銀の怪物、あるいは野性の奔放:バルセロナの風が生んだ耳飾りを魯山人、大いに語る
かのスペイン、バルセロナの女流作家チェロ・サストレの手によるという銀の耳飾りを前に、私はしばし言葉を失う。これは単なる装身具ではない。銀という素材を借りて現れた、野性の魂そのものである。昨今の職人どもが作る、形ばかりで生命の宿らぬ細工物とは、その格において天と地ほどの開きがある。
一見して、多くの者はこれを奇妙な生き物の形と見るだろう。鹿のようでもあり、あるいは羚羊のようでもある。しかし、そのいずれでもない。これは形を写し取ったものではなく、生命の躍動そのものを捉えんとする試みだ。二つの銀の塊が、絶妙な均衡を保ちつつ、それぞれが勝手な方向を向き、奔放に振る舞う。上の塊は天を仰ぎ、下の塊は地を蹴る。その間に生まれる緊張感こそが、この作の本質である。
この形、どこかで見たことがあると思えば、かのジョアン・ミロの絵に通ずるものがある。ミロもまた、バルセロナの土が生んだ鬼才であった。彼の描く線は、子供の落書きのように自由闊達でありながら、その実、計算され尽くした宇宙の法則を内包している。無意識の中から生まれる形、夢と現実の境を彷徨う魂の叫び。サストレは、ミロがカンバスの上に解き放ったその魂を、見事に掌中の銀塊へと転生させたのだ。
そもそも、銀という素材は扱いが難しい。金のように威張ることもなく、銅のように媚びることもない。ただひたすらに、その白い光沢の奥に、冷徹なまでの静けさを湛えている。凡俗な職人の手にかかれば、その冷たさだけが際立ち、見る者の心を凍らせるような、味も素っ気もない代物が出来上がる。しかし、真の作り手は、その静謐の中から、燃え盛る生命の炎を引きずり出す術を知っている。
この耳飾りを見よ。表面は滑らかに磨き上げられているが、その内には、銀が本来持つ荒々しい力が満ち満ちている。光を受ければ、ある時は月の光のように静かに、ある時は稲妻のように鋭く輝く。それは、あたかも地中深くで眠っていた銀の魂が、今まさに目覚め、咆哮を上げんとするかのようだ。裏面の仕上げもまた、見事なものよ。槌の跡をあえて残し、作り手の指の力が伝わってくるかのような、生々しいまでの迫力がある。表の静と裏の動、この対比が、この作品に奥深い味わいを与えている。
これを身に着ける者は、よほどの覚悟がいるだろう。そこらの令嬢が、着飾ったドレスに合わせるような、甘っちょろい代物ではない。これは、着るものを選ぶのではない。人間を選ぶのだ。この耳飾りが持つ野性の力と渡り合えるだけの、強い自我を持つ者でなければ、たちまちその輝きに負けてしまうだろう。
サストレという作り手は、おそらく承知の上でこの「怪物」を生み出したに違いない。ミロが「絵画の暗殺」を宣言し、旧来の美の価値観を打ち砕いたように、サストレもまた、この小さな銀の塊で、装身具というものの既成概念を打ち破ろうとしている。これはもはや、耳を飾るための道具ではない。身に着ける者の魂を揺さぶり、その内なる野性を解き放つための、一個の独立した芸術作品なのである。
くだらぬ。実にくだらぬ。巷に溢れる、ただ美しいだけの装身具の、なんとくだらぬことか。美とは、単に目に心地よいだけのものではない。時には人の心をかき乱し、眠っていた魂を呼び覚ますほどの力を持つものでなければならぬ。その点において、このサストレの耳飾りは、真の美を宿していると断言していい。バルセロナの乾いた風と、灼熱の太陽、そしてミロという狂気の天才が生んだ、まこと見事な一品である。これほどのものが、今、我が目の前にある。実に、愉快なことではないか。