基本情報|Release Information
女囚の呪詛と娼婦のブルースが、一枚の見開きに封じられた黙示録。
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レーベル:Teichiku Records
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品番:SL-220/221
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フォーマット:2LP, Stereo, Gatefold, 帯・補充カード付属
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国:Japan
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リリース年:1974年5月
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タグ:Kaykyoku, Japan, 1970s, Female Vocal, Soundtrack, Exploitation
作品の解読|Decoding the Work
『ゴールデン・スター・ツイン・デラックス』は、単なるベスト盤でも、懐メロ的な総集でもない。それはむしろ、梶芽衣子という身体と声を通して、1970年代日本の大衆文化がどのように「女」を想像し、恐れ、商品化したかという過程を、一枚の見開きの中に封じ込めたアーカイヴである。
「怨み節」「おんな叛き唄」「修羅の花」——どれもが血の滲むようなタイトルであり、そのまま音楽というより呪文のように聴こえてくる。とくに終盤に収録された**『女囚701号さそり』のサウンドトラック・ダイジェスト(22分超)**は、映画の記憶と聴覚が交差する場であり、いわば「聴く映画」である。
大きな特徴は、歌謡・ブルース・サントラ・叙情歌といったジャンルを自在に横断しながらも、すべてが「女性の復讐と哀惜」という情念の軸で統一されている点にある。しかもその声は、常に男社会を鏡のように反射しながら、どこか「声にならないもの」を孕んでいる。
本作は単に名曲を収めた二枚組ではなく、映画、文学、社会不安、欲望の制度設計までを貫く、ひとつの声の軌跡である。梶芽衣子という名のアイコンはここで、役を演じる女優としてでなく、大衆の無意識を歌う口として機能している。
そしてこのパッケージ(帯・ゲートフォールド・補充カード完備)こそが、「大衆文化の儀礼性」を視覚的に体現している。つまりこれは聴くための記録であると同時に、日本の映像=歌謡文化における「女の声の政治学」そのものなのである。
■怨み節文化論|The Cultural Politics of Urami-bushi
「怨み節」という語は、単なる歌のタイトルではない。それは1970年代日本において、女性の声と怒りが制度の内部から音楽というかたちで立ち上がった瞬間の記号であり、同時に「可聴化された社会的欲望」の象徴であった。
梶芽衣子が1972年の映画『女囚701号 さそり』で歌った「怨み節」は、女囚という抑圧された身体の内部から発せられるモノローグ=声であり、その歌唱は旋律というよりも呪詛に近い。怨みの主語は明示されないが、それは男社会であり、恋人であり、国家であり、監獄であり、そしておそらく「私自身」でもある。この多重構造こそが、「怨み節」を私語でありつつ、同時に大衆語にしてしまう。
メロディは単調に近いが、そこに漂うのは繰り返し/抑圧/循環する怨念であり、それは構造的暴力を受け続ける身体が“歌”という形式に変換されたときに現れる、ある種のコード不安定性(tonal instability)でもある。ここでは、怒りが「叫び」ではなく「節」として調律されることで、逆にその政治性が露呈するのだ。
「怨み節」は、ジャンル的には演歌/歌謡曲の周縁に位置づけられるが、美学的にはブルースに近い。それは和楽器的スケールではなく、情念の蓄積としてのブルー・トーンを用いる。英語圏で言う“torch song”とも異なる、「言葉にできない感情を声で包む」歌。それが怨み節である。
そして、梶芽衣子という存在は、その“包み”の象徴である。彼女の声にはヴィブラートがない。これは感情の演技ではなく、感情そのものの結晶化であり、声帯による抵抗の記録だ。梶の声は装飾を拒み、感情を演出せず、怒りと沈黙の中間を揺れる。
このようにして「怨み節」は、ただの劇中歌でも、ヒット曲でもない。それはジェンダー化された抑圧構造に対する可聴的反撃であり、70年代日本における女性表象のラディカルな地点のひとつである。
「女の声」が単なるメロディラインとしてでなく、「抗議の形式」として商品化される。この矛盾こそが、「怨み節文化」の核心であり、その声は今なお制度の隙間からこちらを見返している。
状態詳細|Condition Overview
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メディア:EX+/NM
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ジャケット:NM(ゲートフォールド仕様)
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付属品:帯・補充カード
支払と配送|Payment & Shipping