【Punishment of name of solitude】
ベルイマンは結局は、幻想を描くのが好きなのだと、この映画が教えてくれる。
彼の映画の主軸となるストイックさと禁欲的で抑制された静けさ、神の不在、人間の孤独や、疎外感、また苦悩の深さを内面的に鋭く切り込んでみせる。そこには甘ったるさなどは微塵も感じられず、むしろ冷ややかでもあるのだが、彼の作り手としての端正さが、本作品では実に顕著でいて、そして計算されたうまさも際立っている。
夜明けにはじまり、夜明けに終わるこの映画を通して、老人は辛辣で孤独なまでの現実を特別な一日を通して突きつけられる。
ベルイマンはサイレン時から見受けられるドイツの表現主義的な悪夢を象徴的に冒頭で見せ、これがこの映画の主題となっていることは言うまでもない。老人の内的な世界の孤独と死への不安は普遍的なテーマであり、その内面にある現実を実に鮮やかに切り取っている。名優ヴィクトル・シューストレムの淡々とした深みのある演技が、シュールレアリズムを用いたベルイマンのイメージ手法とマッチしており、実に素晴らしい。
青春時代の邂逅でも、シューストレム演じるイーサクのみ現在のままで、他はすべて在りし日の美しい姿をとどめている。そしてビビ・アンデーション演じるかつての恋人サラに「鏡を見なさい」と、夢の中でも尚、現実を突きつけられる。老いた姿がそこにはあり、甘くほろ苦い想い出、などといった生易しいものはない。突き放され、孤独という名の罰を背負っているのだと言うことに彼は気づかされるのである。
イングリッド・チューリン演じる義理の娘と息子の夫婦間の不協和音は、自身の若き過ちとそのまま重なる部分でもあり、もはやイーサクは目を背ける事は出来ない。ビビ・アンデーションとふたりの男の存在もまた、過去の自身と、サラ、弟の関係性を象徴している人物設定が心憎いほどだ。
過去と現在、そして悪夢が交錯する中、イーサクは人と関わることを避けていた己の現実を知る。冒頭のドッペルゲンゲルは強烈なイメージとして観る者を圧倒するが、夜明けに終わる時、彼の夢はもはや悪夢ではない。ベルイマンの作品として、この映画が素晴らしく美しく穏やかに思えるのは、甘酸っぱい「野いちご」そのもののような後味を残してくれるからである。