【魯山人、銀の奔流に魂を見る】
わしは北大路魯山人。食に生き、器に死す。それが世間のわし評であろうが、笑止千万。わしが追い求めるは、ただ美の本質。土くれが炎を得て器という生命を得るように、万物には魂が宿る。その魂の声を聞き、形を与えるのが、わしの仕事よ。
先日、古馴染みの骨董商が、したり顔で小箱を差し出した。「先生、これぞという品が…」などと、口上ばかりは達者な男よ。開けてみれば、一本の腕輪。ふん、銀細工か。ありふれたものよ、と一瞥くれてやろうとしたわしの目が、その銀の連なりに射抜かれた。
なんだ、これは。
ただの銀ではない。月光を千夜重ねて練り上げたような、冷たくもなまめかしい光。そしてその形。鳥か? 炎か? いや、違う。もっと根源的な、生命が生まれ出る瞬間の、あの混沌としたエネルギーの奔流そのものではないか。
男が「スペインのエンリック・マジョラルという作家の…」と何か言っておる。そんなことはどうでもよい。作家の名なぞ、後からついてくるただの符牒よ。大事なのは、この銀が何を語りかけてくるかだ。
わしには見える。かの男、マジョラルとやらが、アトリエの椅子に座り、デザイン画などを描いているような軟弱な輩ではあるまい。彼は、地中海の荒波が打ち付ける断崖に立ち、乾いた風に身を晒しながら、自然という偉大なる師と対峙したに違いない。雲の千変万化、波の飛沫、岩肌を走る亀裂。それら森羅万象の声を、五感で、いや魂で受け止め、己の中で一度溶かし、そしてこの銀に叩きつけたのだ。
見よ、この一つ一つの銀片を。同じ形は一つとしてない。西洋かぶれの連中がありがたがるシンメトリーなどという、死んだ美学はここにはない。不揃いでありながら、全体として一つの生命体のような、凄まじい躍動感を生み出している。これぞまさしく、わしが器に求める「景色」よ。自然界に完璧な円や直線などありはせぬ。歪み、揺らぎ、非対称であるからこそ、そこに尽きせぬ味わいが生まれるのだ。
この腕輪は、肌に触れてこそ、その真価を発揮する。冷たい銀が、持ち主の体温を得て、次第に馴染んでゆく。そして歳月と共に、汗や空気に触れ、鈍く深い「いぶし銀」へと育ってゆくのだ。持ち主の生きた証を、その身に刻み込みながら。これはもはや装飾品ではない。持ち主と共に呼吸し、変化し続ける、もう一つの皮膚、もう一つの魂なのだ。
この品を、競りにかけるという。よかろう。だが、誰にでもくれてやるわけにはいかぬ。
ブランドの名に安心し、値段でしか物の価値を測れぬような、審美眼の曇った者には、この腕輪を着ける資格はない。その者たちの虚栄心は、この銀の持つ孤高の魂を、たちまち曇らせてしまうだろう。
この腕輪の主たるべきは、己の内に確固たる美意識を持ち、世間の評価に惑わされず、孤独を恐れぬ者。この銀の奔流に、自らの人生の荒波を重ね合わせ、その激しさすらも美しいと感じられる者。そのような者にこそ、この腕輪は、生涯の友として寄り添うてくれるだろう。
長さ約18.5cm、重さ8.1g。そんな無粋な数字に意味はない。手に取り、肌に乗せ、己の魂がこれに共鳴するかどうか、それだけが問題だ。
さあ、わしの目にかなったこの逸品。その真価を見抜く者は、この日本に果たしているのか。ただの銀と思うな。これは、地中海の風と、一人の作家の魂が、奇跡的に結晶した芸術作品なのだから。