のご負担となります。「おてがる配送ゆうパック」にて発送いたします。
・読み下し文と現代語訳もお付けいたします。
<読み下し文>
う(憂)きなから人をはえしも忘れねはかつうらみつゝ猶そ恋しき
〔伊勢物語二二〕(和歌番号一三六二)
命をはあたなる物とき(聞)ゝしかとつらきかためはなか(長)くも有(ある)哉(かな)(和歌番号一三六三)
いつかた(方)に行(ゆき)かく(隠)れなん世の中に身のあれはこそ人もつらけれ(和歌番号一三六四)
今まてに忘(わすれ)ぬ人は世にもあらしをのかさまさま年のへ(経)ぬれは
〔伊勢物語八六・業平集・六帖〕
(和歌番号一三六五)
(伊勢の和歌)
玉水を手に結ひても心見むぬるくは石の中も楽(たの)まし〔伊勢集〕(和歌番号一三六六)
山しろ(城)の井手の玉水て(手)に汲(くみ)てたの(頼)みしかひもなき世也(なり)けり〔伊勢物語一二二・六帖〕(和歌番号一三六七)
君かあたりみ(見)つゝをおらむ伊駒山くも(雲)なかく(隠)しそ雨は降(ふる)とも〔万葉一二・伊勢物語二三〕(和歌番号一三六八)
なか(中)空に立ゐる雲の跡もなく身のはかなくも成(なり)ぬへき哉(かな)
〔伊勢物語二一〕(和歌番号一三六九)
雲のゐる遠山鳥のよそにてもありとしき(聞)けは恋(わひ)つゝそぬ(寝)る
(古今六帖には人麿の作とする。) 〔六帖〕(和歌番号一三七〇)
ひる(昼)はき(来)てよる(夜)はわか(別)るゝ山鳥のかけ(影)み(見)ぬ時そね(音)はな(泣)かれける(和歌番号一三七一)
<現代語訳>
薄情が辛いとは思いながら、人を忘れることができないので、いっぽうでは恨みながら、やはり恋しいことです。(和歌番号一三六二)
命はもろく短いものと聞いていたけれど、人が薄情であることの苦しみゆえには、長く思われることよ。(和歌番号一三六三)
どちらに行き隠れてしまおうか。世の中に人と交わりつづける身があるから、人も薄情だと恨まれるのだ。(和歌番号一三六四)
今までに、思いあった相手を忘れない人は、けっしてあるまい。 めいめいさまざまな生き方で、年がたってしまったのだから。(和歌番号一三六五)
きれいな水を手にすくって、まあ、ためしてみましょう。もし、ぬるいならば、石の中から湧き出た水でも、信頼しないことにしましょう。(和歌番号一三六六)
山城の井手のきれいな水を手ですくい、信頼して飲むように、信頼したかいもないふたりの仲であったことだ。(和歌番号一三六七)
君の住んでいるあたりを見つづけていよう。 生駒山を、雲よ隠すな。 雨は降っても。(和歌番号一三六八)
空の中ほどに立っている雲が、跡かたもなく消えてしまうように、身が死んで、消えてしまうことでしょうよ。(和歌番号一三六九)
雲のかかっている遠山の山鳥のように、あの人が、よそに離れていても、無事でいると聞くので、恋い嘆きながら寝ることだ。(和歌番号一三七〇)
昼は来て、夜は別れて寝る山鳥のように、夜を迎えて、あの人の姿を見ないで寝る時は、声に出して泣けてくることだ。(和歌番号一三七一)
※古筆は、ご使用の端末によって色合いが実物と異なって表示される場合がございます。
※長期保管品となりますので、ご理解いただける方にお願いいたします