正しくは大勢至菩薩といいます。智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。大勢至菩薩と表記されることもあります。智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。
浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持ち、勢至菩薩が合掌をする姿でつくられます。その姿勢は、立像・坐像のほかにひざまずいた姿の跪像もみられます。
●ご利益
智慧明瞭、家内安全、除災招福のご利益があるとされています。午年の人々を守る守護本尊であり、午年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるともいわれています。
§ 日本神話 桃の節句と古事記(黄泉の国)
「古事記」には、伊邪那美命の死の様子に驚いて、黄泉の国から逃げる伊邪那岐命が、追手に対し、髪にさした櫛の歯や桃の実を投げて退散させたと記されています。
桃は邪気を払い、私たちを守ってくれるという考えは桃の節句にも通じるものです。
§ 桃の節句と古事記。
日の本(ひのもと)では古来より、
桃には古来から、不思議な力が潜むと信じられている。
おとぎ話の桃太郎は、山の霊に満ちた上流の川から、流れ下って来た桃から誕生した。
「古事記」によれば、イザナミノミコトは、ホト(陰部)から火の神を産み落とし、その火でホトに火傷を負い死んでしまう。そして黄泉の国へ下る。だが、イザナギノミコトは、別れがたく、イザナミノミコトを、忘れることは断ち難い。
イザナギノミコトは苦悶し、黄泉の国へ、イザナミノミコトに会いに出かける。
その時、黄泉の国へ降りて来たイザナギノミコトへ、「私の亡骸を見ることだけはならない」と、イザナギノミコトへ約束を誓わせ、黄泉の神へ相談に出かけた。
だが、長い間、イザナギノミコトは戻ってこない。 イザナギノミコトは我慢できず覗き見てしまった。
イザナミノミコトの死体には蛆がたかり、腐乱した恐ろしい姿になっていた。
イザナギノミコトは、イザナミノミコトを見て驚愕。その恐ろしさのあまりに、その場から逃げだす。
誓いを破られ、恥をかかされたイザナミノミコトは、猛然とイザナギノミコトを追いかける。
イザナミノミコトと醜悪な形相で追いかける、ヨモツシコメラの鬼女たち。
イザナギノミコトは必死に逃げ、黄泉と現世の境界まで逃げ切る。ようやくイザナキ神が黄泉比良坂のふもとに来た時に、そこに生えていた桃の木から実を三つ取り、待ちかまえて投げつけたところ、雷神達は黄泉の国に帰ってゆきました。
そして逃げながら、三つの桃の実を投げ、黄泉国から脱出した。
やはり、古代より、桃には霊力が備わっていると信じられていたのであろう。
逃げ延びた場所は、黄泉比良坂(よもつひらさか)
黄泉の国からの地上への出口を、大きくて重い石で塞ぎ、イザナミノミコトとから逃げ切る。
§ 中国と桃
「仙木」解説 中国において
神仙に力を与える樹木である桃の呼び名。 昔より邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれた。 桃で作られた弓矢を射るとで悪鬼よけとなり、桃の枝を畑にさすと虫除けの呪いとされた。
名前のとおり、桃の節句には桃の花が欠かせません。
中国では古来より、桃の木が不老長寿をつかさどり、厄災や病魔をよせつけない邪気払いの力をもつ木として重宝されています。
縁起がいいとされる植物の1つであり、節分では、桃の樹から作られた弓で邪鬼を退ける儀式も行われてきました。
また、桃という漢字は「木と兆」で構成されていることから、多産や子孫繁栄をつかさどる植物といういわれもあります。
桃の花は、家族に繁栄をもたらす縁起のよい花です。