今津洪嶽老師は大東亜戦争の一番昭和天皇様が御苦労召された時期を国師として支えられた御方でした。
京都の妙光寺住職にして日本大学、花園大学の教授でも有りました。
老師は明治から昭和に至る禅の巨匠としても、其の道に於いては知らぬ者が居なかったと言う御方です。
其の為、弟子と成る栄誉を賜ろうと多くの人材が門を叩いた様ですが、老師の修業の過酷さ故に、殆どの人が道半ばにも至らず老師の下から逃げ出したと言います。
終戦時、厚木に降り立ったマッカーサーを飛行機のタラップの下で、老師は待ち構えていて、一喝した逸話は知る人ぞ知る話として、大東亜戦争の最後を飾る太平洋戦争の秘話として残っています。
マッカーサーの元へと天皇陛下が通訳の武藤さんを連れて赴かれた事は歴史上も記述が残っていますが、天皇陛下がマッカーサーの前に立たれる決断を良しとして送り出されたのが国師としての老師であったと言う事は、歴史の何処にも残ってはいないのです。天皇の国師とは正に其の様な歴史の蔭と成る存在と言う訳です。
ほれ…"縁起が良い"とか"縁起を担ぐ"とか言うじゃろう。
即ちだ…"この世"は《縁》に拠って世の中の全てが生じていると言う事じゃ。
"原因が有って結果を生じる"とは"原因無ければ結果を生ぜず"と置き換えても良かろう。
即ち、《縁に因って世は動き、両手を打つ所に音は生ず、両手打たざれば音無し》とな。
『縁の集いに拠って世が成り立っている事が宇宙の原則』なのじゃ。
即ち、縁有るが故に集い、縁無くして其れが消えるが故に、"この世"は仮のもの、又"この世"は《空》と言うのは"空しきもの"と言っても良いじゃろう。
縁有って集い、縁無くして亦散るのが、此の宇宙の実相じゃ…と言う事は、縁集まれば結果を生じ、縁無くては何事も此れ成り立たずとも裏書きして置いても良いと言う事に成ろう。
太陽有るが故に地球有り、地球有るが故に月有りと。
お互いの縁に因って其の太陽や月も地球も成り立っているのじゃ。
宇宙は縁に因って成り立ち、縁に因って成り立たざるものは何一つ無い。
因って元々有るに非ず、縁に因って"有"と成り、縁無ければ"無"と成ると。
春来たれば桜の花が咲き、匂っても春と言う《縁》無くては木の幹を割っても一枚の花弁だに無き桜が《縁》有れば、又四月に咲く。
《縁》に因って物は生じ、《縁》無くて消えるが故に、此れ《有》か《無》かと。
《無》と思えば《縁》に因って生じ、《有》と思えば《縁》無くして亦消える。
此れ《有》と言うも間違いなれば、此れ《無》と言うも間違いじゃが、此の《有》《無》に片寄らず、《有無》に拘(こだわ)らず、《有無》の両者に跨がって居るもの、此れ『空』と言う。
即ち、宇宙の実相は『空』なのじゃ。
儂の話を能々(よくよく)耳に留めて置くが良い。
縁に因って生じ、縁無くて消えると…敢えて言えば…『縁』に拠って生ずる根本の力は有ったと雖も、理屈の上で言えばそう成る丈だから、実態としては『空』なのじゃ。
『生命の世界』等と言い、佛教に於いては、此れを『法界』、『法身』と言う。
神道に於いては、『天津身光日乃大御神』と言うが、実は《縁》に拠って生ずるのが出発点であって、《縁》無くては元々之が無いのじゃ。
理屈で言えば、可能なるエネルギーが元々有った等と言うが、若しも《縁》以前に可能なるエネルギーを認めると言う立場は、佛教は…又は神道は取らないのじゃ。
《縁》に拠って生ずると言う意味に於いて、"この世"から消え散じた後も、神々の世界に至る迄の幽界、霊界、神仙界、神界と有って…だから現実に於いての神の働きは真に具体的であり、姿、形を保(も)たれ給うているのじゃ。
即ち、神も《縁》に因って生じたものだから、宇宙は全て《縁に因って生じたものだから、縁を超えては惟無し》じゃと言わねば成らん。
此の辺の消息を余程能くんで置かないと、一分の間違いが千里の開きを其処に至らせる結果と成るのじゃ。
『宗教』と言うものは、時を得ずは本当の働きが出て来ないもので、《縁起と言う事は、本体は此れ『空』、"縁に因って仮の姿を生ずる"と言うもの》じゃ。
又、《縁》と言うものには《目に見える現実の世界丈では無くて、見えざる世界の縁来たざるしては何事も此れ成り立たず》じゃ。
見えざる無形の世界の助け借りずしては、何事も人の世も成り立た無い事を"この世"の愚か者達は理解が付かないと言う事なのじゃ。
今津老師の修行と言うか、禅の修行は悟りを目標として照準を定めて居られたので、其処等の所謂常識の知性の範疇に於ける修行からはかなり非常識だった様に観えますが、実は悟りとは或る意味宇宙を解明し、宇宙と合体する事が悟りの本質なので、非常識さこそが、常識だったとも言える訳です。
つまり、普通の修行の真似事では決して辿り着けない、正に梯子の届かない見えざる世界を目指した修行だと言えるのです。
或る朝、師は老師に尋ねられたそうです。
悟りとは、自分と自分以外の差を取り除く事が悟りの究極なのです。
だから《我か宇宙か、宇宙か我か》の実感と師が好く仰せに成るのです。
昭和52年復刻ですが、経年劣化を鑑みて本文良好です。
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