およそ、美というものを分からぬ者ほど、己の身を飾る品に頓着する。凡俗の徒は、ただ高価なだけの石や金(きん)をぶら下げ、それが己の価値であるかのように嘯(うそぶ)く。愚の骨頂とはこのことだ。真の美とは、そのような虚飾の中には決して宿らぬ。それは、作り手の魂が、素材と真剣に向き合い、火花を散らした格闘の末にのみ、その姿を現すものなのだ。
ここに一対の銀の耳飾りがある。これを見て、ただの装身具としか捉えられぬ者は、もはや美を語るに値しない。直ちに引き返すことだ。これは、スペインという、太陽と情熱の国が生んだ一人の芸術家、チェロ・サストレの「作品」である。断じて、そこらの職人が手慰みに作った銀細工などではない。
この女流作家、サストレという人物のことは、私も詳しく知るわけではない。だが、そんなことは些末な問題だ。この作品を見よ。すべてがここに語られておる。彼女が、ただ銀という素材をこねくり回したのではないことは、見る目のある者には一目瞭然であろう。彼女は、銀に宿る冷たく硬質な魂と対話し、その内なる声を聴き、そして己の魂を叩きつけたのだ。
見よ、この螺旋を描く大胆な形を。これは、生半可な感性で生み出せるものではない。イベリアの乾いた大地を吹き抜ける荒々しい風か。あるいは、フラメンコの踊り子の、激情をほとばしらせて翻るスカートの裾か。静止しているにもかかわらず、そこには凄まじいまでの運動エネルギーが封じ込められておる。甘美な曲線ではない。むしろ、生命の根源的な力、そのせめぎ合いが、見る者の魂を揺さぶるのだ。
そして、この表面を覆う槌目(つちめ)の跡。これこそが、この作品の真骨頂である。機械で打ち出したような、つるりとした能面のような銀など、何の面白みもない。美は、均一なものの中にはない。この無数の凹凸の一つ一つが、サストレという作家の呼吸であり、一振り一振りに込められた情念の記録なのだ。光は、この凹凸に乱反射し、まるで水面のように、あるいは風にそよぐ草原のように、千変万化の表情を見せる。朝の光、昼の光、そして夜の灯火の下で、この銀は異なる生命を宿し、異なる物語を語り始めるだろう。これぞ、生きた銀の姿に他ならぬ。
重さは片方で約八グラム。これを、軽いと見るか、重いと見るか。凡俗の者は、ただ物理的な重さしか測れぬだろう。だが、ここには、作家の苦悩と歓喜、そしてスペインという土地が内包する数千年の歴史の重みが加わっているのだ。それを感じ取れぬ者に、これを身に着ける資格はない。
この耳飾りは、着ける者を選ぶ。流行の服を着て、虚ろな笑みを浮かべる女には、到底不釣り合いだ。この銀が持つ、孤高の魂と張り合えるだけの、強い意志と、己自身の美学を持つ者。そして、沈黙の中にこそ雄弁があることを知る者。そのような人物が身に着けて初めて、この作品は真の輝きを放つのだ。それは、もはや装身具ではない。その者の生き様を映し出す、一つの表明となるだろう。
私が作る器が、ただの料理を盛るための道具ではないように、このサストレの作品も、ただ耳を飾るための銀片ではない。これは、日々の暮らしの中に美を見出し、芸術と共に生きんとする者のための、ささやかな、しかし確固たる闘争の証なのだ。その価値が分かる者だけに、私はこれを譲りたいと思う。