『蒼き深淵の静寂』
くだらぬ。実にくだらぬ。巷に溢れる銀細工の類は、ただ銀という素材の価値に胡座をかいただけの、魂の抜け落ちた骸に過ぎぬ。職人の手から生まれたというのに、その手からは何の熱も、何の哲学も伝わってこない。ただ流行を追い、ただ女子供の歓心を買うためだけに捻り出された、浅ましいデザインの数々。見るに堪えんとはこのことだ。
そんな折、私の目の前に無造作に差し出されたのが、この一対の耳飾りであった。スペインの作だという。ふん、かの国の太陽と情熱も、今や安っぽい観光土産に成り下がったか、と半ば侮りながらも、手に取った瞬間、私は思わず息をのんだ。
ずしり、とくる。20.2グラム。この重さだ。見せかけだけの軽薄な作りではない。銀という金属が持つ本来の密度と尊厳を、作り手は少しも損なおうとしなかった。まず、その一点において、この品は巷の凡百の装身具とは一線を画している。
その形姿たるや、何と評すべきか。ある者は宇宙船のようだと笑うかもしれぬ。またある者は、古代の祭具のようだと畏れるかもしれぬ。どちらも違う。これは、一瞬の閃光、あるいは漆黒の夜空を切り裂いて流れる彗星の尾、そのものを銀に写し取ったのだ。両端に向かって鋭く、しかし決して攻撃的ではない、優美な曲線を描いて伸びるフォルム。それは静止した物体でありながら、凄まじい速度と運動の記憶を宿している。
表面を見よ。鏡面のごとく磨き上げられた銀の肌は、周囲の光を冷たく、厳しく反射する。だが、その中央に抱かれるようにして嵌め込まれた蒼い石に目を移せば、その光は吸い込まれ、二度と戻ってはこない。これはおそらくソーダライトであろう。しかし、そんな鉱物学的な分類など、この美の前では無意味だ。これは石ではない。地中海の最も深い場所から汲み上げてきた、一掬いの「夜」そのものである。あるいは、天才画家が狂気の果てに見た、黄昏の空の最も深い蒼の記憶の欠片か。その内部には、星雲のような白い脈が走り、静かなる深淵に微かな動きを与えている。
銀の冷たい光と、石の吸い込むような蒼。動と静。陽と陰。この二つの完全なる対立を、これほどまでに高い次元で調和させてみせるとは。作り手は、ただ美しいものを作ろうとしたのではない。彼は、この小さな耳飾りのうちに、宇宙の根源的な二元論を封じ込めようとしたのだ。
さらに驚嘆すべきは、この品を裏返した時である。多くの職人は裏側で手を抜く。見えない場所だから、と。だが、この作り手は違う。裏側は、梨地(なしじ)仕上げとでも言おうか、細かくざらついた肌合いになっている。これは、単なる装飾ではない。装着する者の肌に触れる部分への、作り手の心遣いであり、美学の現れだ。表の華やかさとは裏腹に、裏側は寡黙に、誠実に、その存在を主張する。この実直さ。この嘘のなさ。これこそが、本物の「仕事」の証である。
スペイン、アンダルシアの乾いた風と、灼けつくような太陽。そして、夜の訪れと共に全てを支配する、深い紺碧の空。この品を生み出した「キケ」なる職人は、おそらく、その光と影の劇的な対比の中で生きてきた人間だろう。彼は、ガウディのように自然の曲線を崇拝し、ピカソのように対象を解体し、ミロのように宇宙の記号を捉えようとした、かの地の芸術の正統な後継者に違いない。流行の形を模倣するのではなく、自らの魂が感じた風の形、光の速さを、ただ愚直に銀と石に刻み込んだのだ。
この耳飾りを、どのような女が身につけるべきか。着飾ることしか能のない、中身の空っぽな女には到底ふさわしくない。この品が持つ凛とした哲学と、峻厳な美を理解できるだけの知性と、そして、この重さに負けないだけの、強い自我を持った女でなければなるまい。彼女がこれを耳朶にかけた時、初めてこの耳飾りは完成する。それは、単なる飾りではない。女の横顔に、一つの揺るぎない物語と、孤高の精神性を与える、共犯者となるのだ。
くだらぬ品々に辟易していた私の目に、久方ぶりに映った、真の「物」がここにある。これは、ただの耳飾りではない。持ち主を選ぶ、誇り高き芸術作品である。これを手にする者は、その価値がわかる者か、あるいは、これからその価値を知ろうと努める、見込みのある人間でなければならぬ。さて、汝には、この蒼き深淵を覗き込む覚悟があるか。