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吉田松陰の石碑を拓本にした掛軸です。拓本は非売品です。この石碑は明治時代に静岡県下田に建立されましたが、現在では風化が進んでおり、同じ拓本を再現することはできません。
「七生説」とは、吉田松陰が楠木正成に感銘を受けた際に記した随筆で、彼の死生観や人生観が表れています。
以下、拓本の現代語訳を掲載致します。
吉田松陰【七生説】現代語訳
「広々としてこのはてしない宇宙は、一つの根本原理によって存在しており、父祖子孫が切れることなく続いているのも、一つの気があって結ばれているのである。人がこの世に生まれるにあたり、この理をうけてそれが心となり、この気をうけてそれが身体となるのである。
身体は私で個別的なものであり、心は公で普遍的なものである。この私を働かせて公に殉ずる者を大人とし、公をわずらわせて私本意に行動する者を小人とする。それゆえ、小人は身体が滅び、生命がつきると、ただ腐りただれて土となり、二度ともとに戻ることはない。君子は、その心が理と通じている。だから、身体が滅び、生命がつきても、理は古今にわたって天地とともに存在し、活動しており、決して朽ち果ててしまうことがない。
僕は聞いたことがある。贈正三位 楠木正成公が、湊川で死ぬとき、弟の正孝にかえりみていうには、「死んだら何をするのか。」と。正孝は、「願わくば七たび人間に生まれ変わって、国賊を滅ぼしたい。」と答えた。正成公は大いに喜んで「自分の心と同じである」といって、たがいに刺しちがえて死んだとのことである。ああ、これこそ理気の極致に通づるものである。
さて、当時では、楠木正成の子、正行・正朝らは、正成公とその理を同じくしていただけでなくその気もつながっていた(血のつながりがあった)者であり、新田・菊池の諸族は、血のつながりはないが、理は正成公と相通じていた者である。このことから考えてみると、楠公兄弟は、ただ七たび生まれたというのではなく、はじめからまだ一度も死んでいないのである。これより以後、忠孝節義の人で、楠公の忠節に感じて興起しない者がいないのであるから、楠公の死後、また楠公が生まれ続いていることは、もとより数えきれないものがある。どうして七たびのみで終わることがあろうか。
僕はかつて東方へ遊行し、三回も湊川を通ったが、その際、楠公の墓に参拝し、涙が止まらなかった。その石碑の背面に、明の徴士朱舜水が書き残した文を読んで、また涙を流した。ああ、僕と楠公とは骨肉の縁、父子の恩があるわけではない。師友として交際した信義があるわけでもない。それなのに感激して涙を流す、その理由が自分でもよくわからなかった。ましてや朱舜水にいたっては、外国の人であるのに、わが国の人よりもかえって楠公の忠節に感激している。そして、僕自身がまた、朱舜水の孤忠を悲しんでいる。これらはもっともいわれのないことのようである。後になって、理気の説を学び、あの時涙が止まらなかった理由を悟ることができた。すなわち、楠公・朱舜水およびこの不肖の僕自身、みなこの理を受けて、心としているのである。気、すなわち身体は続いておらず離れているといっても、心はあい通じているのである。これが僕が涙した理由だったのだ。
僕はおろかではあるが、楠公らの聖賢の心を継承し、忠孝の志を立てて、国威を発展させて外敵を滅ぼすことをもって僕自身の身分を超えた任務を実行し、そのため何度も失敗して、不忠不孝の身となった。再び世間の人の前にあらわれる面目はない。しかしながら、この心は、既に楠公その他の人々と、理を同じくしている。それならば、どうして身体の滅びるままに、いたずらに腐りただれて土に化することができようか。かならずや、後の人をして、僕の志を知ることによって、興起させ、七生の後までも影響を与えたいものである。ああ、七生報国の精神が確かに僕の中に宿っている。そこで、このことを忘れないために「七生説」を作ったのである。」
(2025年 2月 23日 16時 47分 追加)サイズ 掛軸全体:縦約197cm×横約75.5cm