丹波古陶館・日本民藝館・兵庫県陶芸館所蔵品から滅多に見ることのできない個人蔵品まで、
平安時代、鎌倉時代、室町時代、桃山時代、江戸時代に制作された
古丹波の伝世品の数々をカラー・モノクロ写真398点を収録した、古丹波のバイブルの大型豪華愛蔵本。
また、各作品には制作年代、寸法、作風や見どころなどの詳細な解説付き。
多彩な丹波窯の歴史を、穴窯時代と登窯時代に大別し、更に穴窯時代を三期に、登窯時代を四期に、窯、焼成、陶土、成形、釉薬、文様などに亘って整理分類。
大型本のため、一つ一つの写真図版が大きめで、細かい部分までよく見ることができます。
巻末解説には、さらにモノクロで追加写真図版、原寸大の手印(窯印、陶印)や朝倉山椒壺に押された印、重ね焼きの跡、壺などに記された年号や陶工の銘、甕などの実物大の彫銘。小壺や徳利などの刻印の写真なども掲載。また、壺に見る形状の変化を年表にまとめたもの(平安時代の穴窯、~江戸時代末期の登窯時代までの外観・断面図、成形…紐造り・轆轤造り、釉薬…自然釉、灰釉、赤土釉、白釉、装飾…猫掻、手印、箆彫文、釘彫文、型押など、事柄…丹波窯の発生~元久四年銘大甕、稲荷山窯、徳利焼き始められる、重ね焼き始まる、などの歴史的事象)も収録。
丹波古陶館、能楽資料館館長を歴任してきた著者は、
深く広く古丹波の研究を進め、丹波焼に関する著書を数多く出版。
多く引用されてきた本書は、古丹波研究、古丹波鑑賞、取引、鑑定の基礎資料として、
古丹波コレクター必携の大変貴重な資料本です。
【序にかえて 中西通】 より
古丹波の優品を収蔵する館が三館ある。
その一つは、古丹波を「もっとも日本らしき品、貧しさの富を示す品、渋さの極みを示す品」と激賞された柳宗悦先生が、昭和の初めから三十年代にかけて蒐められた日本民芸館である。次の一つは、昭和四十年を中心に古丹波の名品を蒐められた田中寛氏が開館された兵庫県陶芸館である。又の一つは、大正の終りからこの道に生涯をかけた私の父中西幸一が覚めた、古丹波を収蔵する丹波古陶館である。これに加えて、個人の所蔵となる優品、名器も、私の手元に残された記録をみても、大変な数である。
私は、丹波古陶館を開館して以来、何んとかこの五十年間に父の手を経た古丹波の数々を、せめて図録の中にでも一つ
にしてみたいという欲望にかられていた。その事が、多くの方々の御助力を得て、ついに実現することになったのである。私は、図録に収載するための一品、一器を、父の歩いた道を遡りながら確かめようとした。しかし、それはあまりにも大きな仕事で、どうしても収録しなければならない品でありながら、割愛せざるを得なかったものがあったことも事実である。しかし、前述の三館の蔵品を、吟味して収載出来たのは本当に幸であった。
特に浜田庄司先生には「いいことだから、民芸館も協力しますよ」と題字とともに暖かい御言葉を頂きながら、完成を見ていただくことが出来なかったのは、心残りである。ここに感謝の気持とともに、その全文を掲げさせていただいて華としたい。丹波篠山の尚古堂故中西幸一氏は、丹波古陶について長年の収集を続け、晩年病を得てから念願の丹波古陶館を建てられた。店のすぐ側に、この目的にうってつけの長い倉庫二棟があったのを入手されて改造、新しく門を添え、内容に相応しい陳列館として、昭和四十四年春公開された。丹波の古陶としては、鎌倉期以来の逞しい日用陶器、江戸以後の技巧のさえた茶道具、丹波古陶館には共に陳列替えにも十分余裕のある代表作を収蔵して心強い。
特に、故柳宗悦の鋭い眼力によって、一見地味な、しかし用途に即した大小の備蓄用、厨房用の健康な品々を選び、
日本民芸館のために求めて、展観に、著述に、物を見せ事を説いて世人の認識を深めたことは、茶道具外の丹波の雑胸のために、今迄にない重要な座を与えた。柳は常に物を直下に見て選び、美しさのためには、知識の物差で計れないようなものに出会いたいと希った。材料も道具も持たず眼で看たという一瞬に、眼だけで創作した。今度、中西氏令息の通君が、二代に亘る収集の成果をもとに、図録「古丹波」の出版を企てられたので、私は過日丹波古陶館を尋ねたが、新しく飾られた大甕類に眼を見張り、館の収集が一段と進んだことに感心した。この図録は、
柳宗悦や、君の両親の長い努力への感謝のしるしとして、大変機を得た贈り物だと思う。
【目次】
序にかえて
図版
穴窯時代第一期 平安時代末期―鎌倉時代 図版1~図版16
穴窯時代第二期 室町時代初期―室町時代中期 図版17~図版50
穴窯時代第三期 室町時代末期―桃山時代 図版51~図版95
登窯時代第一期 慶長―寛永 図版96~図版133
登窯時代第二期 寛永―延享 図版134~図版240
登窯時代第三期 寛延―天明 図版241~図版280
登窯時代第四期 寛政―慶応 図版281~図版398
解説
「古丹波」付 王地山焼・蒐集の五十余年
【凡例】
本書は日本六古窯の一つである「古丹波」の美と仕事の全貌を後世に伝えるべく、日本民芸館・兵庫県陶芸館・丹波古陶館の全面的協力の下に、全ての掲載図版を現地にて特撮したものである。
本書はその編集に当って、穴窯時代と登窯時代に大別し、更に穴窯時代を三期と、登窯時代を四期に分類し図版を収録した。
図版の配列はその時代区分によって行ったが、器形と技法の推移を紹介するため前後したものもある。
図版解説に於ては、作品そのものは勿論、窯、焼成、成形、文様などを詳述し、図版解説を追うことにより、古丹波の流れが理解できるように記述した。
図版ネームに於ては、「作品名」と「時代」及び「高」のみの表記にとどめ、その他の寸法及び所蔵者名は図版目録に一括記載した。
原色図版については、古丹波のもつ基本的な印象を克明に捉えるべく、原品校正を原則として、その色調を厳正に再現した。
撮影=日本写真印刷株式会社写真部・近代写真研究所
【図版・解説】より一部紹介
1自然釉横筋文壺 平安時代末期 高25.5
伝世する丹波焼の中で最も古く、常滑などで三筋壺と呼ばれているものと同種、同時代であるが、土味、火色,形状は独特のものである。三本峠物原から出土した陶片にも類型的な陶片が見られ、丹波の開窯が平安時代に遡ることを明確に物語っている。この時代のものは、生活雑器としての丹波焼がもつ印象とは異なり、可成り高度な技術を要求されたのであろうか。この夜は口造りは伸びやかに上部に拡がり、肩から底部への線も丹念な整形である。鮮やかな自然釉に窯中の降り物が加わり、赤褐色の火色との調和が美しく、二本づつ三段に引かれた横筋文も力強い。肩に刻書された「吉」の字は、この壺が祭器として生れたことを意味するものと考えられる。
3自然釉甕 鎌倉時代 高42.5
ゆったりとした器形に相応しい無造作な口造りは、この甕の時代を物語るとともに、大きな見所となっている。不完全な窯のためか降り物が多いが、これは「なだれ」とも呼ばれ、穴窯時代の見所の一つでもある。浅い緑の自然釉と地肌との色彩的な調和が美しい。
17自然釉壺 室町時代初期 高41.0
鎌倉時代末期において二重口縁をもつ売の中に、口造りが肩から独立して成形されたものが見られるものの、壺類の口造りは殆んど全てが肩の部分がそのまま延長した状態でロ造りとなっている。この時代になって始めて明確に独立した口造りを持つ壺が生まれ、前時代の形態を受け継いだものと二種に大別されるようになる。この壺は胴の中央部が大きく張り出した、この時代としては異例の器形で、暗赤色の地肌の上に自然釉の緑が美しい。
51自然釉壺 室町時代末期 高42.2
丹波の夜には胴の細いものと、肩の張った丸い形のものに大別されるが、室町時代の冒頭に掲げたように胴の中央部が大きく張り出した所謂算盤玉状のものも見受けられる。この種のものは室町時代初期に限られ、手印や描きを作ったものが多いが、第二期の後にはこの器形を見ることがない。ここに掲げた壺は均整のとれた平な形をもった壺で、この時代としては異例のものである。この時代の窯詰めは焼き締りによる器の収縮を考えて、殆んど隙間のない状態でなされ、僅かな傾斜でも隣の器とくっつくことが伝世される登甕により分る。このことからこの姿が窯中で変化して平になったのではなく、最初からの造形であることは明らかである。たっぷりと流れた自然触の発色も美しい夜である。この時代の代表的な優品である。
96鉄釉大扁壺 桃山時代 高48.3
四百年に亘って焼き続けられてきた穴窯が、慶長末年に登窯に移行したことは種々の伝世品から容易に想像できる。この時代は、文禄、慶長の役の影響を受けて、朝鮮から新しい窯と焼成技術が導入され、各地に新しい窯業地が生れた。丹波も例外ではなく、より合理的な製法を求めて登窯を築き、全て幅によって成形された器に、全て人工的な釉薬を掛けて焼成が行われるようになる。紐造りで成形し、無釉焼き締めの素陶であった丹波焼に大きな変化の起った時期である。この大扁壺は沢に鉄の多い土を混合して作られた釉薬で、窯中で鉄分が完全に融けて浮き出し、玉虫色に変化している。成形は積値によるもので、前後をたたいて器形に変化をつけているのも面白い仕事である。殆んど泥を含まない灰汁で生地を拭いているのがわかる。
134赤土部釉不遊環平壺 江戸時代初期 高24.5
第二期は第一期が灰釉の時代であったのに次いで赤土部釉の時代といえる。自然釉から生れた灰釉とは別に、塗土から生れたのが赤土部釉である。この釉薬は器面を滑らかにするためと、水漏れを防ぐことを目的として生れたが、陶土と同化せず完全な釉薬となる。さらに窯中で朱赤色に発色し、自然の降灰と相俟って美しい窯変の世界を見せてくれる。下部を轆轤で素直に挽き上げ、上半分に轆轤目を利かした甕は備前にも見られて、中世から近世に移り変る時代の代表的な仕事の一つである。この壺は扁平な美しい形で輪を捻った形の不遊環を付けている。薄赤い土部釉の発色の上に自然の降灰が白く掛かっている。
241赤土部釉窯変大徳利 江戸時代中期 高43.7
242窯変徳利 江戸時代中期 高17.9
243窯変徳利 江戸時代中期 高22.0
江戸時代中期は、赤土部釉が終って新しい灰釉が登場する時期である。赤土部釉は本来器面を滑らかにし、水漏れを防ぐために生れた釉薬であるが、焼成の結果が安定せず、完全な器として歩止りが悪いため、より効率的な釉薬を求めるようになる。その結果陶土において山土を水娠して精製するようになるのと同様に、釉薬においても、吟味された鉄釉状の土部と、精製された灰釉が使用されるのである。図版241は往年の発色を残した赤土部釉であるが、釉薬の粒子が細かく、かつてのあたたか味は消えている。図版242,243はすでに鉄釉に変化して居り、次代の代表的な釉薬である「栗皮釉」の初現である。この時期はまだ窯詰めの際サヤを使っておらず、窯中の降灰による変化も見られる。
281筒描藤棚文壺 江戸時代末期 高16.2
江戸時代末期は白の化粧土をはじめ更に石黒釉、栗皮釉、土灰釉と新しい釉薬が定着し、その釉薬を組合わせた文様が考案され、古丹波の最末期を飾るに相応しい多彩な器の数々が生産される。この筒描は、この時代の丹波の代表的な装飾技法の一つであって、竹筒の下部に穴をあけて細い竹を差し込み、筒の中に釉薬を入れて落差を利用して絵や文字を描く方法と、渋を引いた紙を漏斗状にし、先端に竹や金具を付けた道具で、中に釉薬を入れて指で押し乍ら絵を描いたものとの二種がある。この藤棚文壺は、後者の道具を使って白釉で絵を描いたもので、自在な筒のさばきによる調達な絵は、筒描の文様の中でも特筆すべきものである。上から掛けられた土灰釉の発色も美しい。
ほか
【解説「古丹波」付 王地山焼蒐集の五十余年】より一部紹介
…(略)…これらの形を丹波焼の中に考えるとき、丹後の陶工が陶土の悪さに苦しみ乍ら造りの困難な成形に挑み、長い目的と破損の多い焼成の穴窯に取組んだ変が容易に想像できる。今私達が感じる器そのものの力強さや、焼成の過程に起きた鮮やかな緑の自然験も、彼等には全くかかわりのない、むしろ焼物造りの上での障害の産物ではなかったろうか。開窯期から凡そ四百年、慶長年間に至る穴窯時代は、陶工にとってただひたすら土と窯とのたたかいであった。しかしその困難を克服して得た技は登窯の導入によって開花し、丹波窯のもつかけ替えのない個性として、『常に使い易く生活の用に即し、美意識に溢れた焼物』となるのである。近世初頭登窯と塗土が生んだ燃えるような赤土部釉の輝きは、すでに陶工の心に自然の恵みと自らの手が生みだした『美』として焼きついていたに違いない。さまざまな文様や器を消化しながら、更に新しい窯や釉薬を取り入れて、新しい焼物を造り出していく。丹放窯の歴史は常に止むことを知らぬ新しい焼物に対する挑戦の歴史でもある。丹後焼がいつの時代のものにも鑑賞的な見所をもつ所以であり、『日本民彫の歴史」を語るといわれる所以でもある。
かつて丹後はその本質が理解されず、時代とともに移り変った多彩な変化を「丹波七化け」という言葉で表現されてきた。これは永い丹後焼の歴史の中に平安、鎌倉、室町、桃山、江戸とそれぞれの時代に開業した他の諸島がもつ要素を全て包含していることの証左にほかならない。
ねこがき農家の屋根裏で数百年に亘って使い続けられてきた自然釉の壺や甕、それらに施された猫掻の文様や手印、台所や味噌部屋に置かれた魚文や張付文の水甕、さらに使い馴れた徳利の文様や滲みのあとを見るとき、丹波焼が語るものは庶民の生活史であり、その中にこそ丹波焼の“美”があるといえる。
以下この多彩な丹波窯の歴史を、穴窯時代と登窯時代に大別し、更に穴窯時代を三期に、登窯時代を四期に分類して、窯、焼成、陶土、成形、釉薬、文様などに亘って記述する。