雅虎拍卖号:g1147671376
开始时间:11/09/2024 18:00:02
个 数:1
结束时间:11/13/2024 18:00:02
商品成色:二手
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佐藤文吉(さとうぶんきち:1922~2008) 系統:肘折系 師匠:佐藤丑蔵 〔人物〕 大正11年8月14日、山形県最上郡及位(のぞき)の佐藤甚吉・としをの長男に生まれる。 母としをは遠刈田の佐藤茂吉の五女であり、3歳の頃佐藤文六の養女となった。 また甚吉の叔母サクは佐藤文六の後妻に入っていたので、その縁で甚吉はとしをと結婚して文六の婿養子となった。 従って文吉にとって、佐藤文六は戸籍上の、佐藤茂吉は血縁上の祖父にあたる。 昭和12年3月及位高等小学校を卒業後、しばらくの間、学校から頼まれて手伝いをしていたが、同年8月19日より文六の計らいで、岩手県湯田にいた佐藤丑蔵のもとに行って木地の修業を始めた。 丑蔵は文六の甥である。 昭和13年10月17日に及位に戻り、落合滝の及位ロクロ木工組合工場で祖父や父とともに木地を挽いた。 製品は横木が殆どであったが、こけしも依頼により少数は作ったという。 しかし、文吉は木地挽きを続ける気はなく、昭和14年4月に文六には内緒で横手の国鉄入社試験を受けて合格するが、文六の許可は得られず、やむなく木地業に戻ることになった。 昭和18年8月22歳で応召、北満州(黒河省)、浜松、フィリピン、仏印を経てサイゴンで終戦を迎えた。 昭和21年5月に帰還した。 昭和23年4月17日に院内の金子禮蔵次女トシと結婚した。 木地業は横木を主に行っていたが、昭和24年末より二ヶ月ほど遠刈田の佐藤光保の依頼で新型こけしの木地下を挽いた。 昭和25年3月に祖父の佐藤文六が亡くなった。 腰を据えて木地業を一生の仕事にすることを文吉がこころに決めたのには、この祖父の死が大きな契機となったいた。 戦後のこけしもこのころから少しづつ作るようになった。 昭和29年刊行の〈こけし・人・風土〉に戦前作が写真掲載され、工人としても知られるようになった。 昭和30年、映画監督でこけし愛好家だった田坂具隆や、蒐集家の大浦泰英にこけし製作再開を強く勧められ、比較的多くこけしを作るようになった。 昭和31年に東京こけし友の会の頒布品として注文を受け、以後は継続的に製作するようになった。 昭和30年代、40年代の戦後のこけしブームの時期には、最も人気の高い工人のひとりであった。 文吉自身がこけし製作にかける熱意や情熱は非常に強く、作品の質を高めるための模索や精進の姿からは、こけしに自己存在のすべてを懸けているかのような気迫すら感じられた。 昭和50年と51年の2年続いた集中豪雨とその鉄砲水で、自宅工場に大きな被害を受けた。 また年齢からくる腰痛などで用材の山出しといった作業が徐々に負担になっていたこともあり、決意して昭和52年及位より天童市中里へ一家で移住した。 天童においても継続的にこけしの製作を続けた。 平成20年7月3日没、87歳。 |
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