平成7年(1995)に、新人物往来社から出版された
『歴史研究』特集「藤原京の謎」である。最近の号に
は、これだけの全方位への集中力と執筆者の個性が光
っている特集が少ない。私は教え子に、本を買う時に
は「史料的価値」「ユニークな視点」「平明さ」の3
つを基準にしなさいと指導している。本書の圧縮され
た記事には、見事な分析力と豊かな知恵が凝縮してい
る・・・。昨今の新型コロナ騒動では、歴史家に必要
な現場検証の旅ができにくい。そんな時勢を、私は憂
えてる。歴史は読んで知識を得たら、現地を歩くこと
が大切である。目次は下記のとおりである。
【藤原京について】
本「歴史研究」は歴史考察が主軸なので、データ的
に少々補足したい。詳細は本号の岡田芳朗氏の「藤原
京の基礎知識」を御覧頂きたい。力作である!
藤原京は、持統8年 (694) 12月から、持統・文武・
元明天皇三代15年間の都である。和銅3年(710)3月、
平城京遷都に受け継がれた。藤原宮は畝火・耳成・香
具の大和三山に囲まれた地。そのことは『万葉集』巻
一の「藤原宮の御井の歌」によって知られる。
「藤原の 大宮仕へ 生れつぐや
処女がともは 羨しきろかも」
作者は不明だが、かの都に宮仕えしているバージン
(処女)の美姿をうらやましいサマに、週刊プレイボ
ーイ記者時代大いに感動したのを覚えている。女のコ
初々しさは人生でもたった数年限り。清少納言でなく
とも、世の男どもは「処女はあけぼの・・・いとをか
し!」と、呟きたくなる。話が脱線したので戻す。
神武天皇即位紀元2600年(1940)を控え、昭和
9年(1934)から十年間にわたり、国の支援のもと日
本古文化研究所による発掘調査が行われた。その結果、
旧鴨公村高殿(現・橿原市)の大宮土壇が、藤原宮大
極殿跡と判明。その前方に十二堂と朝集殿の存在もわ
かった。
同41年(1966)には、内裏推定地を通過する国道
165号(通称・橿原バイパス)建設計画により、県
教育委員会による緊急調査が行われた。その結果「評」
名を記した木簡が多数出土。郡や評の用字の交替期が
大宝令施行(702)と確認された。
また藤原宮と周辺古道との関係、京都範囲や条坊制
地割も推定できた。藤原京は、中ツ道を東京極、下ツ
道を西京極、山田道を南京極、横大路を北京極とする
東西約2・1キロ、南北約3・1キロの範囲を、朱雀
大路を中心に東・西各四坊南北十二条に区画されてい
た。一坊は900尺(約265m)で、小路により四
坪に区切られ、道路幅は朱雀大路が約25m、宮に面
する六条大路が21m、二条・四条・八条大路が16
m、三条大路が9mで、小路は7mであった。京内は、
中央北に16坊の地を占める藤原宮。さらに貴族屋敷
、
一般家屋、大官大寺、本薬師寺、紀寺などの諸寺院や
東市と西市が整備。京職が京都の全体を管理していた。
なお、『日本書紀』はじめ、各種古文書等の解説や
会員の問題提起は、本「歴史研究」を落札して御覧遊
ばせ!
【目次 特集記事】
●「藤原京の基礎知識」 岡田芳朗
●「大和三山」 加藤 昇
●「藤原京の造営計画とその源流」 佐藤 寛
●「藤原宮の朝賀の儀 持統天皇の衣装」 林 道代
●「親新羅の藤原京」 中川智津子
●「二人女帝 持統と元明」 稲葉一男
●「和同開珎をめぐって」 斎藤 馨
●「藤原京廃都の謎」 柳川寛雄
●「藤原京の千三百年の眠り」 田所久美
●「藤原京と大藤原京」 久保由紀子
●「藤原京条坊の復原」 境 淳伍
●「早すぎる藤原京廃都の謎」 窪田 孟
【特集以外の記事】
●「神功皇后の津田批判の再検討」 南原次男
●「将軍(源)頼家女 竹御所の名は鞠子」 大谷雅子
●「羽つき遊びの始まり」 佐藤 貢
●「奥州留守・伊沢家景と阿波・伊沢家景」 宮城正勝
●「三保の松原と碧眼の天女」 岡部芳雄
●「四隅突出型噴丘墓と特殊器台」 三原邦夫
●「直心影流・榊原謙吉」 加来耕三、他。
本の状態は、27年間大切に保管した「美本」である。
二冊購入した。ちの保存用の未使用品。送料は当方
が負担いたします。