以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜ジェムリサーチジャパンのソーティング付。
序章:令和の空の下で
蒼井雫(あおいしずく)は、表参道の洗練されたジュエリーショップのアトリエで、細い銀のチェーンにペンダントトップを通しながら、深く長い溜息を吐いた。窓の外では、令和の東京がきらびやかな光を放っている。しかし、雫の心は厚い雲に覆われたままだった。
「雫さん、それ、おばあ様の?」
後輩の美緒が、心配そうに声をかけてきた。雫の手元にあるのは、大粒のルビーと、それを取り巻くように配置されたダイヤモンドが眩い輝きを放つ、プラチナのペンダント。重さ4.6g、幅24.8mm×12.3mmという、存在感のある逸品だ。その中央に鎮座する1.03カラットのルビーは、まるで燃えるような情熱を宿した心臓のようだった。
「ええ。祖母の形見なの。B3716…これが、このペンダントの管理番号だったって、母から聞いてる」
雫は、そのペンダントを胸に当てた。ひんやりとしたプラチナの感触と、中央のルビーが放つ微かな熱が、肌に伝わってくる。これはただの宝石ではない。雫が生まれた時に、祖母が「この子の未来が、この石のように情熱と輝きに満ちたものでありますように」と願いを込めて贈ってくれた、お守りのような存在だった。
だが、今の自分は、その願いとは程遠い場所にいる。
付き合って三年になる恋人から、突然別れを告げられたのは一週間前のこと。「仕事に集中したい」という彼の言葉は、明らかに嘘だった。彼のSNSには、新しい恋人と寄り添う写真が、これみよがしにアップされていた。
信じていた愛を失い、仕事も手につかない。ジュエリーデザイナーとして、愛や夢を形にする仕事をしている自分が、今はそのどちらも見失っていた。
「綺麗…雫さんのデザインするジュエリーみたいに、繊細で、でも力強い。きっと、雫さんを守ってくれますよ」
美緒の優しい言葉に、雫は無理に微笑んでみせた。守ってくれる?この石が?だとしたら、なぜこんなにも心が痛いのだろう。
その夜、雫はペンダントを握りしめながら、祖母の古いアルバムをめくっていた。そこに挟まっていた一枚の栞。それは、奈良の博物館で開催されている「邪馬台国と卑弥呼の謎」という特別展のチケットだった。祖母は歴史が、特に古代史が好きだった。
「卑弥呼…」
鬼道で国を治めたという、謎多き女王。生涯独身だったとも伝えられる彼女は、一体どんな思いで生きていたのだろう。
何かに導かれるように、雫は翌日、新幹線に飛び乗った。ざわつく心を鎮めたくて、ただ無心に、古代の遺物に触れてみたくなったのだ。
博物館は、平日にも関わらず多くの人で賑わっていた。雫は人波をかき分けるように進み、展示の目玉である、三角縁神獣鏡の前に立った。精巧な文様が刻まれた青銅の鏡。千八百年もの時を超えて、今、ここにある。
鏡を覗き込むと、そこに映る自分の顔が、まるで別人のように見えた。その胸元で、祖母のペンダントが、ひときわ強い光を放っていることに、雫はまだ気づいていなかった。
ふと、鏡の奥深くから、誰かに呼ばれたような気がした。
―――来たれ、我が同胞よ。汝の持つ、太陽の石と星の涙と共に―――
低い、けれど凛とした女性の声。その声に導かれるように、雫は鏡に手を伸ばした。指先が冷たいガラスに触れた瞬間、ペンダントが灼熱を帯び、雫の意識は、深い闇の中へと吸い込まれていった。
第一章:邪馬台国の光と影
意識が浮上した時、雫の鼻腔をくすぐったのは、むせ返るような土と草いきれの匂いだった。目を開けると、視界に飛び込んできたのは、鬱蒼と茂る木々と、その隙間から差し込む木漏れ日。博物館の冷たい空気とは全く違う、生々しいまでの自然の息吹が、雫の全身を包み込んでいた。
「…どこ、ここ?」
混乱する頭で体を起こすと、自分が身に着けている衣服が、令和の時代のものであることに、わずかな安堵を覚える。しかし、周囲の光景は、どう考えても現代日本のそれではない。土壁の簡素な建物、麻布のような貫頭衣をまとった人々、そして、遠くに見える物見やぐら。それは、歴史の教科書で見た、弥生時代の集落そのものだった。
人々が、こちらを見て何かを叫んでいる。言葉は分からないが、その表情には明らかに警戒と畏怖の色が浮かんでいた。彼らの視線が、自分の胸元に注がれていることに気づき、雫はペンダントを握りしめた。ルビーとダイヤモンドが、木漏れ日を反射して、神々しいまでの光を放っている。
「太陽の石…!星の涙だ…!」
誰かが、そう叫んだ。その言葉をきっかけに、人々はざわめき、道を開ける。その道の先から、一人の男性が、静かな、しかし威厳のある足取りで歩み寄ってきた。
年の頃は三十歳前後だろうか。日に焼けた精悍な顔立ちに、鋭い光を宿した瞳。他の男たちとは明らかに違う、気品と知性を感じさせる佇まい。彼もまた、雫の胸元に視線を落としたが、その瞳には畏怖よりも強い好奇の色が浮かんでいた。
「我が名はナギ。この国の長、ヒミコ様の弟として、政を司る者」
彼の言葉は、不思議と雫の耳にすんなりと入ってきた。これがタイムスリップという現象なのか。にわかには信じがたい現実に、雫は立ち尽くす。
「ヒミコ…卑弥呼?」
「いかにも。姉君は、鬼道をもって天の声を聞き、我らを導く御方。貴殿は何者か。その身に纏う奇妙な衣、そして、その胸に輝く宝玉は、一体…?」
ナギの問いに、雫はどう答えるべきか迷った。未来から来た、などと信じてもらえるはずがない。しかし、嘘をつける状況でもなかった。雫が口を開きかけたその時、集落の奥にある、ひときわ大きな建物から、荘厳な空気をまとった一団が現れた。
その中心にいたのは、白い衣を幾重にも重ねた、一人の女性だった。年は四十代半ばだろうか。長く艶やかな黒髪、深く澄んだ瞳は、まるで全てを見通しているかのようだ。彼女こそが、この国の女王、卑弥呼。その存在感は、見る者を圧倒し、ひれ伏させずにはおかない、絶対的なものだった。
卑弥呼は、ゆっくりと雫の前まで歩みを進めると、その胸元のペンダントに、細く美しい指を伸ばした。
「太陽の心臓を宿す石、そして、夜空の涙を集めし石…。遠い異国からの客人よ。そなたの到来は、天が我らに与えたもうた試練か、それとも吉兆か」
その声は、先ほど雫が博物館で聞いた声と同じだった。卑弥" "呼は、雫のペンダントに触れたまま、静かに目を閉じる。まるで、その石が持つ記憶や力を読み取ろうとするかのように。
「この石には、多くの想いが込められておる。喜び、悲しみ、そして、強い…強い愛の念が。そなた、名を何と申す?」
「…しずく、と申します」
「シズク。水の玉、か。良き名だ。ナギ、この者を我が宮殿へ」
卑弥" "呼の言葉は、有無を言わせぬ響きを持っていた。ナギは、わずかに眉をひそめたが、姉の決定に逆らうことはなかった。
雫は、為されるがままに、卑弥呼の宮殿へと案内された。そこは、外の集落とは別世界だった。高く張り巡らされた柵、厳重な警備。卑弥" "呼は、その姿を滅多に人前に現さないという。
通された部屋は広く、質素ではあったが、清浄な空気に満ちていた。卑弥呼は、静かに雫と向き合った。
「シズクよ。そなたがどこから来た者かは問わぬ。だが、その魂が、この時代のものでないことは分かる。そして、その胸の宝玉が、尋常ならざる力を持つことも」
雫は息を呑んだ。この女王には、全てがお見通しなのか。
「我が邪馬台国は今、大きな脅威に晒されておる。南に位置する狗奴国(くなこく)が、我らの土地を狙い、幾度となく戦を仕掛けてきておるのだ。私は鬼道により、民の心を一つに束ねてきたが、争いの火種は、日増しに大きくなるばかり…」
卑弥" "呼の瞳に、深い憂いの色が浮かぶ。
「そなたの持つ『太陽の石』は、民に希望を与える光となるやもしれぬ。だが、それは同時に、狗奴国の欲望をさらに掻き立てる火種ともなり得る。シズクよ、そなたの存在が、この国の運命を大きく左右することになるだろう」
それは、予言のようでもあり、警告のようでもあった。雫は、自分がとんでもない事態に巻き込まれてしまったことを、改めて実感する。愛に破れ、現実から逃げ出すようにして訪れた旅の果てが、千八百年前の古代国家の存亡に関わることになろうとは。
その夜、雫は一人、与えられた部屋で、窓の外に広がる満天の星を眺めていた。令和の東京では決して見ることのできない、無数の星々の瞬き。それは、あまりにも美しく、そしてあまりにも孤独だった。
胸元のペンダントを握りしめる。祖母が込めた願い。情熱と輝きに満ちた未来。それは、こんな形でもたらされるものだったのだろうか。
雫の心に、一つの決意が芽生え始めていた。元の時代に帰る方法が分かるまでは、ここで生きていくしかない。そして、もしこのペンダントが、本当に何か特別な力を持つというのなら…。
雫の、邪馬台国での日々が、静かに幕を開けた。
第二章:交錯する思惑
雫が邪馬台国で暮らし始めて、数ヶ月が過ぎた。最初は戸惑うことばかりだった生活にも、少しずつ慣れてきた。言葉は不思議と不自由なく通じたし、ナギや、身の回りの世話をしてくれる侍女たちの助けもあって、弥生時代の暮らしの中に、ささやかな居場所を見つけつつあった。
雫の存在は、邪馬台国の中で、瞬く間に特別な意味を持つようになった。「太陽の石を持つ天女」として、人々の畏敬の対象となったのだ。雫自身は、そんな風に崇められることに居心地の悪さを感じていたが、卑弥呼は、その状況を巧みに利用していた。雫を伴って祭祀に臨むことで、民の心を掴み、狗奴国との戦いで疲弊した国全体の士気を高めようとしたのだ。
「姉上は、そなたを利用しておられる。分かっているのか」
ある日、ナギが苦々しい表情で雫に言った。彼は、現実主義者であり、姉の持つ神秘的な力には、どこか懐疑的な目を向けていた。
「卑弥呼様のお考えは、私には分かりません。でも、私がここにいることで、少しでもこの国の人たちの心が安らぐのなら…」
「偽りの安らぎだ。狗奴国との問題は、祈りや祭りで解決するものではない。力には力で対抗するしかないのだ」
ナギの瞳には、為政者としての厳しい光が宿っていた。彼は、雫の持つ現代的な知識や、時折見せる柔軟な発想に、次第に興味を抱くようになっていた。例えば、雫が教えた簡単な傷の消毒法は、戦で傷ついた兵士たちの命を救い、作物の栽培に関する何気ない一言が、収穫量を増やすきっかけになることもあった。
「そなたは、不思議な娘だ。その知識は、一体どこで得たのだ?」
問われるたびに、雫は言葉を濁すしかなかった。しかし、国の未来を真剣に憂うナギの姿に、雫は次第に惹かれていく自分を感じていた。彼は、ぶっきらぼうな物言いの中に、深い優しさと責任感を隠している。それは、失恋で傷ついた雫の心を、少しずつ癒していく温かさだった。
一方で、雫の存在は、敵対する狗奴国にも知れ渡っていた。邪馬台国に「太陽の石」を持つ天女が現れ、民を扇動しているという噂は、狗奴国の王、卑弥弓呼(ひみきゅうこ)の耳にも届いていた。そして、その噂に最も強い興味を示したのは、彼の息子である、カゲトラだった。
カゲトラは、父王にも劣らぬ勇猛果敢な若者だった。しかし、彼の内には、力だけでは国を治められないという、父とは違う考えがあった。彼は、噂の天女とその宝玉を、自らの目で確かめたいと強く願った。
ある晩、カゲトラは数人の部下だけを連れ、密かに邪馬台国の国境を越えた。目的は、雫の拉致。太陽の石を奪い、邪馬台国の権威を失墜させる。それが、彼の狙いだった。
その夜、雫はナギと共に、村の見回りをしていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った集落を、月明かりが優しく照らしている。
「ナギ様は、どうして…私に優しくしてくださるのですか?」
ふと、雫は胸の中にあった疑問を口にした。ナギは、少し驚いたように足を止め、そして、照れたように視線を逸らした。
「そなたが…面白いからだ。俺の知らぬことをたくさん知っている。そして、何より…その瞳が、真っ直ぐだからだ」
その時だった。闇の中から、数本の矢が鋭い風切り音と共に飛んできた。
「危ない!」
ナギは、咄嗟に雫の体を庇うように抱き寄せた。周囲から、カゲトラの部下たちが一斉に襲いかかってくる。多勢に無勢。ナギは懸命に応戦するが、次々と現れる敵に、次第に追い詰められていく。
「天女殿、我らと共に来ていただこう」
混乱の中、一人の男が雫の腕を掴んだ。カゲトラだった。彼の瞳は、獲物を狙う猛禽のように、鋭く輝いていた。
「離して!」
雫が抵抗した瞬間、胸のペンダントが閃光を放った。その眩い光に、カゲトラたちが一瞬怯む。その隙を突き、ナギが渾身の力で剣を振るった。
「引くぞ!」
形勢が不利だと判断したカゲトラは、素早く部下たちに命じ、闇の中へと消えていった。
残されたのは、荒い息をつくナギと、恐怖で震える雫だけだった。ナギの腕には、雫を庇った際に受けた深い切り傷があった。
「ナギ様、お怪我を…!」
雫は、自分の着ていた服の袖を破り、懸命に彼の傷口を縛った。
「すまぬ…守り切れなかった」
「いいえ…ナギ様が、守ってくださった」
見つめ合う二人。月明かりの下、雫の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、恐怖からだけではない。自分を守るために傷ついたナギへの、感謝と、そして、それだけでは説明のつかない、熱い感情が込み上げてきたからだった。
ナギは、そっと雫の涙を指で拭った。その指先の温もりが、雫の心に深く沁み込んでいく。
この事件をきっかけに、雫とナギの距離は急速に縮まっていった。しかし同時に、狗奴国の脅威は、より一層、現実的なものとなって邪馬台国に迫っていた。そして、闇に消えたカゲトラの瞳には、雫とそのペンダントに対する、執着ともいえる強い光が宿っていたことを、まだ誰も知らなかった。
第三章:女王の孤独と後継者
カゲトラの襲撃は、邪馬台国に大きな衝撃を与えた。敵がこれほど大胆に国の中心部近くまで侵入してきたという事実は、ナギをはじめとする為政者たちに、狗奴国との全面戦争が避けられないことを悟らせた。国中はにわかに緊張感を増し、兵士たちの訓練にも熱がこもる。
雫は、傷ついたナギの看病をしながら、自分の存在が争いを激化させてしまったのではないかと、深い罪悪感に苛まれていた。
「私がここにいなければ、こんなことには…」
「そなたのせいではない」
傷の痛みに耐えながら、ナギは力なく首を振った。
「狗奴国との争いは、今に始まったことではない。いずれは、こうなっていた。そなたは、きっかけに過ぎぬ」
その目は、雫を責めてはいなかった。むしろ、不安に揺れる彼女を気遣う優しさに満ちていた。
そんな二人の様子を、卑弥呼は静かに見つめていた。彼女は、雫とナギの間に芽生え始めた淡い恋心に気づいていた。そして、それが国の未来にどのような影響を及ぼすのかを、女王として冷静に測っていた。
ある日、卑弥呼は雫を自室に呼んだ。そこは、彼女が鬼道の儀式を行う神聖な場所であり、弟のナギでさえ、滅多に入ることを許されない空間だった。
「シズクよ。そなた、ナギに心を寄せているな」
卑弥" "呼の言葉は、問いかけというよりも、事実の確認だった。雫は、顔を赤らめ、俯く。
「…それは、この国にとって、許されざることなのでしょうか」
卑弥呼は、静かに首を横に振った。
「人の心が惹かれ合うのを、誰が止められようか。だが、覚えておくがよい。為政者の愛は、時に国を滅ぼす毒となる。ナギは、いずれこの国を背負って立つ男。その隣に立つ者は、彼を支え、国を支える覚悟が必要だ」
そして、卑弥" "呼は、遠い目をして続けた。
「私も、かつては人を愛した。だが、女王として立つと決めた日、その想いを胸の奥深くに封じ込めた。この身は、国と民に捧げたもの。個人の情で、国を危うくすることはできぬ。それが、女王の孤独よ」
初めて聞く卑弥" "呼の告白に、雫は息を呑んだ。常に気高く、神秘のベールに包まれていた女王の、人間らしい一面。その横顔は、あまりにも寂しげで、儚く見えた。
「私には、子がおらぬ。だが、血を分けた宗女(そうじょ)がおる。名は、トヨ」
卑弥呼に呼ばれ、部屋の奥から姿を現したのは、まだ十三、四歳ほどの、聡明そうな瞳を持つ少女だった。彼女が、後の女王、台与(壱与)であった。
「トヨは、私の後継者。私が育て、鬼道の全てを授けてきた。この子には、私と同じ孤独を味わわせたくはない。だが、それもまた、この国を継ぐ者の宿命なのかもしれぬな」
トヨは、雫の胸元のペンダントに興味深そうな視線を向けた。
「太陽の石…本当に、太陽のかけらのように赤い。そして、星の涙は、どんな時も輝きを失わないのですね」
その言葉に、雫はハッとした。どんな時も輝きを失わない。それは、祖母が雫に託した願いそのものではないか。
会見の後、雫の心は乱れていた。ナギへの想い、女王の孤独、そして後継者であるトヨの存在。この国で生きていくということは、自分が思っていたよりも、ずっと複雑で、重い覚悟が必要なのだと思い知らされた。
数日後、狗奴国が再び国境付近で不穏な動きを見せているという知らせが届いた。ナギは、自ら兵を率いて、偵察に向かうことになった。
「必ず、戻る。それまで、待っていてくれ」
出発の朝、ナギは雫の手を強く握りしめた。その温かい感触が、雫の不安をかき消していく。
「お気をつけて」
ナギの背中を見送りながら、雫は胸元のペンダントを握りしめた。この石が、彼を守ってくれますように。心から、そう願った。
しかし、運命は、雫に更なる試練を与えようとしていた。ナギが出発して数日後、宮殿に衝撃的な知らせが舞い込んだのだ。
「ナギ様が…狗奴国の罠にかかり、捕らえられた、と…!」
伝令の兵士の言葉に、雫は血の気が引くのを感じた。ナギが、捕虜になった?
卑弥呼は、その知らせを聞いても、表情一つ変えなかった。しかし、その瞳の奥には、激しい動揺の色が浮かんでいた。
狗奴国から、使者が送られてきた。ナギの命と引き換えに、彼らが要求してきたもの。それは、「太陽の石を持つ天女」、すなわち、蒼井雫の身柄だった。
「天女を我らに引き渡せ。さすれば、ナギの命は保証しよう」
使者の言葉が、宮殿に冷たく響き渡る。邪馬台国は、最大の危機に立たされた。弟の命か、国の守り神とされる天女か。女王、卑弥呼に、非情な選択が迫られていた。
第四章:紅蓮の決意
ナギが囚われ、狗奴国が雫の身柄を要求しているという知らせは、邪馬台国を大きく揺るがした。民衆は動揺し、指導者たちの間でも意見が割れた。
「ナギ様を見捨てることなどできぬ!」
「しかし、天女様を渡せば、国の守りを失うことになる!」
激しい議論が交わされる中、卑弥" "呼はただ一人、神殿に籠り、天に祈りを捧げていた。だが、その心は千々に乱れていた。最も信頼する弟の命と、国の未来。どちらか一つを選ばなければならない。その重圧が、女王の心身を静かに蝕んでいた。
雫は、全ての元凶が自分にあると、深く自らを責めていた。ナギが捕らわれたのも、国が危機に陥ったのも、全ては自分がこの時代に迷い込んでしまったせいだ。そして、自分が持つこのペンダントが、人々の欲望を掻き立て、争いを引き起こしてしまったのだ。
「私が行きます」
雫は、意を決して卑弥" "呼の元へ向かった。
「私が狗奴国へ行けば、ナギ様は助かるのでしょう?そして、この国に平和が戻るのであれば…」
「ならぬ」
卑弥呼は、雫の言葉を遮るように、静かだが力強い声で言った。
「そなたを渡せば、ナギは戻るやもしれぬ。だが、それは一時しのぎに過ぎぬ。太陽の石を手にした狗奴国は、いずれ必ず、我らを滅ぼしにくるだろう。そなた一人の犠牲で、守れるものなど何もない」
「では、どうすれば…!ナギ様が…!」
涙ながらに訴える雫に、卑弥" "呼は、初めて弱々しい笑みを見せた。
「分からぬ…。私も、もう、天の声が聞こえぬのだ…」
長年の心労と、今回の事態が、女王の神秘的な力を奪い去ろうとしていた。その時、静かに二人の話を聞いていたトヨが、口を開いた。
「姉様(あねさま)。私に、考えがあります」
トヨの瞳には、年齢にそぐわない、強い意志の光が宿っていた。
数日後、狗奴国との交渉の場が設けられた。邪馬台国からの返答を待つカゲトラの前に現れたのは、卑弥" "呼の代理として立った、トヨだった。そして、その隣には、顔を布で覆った、雫らしき女性の姿があった。
「要求通り、天女を連れてきた。これで、ナギ様をお返しいただきたい」
トヨの凛とした声が響く。カゲトラは、疑わしげに布で顔を覆った女性に近づき、その胸元を覗き込んだ。そこには確かに、燃えるようなルビーと、星のように輝くダイヤモンドのペンダントがあった。
「…よかろう。約束通り、男は返す」
カゲトラの合図で、縄で縛られたナギが引きずり出されてきた。彼はひどく衰弱していたが、その瞳は、カゲトラの後ろに立つ女性の姿を捉え、絶望に歪んでいた。シズクが、自分のために…!
ナギの身柄が引き渡され、トヨたちが背を向けた、その瞬間だった。
「待て」
カゲトラが、鋭い声を上げた。
「その女の顔を、見せてもらおうか」
カゲトラは、布を纏った女性の元へ歩み寄り、その顔を覆う布を、乱暴に引き剥がした。
現れたのは、雫ではなかった。それは、雫と同じ年頃の、侍女の一人だった。彼女は、雫からペンダントを預かり、身代わりになることを自ら申し出たのだ。
「偽物か…!よくも騙したな!」
カゲトラの怒号が響き渡る。全ては、ナギを救い出すための、トヨが仕組んだ罠だった。
「全軍、かかれ!」
カゲトラの号令と共に、隠れていた狗奴国の兵士たちが一斉に姿を現した。しかし、それは邪馬台国側も読んでいたことだった。トヨの合図で、周囲の森から、ナギの帰りを信じて待ち伏せていた邪馬台国の兵士たちが、雄叫びを上げて飛び出してきた。
戦場は、一瞬にして怒号と剣戟の音に包まれた。
その頃、雫は、宮殿でナギの手当てをしていた。
「なぜ、あのような危険な真似を…!」
ナギは、雫の肩を掴み、激しく問い詰めた。
「あなたを、助けたかったから…!あなたがいない国なんて、私には…!」
言葉と共に、雫の想いが溢れ出す。ナギは、そんな雫を、強く、強く抱きしめた。
「もう、どこにも行くな。俺のそばにいてくれ」
二人の心が、ようやく一つになった瞬間だった。
しかし、戦況は邪馬台国にとって、決して有利ではなかった。兵の数では、狗奴国が上回っている。このままでは、国が滅びるのも時間の問題だった。
そして、その戦いの混乱の中、一人の男が、密かに邪馬台国の宮殿を目指していた。カゲトラだった。彼の狙いはただ一つ。本物の天女、蒼井雫と、その胸に輝くペンダント。
「見つけたぞ、天女」
ナギを看病していた雫の背後から、低い声が響いた。振り返ると、そこには、血に濡れた剣を携えたカゲトラが立っていた。
絶体絶命。雫が悲鳴を上げようとした、その時。彼女とカゲトラの間に、白い影が立ちはだかった。
「…卑弥呼様!」
それは、神殿に籠っていたはずの、卑弥呼だった。彼女の手には、青銅の剣が握られていた。
「我が国と、我が民に、指一本触れさせるものか」
その姿は、もはや神秘的な女王ではなかった。国を守るために、命を懸けて戦う、一人の戦士の姿だった。
「面白い。女王自ら、俺の相手をしてくれるとはな」
カゲトラの剣が、鋭く卑弥" "呼に襲いかかる。卑弥呼は、老いた身で懸命に応戦するが、若く、力に満ち溢れたカゲトラの攻撃に、次第に追い詰められていく。
そしてついに、カゲトラの刃が、卑弥" "呼の肩を深く切り裂いた。
「姉上!」
駆けつけたナギが、叫ぶ。だが、もう遅かった。白い衣を深紅に染め、崩れ落ちる卑弥呼。その命の灯火が、消えようとしていた。
最終章:時を超えた約束
「姉上っ!」
ナギの悲痛な叫びが響き渡る。深手を負い、倒れ伏す卑弥呼。その姿を見た邪馬台国の兵士たちの間に、絶望的な動揺が広がった。国の象徴である女王が倒れた。もはや、これまでか。誰もが、そう思った。
カゲトラは、勝利を確信し、卑弥" "呼にとどめを刺そうと剣を振り上げた。その瞬間、雫は、自分でも信じられないような行動に出ていた。ナギの腕を振り払い、カゲトラと卑弥呼の間に、自らの身を投げ出したのだ。
「やめて!」
雫の胸元で、ペンダントが、これまでで最も強い、紅蓮の光を放った。それは、まるで雫の決意と、卑弥" "呼の命の炎が共鳴したかのような、激しい輝きだった。その光は戦場全体を包み込み、あまりの眩しさに、兵士たちは皆、目を覆った。
光が収まった時、そこにいた誰もが、信じられない光景を目の当たりにした。雫の体は、淡い光の粒子となって、少しずつ消えかかっていたのだ。
「シズク…!」
ナギが、崩れ落ちるように雫の体に駆け寄る。
「駄目だ…行くな!」
「ナギ様…。私、帰らなくちゃいけないみたい」
雫の声は、不思議なほど穏やかだった。タイムスリップの終わりが、こんなにも突然訪れるとは。もっと、伝えたいことがあった。もっと、一緒にいたかった。だが、もう時間がない。
「ナギ様、卑弥呼様を、国を、お願い…」
雫は、最後の力を振り絞り、首からペンダントを外すと、ナギの手に握らせた。
「これ、持ってて。私のお守りだから。きっと、あなたと、この国を守ってくれる」
ルビーの赤が、ナギの瞳に映る。それは、雫の彼への想いの色だった。
「シズク…愛している」
初めて聞く、愛の言葉。雫は、幸せそうに微笑んだ。
「私も…愛しています」
その言葉を最後に、雫の体は完全に光となって、空へと消えていった。まるで、最初から何もなかったかのように。後に残されたのは、ナギの手に握られた、温かいペンダントだけだった。
雫の消失という、人知を超えた現象を目の当たりにした狗奴国の兵士たちは、戦意を喪失し、退却していった。カゲトラもまた、呆然と立ち尽くすばかりだった。
こうして、争いは終わった。しかし、邪馬台国が失ったものは大きかった。数日後、女王卑弥呼は、弟の腕の中で、静かに息を引き取った。
「トヨ…国を、頼む…。そして、ナギ…。強く、生きよ…」
それが、女王の最後の言葉だった。
卑弥呼の死後、男王が立つも国はまとまらず、再び争いが起きかけた。しかし、その混乱を収めたのは、十三歳の少女、トヨだった。彼女は、卑弥" "呼の遺志を継ぎ、女王として即位。ナギは、その補佐役として、生涯を邪馬台国の再興に捧げた。
ナギの胸には、常にあのペンダントが輝いていた。それは、時を超えて出会った愛しい女性の形見であり、国を守るという、彼女との約束の証だった。
◇
「…ん…」
蒼井雫は、ゆっくりと目を開けた。そこは、見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。窓の外は、すっかり明るくなっている。
「…夢…?」
あまりにも鮮明で、長い夢だった。雫は、がばりと体を起こす。首元に手をやるが、そこにあるはずのペンダントがない。
夢では、なかった…?
雫は、半信半疑のまま、身支度を整え、家を飛び出した。向かった先は、奈良の博物館。
震える足で、あの三角縁神獣鏡の前に立つ。鏡を覗き込むが、もうあの不思議な声は聞こえない。
諦めきれず、雫は博物館の常設展示室へと向かった。弥生時代の出土品が並ぶ、ガラスケースの一つ。その前で、雫は息を呑み、立ち尽くした。
ケースの中に、一体の土偶と共に、一つの石が展示されていた。
それは、赤く、燃えるような輝きを放つ、まぎれもないルビーだった。
ガラスに貼られた説明書きには、こう記されていた。
『女王の墓とされる古墳から出土。当時の日本には存在しない鉱物であり、大陸との交易によってもたらされたものか、詳細は不明。土偶が、この石を大切に抱きかかえるようにして埋葬されていたことから、極めて神聖なものとして扱われていたと推測される』
そのルビーの形は、雫のペンダントについていたものと、寸分違わぬものだった。
涙が、後から後から溢れてくる。ナギは、約束を守ってくれたのだ。国を、そして、この石を、千八百年もの間、守り抜いてくれたのだ。
失恋の痛みは、もうどこにもなかった。雫の心は、時を超えた壮大な愛の記憶で、温かく満たされていた。
数年後。
表参道のジュエリーショップは、今日も多くの客で賑わっている。その一角にあるアトリエで、雫は、新しいデザイン画を描いていた。彼女は、今や若手ジュエリーデザイナーとして、最も注目される存在となっていた。彼女が生み出すジュエリーは、愛と、希望と、力強い生命力に満ち溢れていた。
「先生、お客様です」
後輩の声に顔を上げると、そこに、一人の男性が立っていた。
息が、止まるかと思った。
日に焼けた精悍な顔立ち。鋭い光を宿した、優しい瞳。
「…ナギ、様…?」
思わず、口からこぼれた名前に、男性はきょとんとした顔をした。
「え?いえ、長谷川です。長谷川凪(なぎ)。ここのジュエリーのデザインに惹かれて…特に、このルビーを使ったシリーズが、なんだか、とても懐かしい気がして」
彼は、雫がデザインした、弥生時代の首飾りをモチーフにしたネックレスを指差した。
運命の再会。雫の瞳から、再び涙がこぼれた。だが、それはもう、悲しみの涙ではなかった。
「あの…もしよろしければ、お茶でもいかがですか?あなたに、聞いてほしい話があるんです。とても、とても、長い…愛の物語を」
雫は、最高の笑顔で言った。
令和の空の下、千八百年の時を超えた約束が、今、果たされようとしていた。二人の新たな物語が、ここから始まる。その輝きは、どんなダイヤモンドよりも、眩しく、永遠に失われることはないだろう。