Heller Echelle 1/400~ LUTZOW リュッツオウ 802 MADE IN FRANCE フランス 未組立
必ず説明文を、●●●の箇所までは、お読み下さい。
2025年3月1日頃より、500円スタートします!!
ウォッチリストにいれてそれまでお待ちください!!
この商品の他に、全て、軍艦・艦船等の年代物プラモデルを80品程出品します。
早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が30~50年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
価値のわかる方へお譲りをしたいです。
日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
高値に設定してありますが、それで良い方はご購入ください。全て出品後しばらくしてから、一斉に値下げ予定です。(500円スタート等予定)
私のプロフィール出品リストより、他の出品物をチェックしていってください。多忙の為、1日に数点づつの出品となる事をご容赦下さい。
現在価格で構わない方は入札お願いします。(落札後発送いたします)
待たれる方は、ウォッチリスト登録してお待ち下さい。(値下げされたら通知される設定をおすすめします)
複数落札いただいた場合、可能な限り同梱いたします。落札後に承ります。必ず落札後の取引後、必ずその事を連絡ください。特に記入なければそのまま発送いたします。
長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、30~50年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝
リュッツオウ (Ltzow) は、ドイツ海軍のアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦[1]。同級の第3グループに属す。艦名はプロイセンの軍人ルードヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・フォン・リュッツォウから取られている[2]。
1940年4月、ナチス・ドイツは未完成の本艦をソビエト連邦に譲渡し[3]、ソビエト海軍の「ペトロパブロフスク (Петропавловск)」となった[4]。 独ソ戦が始まると、浮き砲台としてレニングラード防衛戦に従事[5]。1944年に「タリン (Таллин)」と改称した[5]。1953年には練習艦に類別変更され「ドニエプル (Днепр)」と改名、1956年に海上兵舎に改修されて「PKZ-112」になった[5]。1958年に除籍された[5]。
艦歴
1937年2月8日ブレーメンのデシマーク造船所(英語版、ドイツ語版)で起工。1939年7月1日進水。同年8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。9月初頭より第二次世界大戦が勃発した。この時点で、「リュッツオウ」は未就役であった[6]。
11月15日、ドイツ海軍はドイッチュラント級装甲艦(ポケット戦艦)1番艦ドイッチュラント (Deutschland) を[7]、「リュッツオウ」と改名した[8]。当時、ドイツは同盟国のソビエト連邦と新型重巡の売却交渉をおこなっており、「ドイッチュラント」の改名は本艦の譲渡をカモフラージュする意図があったという[9]。
1940年2月11日の時点における本艦は、艦橋の基礎工事が行われ、A砲塔・D砲塔が搭載されていた。350万トンの物資と引き換えに、レニングラートのオルジョニキーゼ記念工場 (第189造船所) へ曳航された。4月15日よりドイツから派遣された技師の指導の下建造作業が再開され、1942年頃の完成を目指した[10]。 9月25日には、「ペトロパヴロフスク (ロシア語:Петропавловскピトロパーヴラフスク)」と改名された。これは83型と称された[11]。ソ連海軍にとって82型巡洋艦の溶接構造の船体や装甲配置、新型の高温ボイラー、10.5cm連装高角砲などは貴重な教材となった。第17中央設計局は図面や資料を積極的に研究して技術の吸収とその向上に役立てた[12]。
ドイツでソ連侵攻の準備が開始されたとき、ドイツ人技師たちは「ペトロパヴロフスク」の建造を中断した。1941年6月のドイツによるソ連侵攻の直前では完成率は51%であった[11]。しかし、「ペトロパヴロフスク」は最低限の運用能力は有するものとして8月15日には実戦配備に就き、浮き砲台として使用されることになった。[11]
レニングラード防衛戦ではドイツ軍に対して20.3cm砲で艦砲射撃を行った。この時にA砲塔の1門は22発を撃ったところで破裂し残りの3門で1700発以上発射したが、9月17日に砲爆撃を受けて被弾浸水により港内で着底した[13]。