以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです~~
プロローグ:令和に燻る魂
東京の空は、どこまでも高く、そして無機質だった。俺、水島海斗(みずしまかいと)、二十五歳。コンビニの深夜シフトと、たまに入るフードデリバリーのアルバイト。そんな単調な日々を繰り返すだけの、ありふれたフリーターだ。夢もなければ、特に追いかけたい情熱もない。ただ、息をしているだけ。そんな虚無感を、高層ビルのガラス窓に映る自分の顔に見出すたび、深くため息をついた。
母の希美(のぞみ)は、俺のそんな生き方を決して責めなかった。ただ、時折見せるその瞳には、諦めと、そして微かな悲しみが宿っていた。俺たちの間には、いつも見えない壁があった。その壁の中心には、いつも一人の男の影が落ちている。俺が生まれる前に死んだ、母の父、つまり俺の祖父だ。
祖父の名は、水島源蔵(げんぞう)。昭和のプロレス界に、荒々しいファイトスタイルでその名を刻んだレスラーだった。「荒ぶる虎」の異名を持ち、特に伝説の覆面レスラー「タイガーマスク」の好敵手として、数々の名勝負を繰り広げたという。しかし、母が語る祖父の姿は、リング上の英雄ではなかった。家庭を顧みず、プロレスという名の熱狂に身を投じ、妻と娘を孤独にした、冷たく自己中心的な男。それが、俺の知る祖父の全てだった。
母はプロレスを憎んでいた。祖父が死んだ時、その栄光の証であるトロフィーも、チャンピオンベルトも、雑誌の切り抜きも、全て処分してしまった。まるで、水島源蔵というレスラーが存在した痕跡を、この世から消し去ろうとするかのように。
だが、たった一つだけ。母の宝石箱の奥底に、祖父の魂の欠片が眠っていた。それは、黄金に輝く虎の顔をかたどった、重厚なネックレスだった。三角形のプレートに収められた虎は、ルビーの瞳を爛々と輝かせ、ダイヤモンドの牙を剥き、今にも咆哮を上げんばかりの凄まじい気迫を放っている。祖父が唯一、現役時代から死ぬまで肌身離さず身につけていた形見。母にとっても、それは憎むべき父親の遺品であると同時に、決して捨てられない、唯一の繋がりだったのかもしれない。
「おじいちゃんはね、この虎に自分の魂を宿していたのよ」
幼い頃、一度だけ見せてもらったことがある。母はそう言って、寂しそうに微笑んだ。その言葉の意味も理解できず、ただ、その黄金の輝きと、まるで生きているかのような虎の表情に、子供心に畏怖を覚えたことを記憶している。
そして、俺が二十五歳になった誕生日。希美は、その宝石箱を俺の前に差し出した。
「海斗。あなたももう、大人だもの。これを、あなたが持っていなさい」
箱を開けると、黄金の虎が、数十年の時を経て、再びその猛々しい姿を現した。
「お父さんの…ううん、おじいちゃんの魂。あなたが、受け継いでちょうだい」
母の瞳が揺れていた。それは、過去との決別なのか、それとも俺への期待なのか。俺には分からなかった。ただ、ずっしりとした重みが両手に伝わる。黙ってそれを受け取り、首にかけると、冷たい金属の感触が肌に広がり、すぐに体温を吸って馴染んでいった。鏡に映る自分は、相変わらず情けなく、この荒ぶる虎を胸に飾るには、あまりにも不釣り合いに思えた。
その夜、俺は奇妙な夢を見た。むせ返るような汗と熱気。野太い歓声と怒号が渦巻く、古い体育館。ライトに照らされた四角いリングの上で、二人の男が激しくぶつかり合っていた。一人は、黄金の虎のマスクを被った、しなやかな肉体の戦士。タイガーマスクだ。そして、その前に立ちはだかるのは、筋骨隆々とした、見知らぬ、しかしどこか懐かしい男。その男の胸で、俺が今日譲り受けたものと全く同じ、黄金の虎が光っていた。
衝撃で目が覚めた。窓の外はまだ暗い。心臓が激しく鼓動し、全身に汗が滲んでいた。恐る恐る首元に触れると、ネックレスが、まるで夢の中の熱をそのまま持ち越してきたかのように、じんわりと熱を帯びていた。それは、ただの金属とは思えない、確かな生命の脈動だった。
第一章:時空を超えたゴング
祖父の魂を受け継げ、か。母の言葉が、頭の中で反響する。だが、俺は祖父について何一つ知らない。母が語る、冷たい男という側面しか。このネックレスの重みは、俺にとってまだ、理解不能な謎でしかなかった。何かを知らなければ。そう突き動かされるように、俺は翌日、電車を乗り継いで、郊外にある祖父の墓へと向かった。
墓地は、秋の気配が漂う静かな丘の上にあった。苔むした「水島家之墓」の前に立ち、買ってきた花を供え、線香に火をつける。立ち上る紫の煙が、空へと溶けていくのを、俺はぼんやりと眺めていた。
「じいちゃん…俺、あんたの孫の海斗だ。母さんから、これ、受け取ったよ」
胸の虎にそっと触れながら、語りかける。もちろん、返事はない。ただ、風が木々を揺らす音だけが、辺りを支配していた。
「あんたは、一体どんな人だったんだ? 母さんは、あんたを憎んでるみたいだけど…でも、このネックレスだけは、ずっと大事にしてた。俺は、どうすればいい?」
問いかけは、虚空に消えた。自分の愚かさに、自嘲の笑みが浮かぶ。墓石に話しかけたって、何かが変わるわけじゃない。帰ろう。そう思って踵を返した、その瞬間だった。
首元の虎が、昨夜の夢の中のように、灼けるような熱を発したのだ。
「うわっ、熱っ!」
思わず声を上げ、ネックレスを外そうと手を伸ばすが、指先が触れただけで火傷しそうなほどの高熱だ。そして、その熱は瞬く間に全身に広がり、血が沸騰するような感覚に襲われた。目の前の景色が、陽炎のようにぐにゃりと歪み始める。墓石が、木々が、空が、まるで絵の具のように混ざり合い、渦を巻いていく。平衡感覚が失われ、俺は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。意識が、急速に遠のいていく。最後に聞こえたのは、遠い昔に聞いたような、試合開始を告げる、甲高いゴングの音だった。
どれくらいの時間が経ったのか。次に意識が浮上した時、俺は硬いアスファルトの上に倒れていた。鼻をつくのは、排気ガスと、どこか懐かしいような土埃の匂い。体を起こすと、そこは先ほどまでいた静かな墓地ではなかった。人々が忙しなく行き交い、クラクションがけたたましく鳴り響く、活気に満ちた雑踏の真ん中だった。
見渡す限り、目に映るもの全てが、俺の知る世界とは異なっていた。建ち並ぶ商店の看板の字体、ショーウィンドウに飾られた服のデザイン、道を走る車の角張ったフォルム。そして、行き交う人々の服装。男たちは太いネクタイを締め、女性は皆、聖子ちゃんカットのような髪型をしている。空気が、匂いが、音が、全てが濃厚で、彩度が高い。
呆然と立ち尽くす俺の耳に、街頭テレビから流れるアナウンスが飛び込んできた。
「さあ、今夜も始まりました、ワールドプロレスリング!今宵のメインイベントは、悪役レスラー軍団『虎の穴』からの新たな刺客と、我らが正義のヒーロー、タイガーマスクとの一戦です!」
タイガーマスク? 俺は弾かれたように顔を上げた。そして、目の前の薬局の壁に貼られた一枚のポスターに、釘付けになった。
「世紀の一戦!覆面世界王者 タイガーマスク vs 荒ぶる虎 水島源蔵!」
そこには、若き日のタイガーマスクと、そして、夢で見たあの男…写真でしか知らなかった、若き日の祖父の姿が、獰猛な笑みを浮かべて並んでいた。ポスターの下に記された日付は、昭和五十六年十月二十五日。俺が生まれる、二十年以上も前の日付だった。
嘘だろ…。俺は、タイムスリップしてしまったのだ。昭和の、祖父がまだ生きて、リングで戦っていた時代に。
混乱と恐怖で、全身の血の気が引いていく。その時、背後から荒々しい声が飛んできた。
「おい、そこのお前。さっきから突っ立って、何してやがる」
振り返ると、そこに立っていたのは、ポスターから抜け出してきたかのような、屈強な肉体の男だった。革ジャンを羽織り、鋭い眼光で俺を睨みつけている。紛れもなく、若き日の祖父、水島源蔵その人だった。
第二章:荒ぶる虎のいる日常
祖父は、俺の顔から視線を下げ、胸元で鈍い光を放つ虎のネックレスに目を留めた。その瞬間、彼の鋭い眼光が、驚きと困惑の色に見開かれた。
「お前…そのネックレスは…」
声が、わずかに震えていた。まずい。どう言い訳すればいい。頭が真っ白になる中、俺は咄嗟に、ありきたりな嘘を口走っていた。
「こ、これは…親父の形見なんです。俺が生まれる前に死んだ、親父の…」
祖父は、俺の目をじっと見つめた。その視線は、嘘を見透かそうとするかのように鋭く、俺は冷や汗が背中を伝うのを感じた。数秒の沈黙の後、祖父はふっと視線を逸らし、「そうか」とだけ呟いた。それ以上、ネックレスについて尋ねることはなかったが、その表情には、まだ拭いきれない疑念が浮かんでいた。
「行くあて、あんのか」
ぶっきらぼうに尋ねられ、俺は力なく首を振った。金もない、知り合いもいない、そもそもこの時代の人間ですらない。絶望的な状況だった。祖父は、大きなため息を一つつくと、「…ついてこい」とだけ言って、背を向けた。俺は、他に選択肢もなく、その広い背中を夢遊病者のように追いかけた。
連れてこられたのは、四畳半一間の、古びた木造アパートだった。部屋の中は、プロレス雑誌とトレーニング器具、そして汗の匂いで満ちていた。壁には、対戦相手であろうレスラーたちの写真がびっしりと貼られ、その全てが、まるで祖父に睨みつけられているかのようだった。ここが、昭和のレスラー、水島源蔵の城。彼の生活の全てが、この小さな部屋に凝縮されていた。
こうして、若き日の祖父と、未来から来た孫の、奇妙な同居生活が始まった。俺は「親を亡くし、田舎から出てきたばかり」という、我ながら陳腐な設定を信じ込ませ、アパートに転がり込んだ。祖父は、俺の存在を特に気にするでもなく、ただ黙々と、己の日常を繰り返していた。
朝は、夜明けと共に始まる。けたたましい目覚ましの音で叩き起こされ、祖父はすぐにトレーニングウェアに着替えて走り込みに出る。俺がまだ寝ぼけ眼でいる間に、一時間以上走り込み、帰ってくると、今度は部屋で腕立て、腹筋、スクワットを、それこそ鬼のような形相でこなす。畳が、彼の汗でじっとりと湿る。トレーニングを終えると、巨大な丼鉢に山盛りの米と、卵を五つも入れた味噌汁を、ものの数分で胃袋にかき込んだ。その食事風景は、もはや「食べる」というより「補給する」という表現が正しかった。
午後は、所属するプロレス団体の道場での練習。俺も何度か見学させてもらったが、そこはまさに戦場だった。ロープワーク、受け身、スパーリング。男たちの咆哮と、肉体がぶつかり合う鈍い音が、道場に響き渡る。祖父は、誰よりも厳しく、自分を追い込んでいた。その姿は、母が語った「冷たい男」のイメージとはかけ離れていた。不器用で、口数も少ないが、その内側には、プロレスというものに対する、マグマのような熱い情熱が煮えたぎっていた。
そんな生活の中で、俺は一人の女性と出会った。名を、佐伯由美(さえきゆみ)という。プロレス専門誌の若手記者で、来るべきタイガーマスク戦に向けて、祖父の密着取材をしているという。彼女は、男ばかりの汗臭い道場の中で、凛とした花のように際立っていた。カメラを構えるその真剣な眼差しと、レスラーたちに向ける屈託のない笑顔。そのギャップに、俺は一瞬で心を奪われた。
由美は、俺の素性を聞いても、特に深くは詮索しなかった。「源蔵さんの親戚」という祖父の適当な紹介を、素直に信じてくれた。彼女は、得体の知れない俺に対しても、常に気さくに話しかけてくれた。
「海斗くんは、プロレス好きなの?」
ある日の練習後、道場の隅で汗を拭う俺に、由美が尋ねた。
「いえ、あまり…というか、全然知らなくて」
「そっか。でも、源蔵さんの側にいたら、きっと好きになるわよ。あの人のプロレスは、人の心を揺さぶる力があるから」
そう言って笑う彼女の横顔は、プロレスへの深い愛情と尊敬に満ちていた。俺は、母が憎んだプロレスの世界を、彼女の目を通して、少しずつ知り始めていた。
由美との会話は、この殺伐とした昭和の時代における、俺の唯一の癒しだった。だが、彼女は時折、俺の心の奥底を見透かすような、鋭い質問を投げかけてくることがあった。
「海斗くんって、時々、すごく遠い目をするわよね。まるで、ずっと先の未来を見ているみたい。それに、今の流行りとか、テレビ番組の話とか、全然知らないみたいだし…本当に、田舎から出てきたばっかりなのかなって」
冗談めかした口調だったが、その瞳は笑っていなかった。俺は、心臓が跳ね上がるのを感じながら、必死で笑顔を取り繕い、話を逸らすことしかできなかった。この優しい女性に、嘘をつき続けなければならないことが、針の筵に座っているように苦しかった。
第三章:覆面の裏に潜む影
タイガーマスクとの決戦の日が、刻一刻と近づいていた。祖父のトレーニングは、日に日に熱を帯び、鬼気迫るものになっていく。道場の誰もが、その凄まじい気迫に息を呑んでいた。だが、夜、アパートに帰ってくると、祖父は時折、一人で酒を呷りながら、深い闇を湛えた瞳で、一点を見つめていることがあった。その背中は、あまりにも寂しく、孤独に見えた。
ある夜、珍しく祖父が俺に話しかけてきた。
「海斗。お前、タイガーマスクをどう思う」
突然の質問に、俺は言葉に詰まった。俺の知るタイガーマスクは、アニメのヒーローであり、伝説の存在だ。
「…強い、と思います。正義の味方で、子供たちのヒーロー…ですよね」
俺の答えを聞くと、祖父は「ふん」と鼻で笑い、グラスの酒を煽った。
「ヒーロー、か。あいつは、そうあらねばならんのだろうな。リングの上でも、リングの外でも。常に完璧で、常に正義で、常に子供たちの夢でなければならない。その重圧が、どれほどのものか…お前に分かるか」
その声には、嫉妬や憎しみではなく、むしろ同情や、一種の共感のような響きが混じっていた。
「俺はな、あいつが羨ましい。だが、同時に、哀れにも思う。あいつは、覆面の下で、たった一人で戦っている。誰にも弱音を吐けず、誰にも素顔を見せられず…その孤独は、きっと俺の想像を絶する」
祖父は、タイガーマスクを、倒すべき最強のライバルとして認めながらも、同じプロレスという世界に生きる一人の人間として、その孤独に深く共感していたのだ。俺は、初めて祖父の人間的な側面に触れた気がした。母の知らない、リングの上でしか見せない、祖父の本当の姿。
その数日後、俺は由美から、さらに衝撃的な話を聞かされることになった。取材の帰り道、二人で喫茶店に立ち寄った時のことだ。
「ねえ、海斗くん。これは、絶対にオフレコの話なんだけど…」
由美は、声を潜め、真剣な表情で切り出した。
「最近、プロレス界の周辺で、きな臭い噂が流れているの。タイガーマスクが、ある巨大な秘密結社に命を狙われているっていう…」
「秘密結社?」
「ええ。『虎の穴』よ。元々、タイガーマスクが所属していた、悪役レスラー養成機関。彼はそこを裏切って、正義のレスラーになった。だから、『虎の穴』は、裏切り者である彼を抹殺するために、次々と刺客を送り込んでいるのよ」
それは、俺が子供の頃に見た、アニメの中だけの話ではなかったのか。
「そんな、漫画みたいな話が…」
「ええ、漫画みたいな話よ。でも、これは現実なの。これまでも、タイガーと対戦したレスラーが、試合後に不可解な事故に遭ったり、行方不明になったりしたことが何度かある。警察は事故として処理しているけど、私は『虎の穴』の仕業だと睨んでいるわ」
由美の瞳は、ジャーナリストとしての強い光を宿していた。
「タイガーマスクは、リングの上では華やかなヒーローだけど、その裏では、命がけで巨大な悪と戦っている。そして、水島源蔵さんもまた、その戦いの渦中に巻き込まれようとしているのよ」
彼女の言葉が、俺の頭に重くのしかかった。祖父は、ただのプロレスの試合をしようとしているのではない。彼は、知らず知らずのうちに、巨大な陰謀が渦巻く、危険な戦いの最前線に立たされているのだ。俺がこの時代に来たのは、ただの偶然ではないのかもしれない。何か、俺がここで果たさなければならない役割があるのではないか。そんな予感が、胸をざわつかせていた。
第四章:砕かれた牙、受け継がれる魂
運命の試合を三日後に控えた、冷たい雨の降る夜だった。その日、祖父は道場での練習を終えた後、「少し付き合え」と言って、馴染みの居酒屋に俺を連れて行った。珍しいことだった。カウンターに並んで座り、熱燗を酌み交わす。祖父は、多くを語らなかったが、その表情は、決戦を前にした武将のように、静かな覚悟に満ちていた。
「海斗。お前、これからどうするんだ」
ぽつりと、祖父が尋ねた。
「え…」
「いつまでも、俺のアパートにいるわけにもいかん interrogated。何か、やりてえことはねえのか」
やりたいこと。令和の時代、俺がずっと見つけられなかったものだ。俺は、言葉に詰まった。
「…分かりません。でも、じいちゃん…源蔵さんの側にいて、あんたのプロレスを見て、何か、変わりそうな気がするんです」
俺がそう言うと、祖父は少しだけ口元を緩め、「そうか」とだけ言った。その時、俺たちの間に、確かに血の繋がった祖父と孫としての、温かい空気が流れた気がした。
居酒屋を出て、雨のそぼ降る夜道をアパートへと向かう。その時だった。狭い路地の角から、突然、数人の男たちが現れ、俺たちの前に立ちはだかった。全員が黒いスーツに身を包み、その目には、一切の感情が感じられなかった。
「水島源蔵だな」
中心に立つ男が、低い声で言った。
「タイガーマスクとの試合、辞退してもらう。これは、警告ではない。決定事項だ」
「てめえら、何者だ」
祖父が、警戒しながら問い返す。男は、嘲るように笑った。
「我々は、『虎の穴』からの使者だ。タイガーマスクは、我らが組織の手で葬る。お前のようなレスラーが、しゃしゃり出てくる幕ではない」
やはり、由美の話は本当だったのだ。俺は恐怖で足がすくんだ。だが、祖父は臆することなく、一歩前に出た。
「ふざけるな。俺とあいつの戦いは、神聖なリングの上でのものだ。てめえらみたいなドブネズミが、口を挟むことじゃねえ!」
その言葉を合図に、男たちが一斉に襲いかかってきた。一人が、懐から鉄パイプを取り出すのが見えた。
「じいちゃん、危ない!」
俺が叫んだのと、祖父が俺を突き飛ばしたのは、ほぼ同時だった。祖父は、プロレスラーとしての驚異的な身体能力で、次々と男たちを打ちのめしていく。だが、相手は多勢に無勢、しかも凶器を持っている。一瞬の隙を突かれ、一人の男が振り下ろした鉄パイプが、祖父の右腕を、鈍い音を立てて強打した。
「ぐっ…!」
祖父の苦悶の声が、路地に響く。その隙に、男たちは目的を果たしたとばかりに、闇の中へと消えていった。俺は、倒れ込む祖父に駆け寄った。彼の右腕は、ありえない方向に曲がり、見るからに重傷だった。
病院に運び込まれた祖父の診断は、右腕の複雑骨折。全治三ヶ月。タイガーマスクとの試合は、絶望的だった。ベッドの上で、白く固められた自分の腕を、祖父はただ黙って見つめていた。その瞳に浮かぶのは、痛みよりも、無念の色だった。
「あいつとの試合が…俺のレスラー人生の、全てだったのに…」
絞り出すような声が、病室に虚しく響いた。その姿を見て、俺の腹の底から、今まで感じたことのない、激しい怒りと決意が湧き上がってきた。
俺は、病室を飛び出し、プロレス団体の事務所へと走った。そして、団体の社長と、プロモーターに、頭を下げた。
「お願いします!水島源蔵の代わりに、俺をリングに上げてください!」
俺の突拍子もない申し出に、誰もが呆気にとられていた。
「馬鹿なことを言うな!君は素人だろう!」
「素人じゃありません!俺は、水島源蔵の…息子です!俺が、親父の無念を晴らします!」
俺は、その場で、また一つ嘘を重ねていた。だが、もう後には引けなかった。このまま、祖父の夢を、名前も知らない奴らに潰されてたまるか。
俺の必死の形相に、何かを感じ取ったのか、社長は「考えさせてくれ」と言った。そして、俺は病室に戻り、祖父に自分の決意を告げた。
「俺が、じいちゃんの代わりに、タイガーマスクと戦う」
祖父は、激昂した。「ふざけるな!お前に何ができる!プロレスは、そんな甘い世界じゃないぞ!死ぬぞ!」
「死んでもいい!あんたの生き様を、あんたの魂を、俺がリングの上で証明するんだ!そのために、俺はこの時代に来たんだ!」
俺は、自分が未来から来た孫であることを、この時初めて、祖父に告げた。祖父は、信じられないという顔で俺を見ていたが、やがて、諦めたように深く息を吐いた。
「…分かった。だが、半端な覚悟なら、リングに上がる前に俺が殺す」
残された時間は、わずか二日。俺は、祖父の付き添いの合間を縫って、道場で特訓を開始した。祖父は、ベッドの上から、鬼の形相で俺に指示を飛ばした。
「受け身が甘い!そんなんじゃ、脳震盪で一発だ!」
「ロープの振り方が違う!腰を使え、腰を!」
祖父から叩き込まれるのは、派手な技ではなく、プロレスの、そして戦いの、最も基本的な「魂」の部分だった。痛み、苦しみ、恐怖。その全てを受け入れ、それでもなお、立ち上がり、前に進む力。俺は、生まれて初めて、本気で何かに打ち込んでいた。体は悲鳴を上げ、全身が痣だらけになった。だが、不思議と心は燃えていた。祖父の魂が、胸の虎のネックレスを通して、俺の中に流れ込んでくるような感覚があった。俺はもはや、令和の時代の無気力なフリーターではなかった。俺は、荒ぶる虎の魂を継ぐ、一人の戦士だった。
第五章:四角いリングに響く魂の咆哮
試合当日。後楽園ホールは、異様な熱気に包まれていた。メインイベントのカードが、水島源蔵から、謎の覆面レスラー「タイガー・ザ・セカンド」に変更されたことで、観客は期待と不安が入り混じったどよめきに満ちていた。
控え室で、俺は祖父から渡された、黒地に金の虎が描かれたマスクを被った。そして、胸には、あの黄金の虎のネックレスが、いつも以上の熱を帯びて輝いている。鏡に映る自分の姿は、まだどこか頼りなく見えた。
「いいか、海斗」
病室から無理やり抜け出してきた祖父が、俺の肩を掴んだ。その力は、片腕とは思えないほど強かった。
「小細工はするな。お前の、ありのままの魂を、あいつにぶつけてこい。それだけでいい」
「…うん」
俺は、力強く頷いた。
入場ゲートの向こうから、地鳴りのような歓声が聞こえる。先に、王者タイガーマスクが入場する。子供たちの「タイガー!」という声援が、ホールにこだまする。そして、俺の番が来た。不気味なシンセサイザーの曲と共に、俺はリングへと向かった。ブーイングと、好奇の視線が、全身に突き刺さる。
リングの中央で、俺は伝説のヒーローと対峙した。その肉体は、鋼のように鍛え上げられ、マスクの奥の瞳は、全てを見透かすように、静かに俺を見つめている。ゴングが鳴り響く。俺は、雄叫びを上げて突進した。祖父から叩き込まれた、荒々しいファイトスタイル。エルボー、チョップ、タックル。持てる力の全てを、タイガーマスクにぶつけていく。
だが、伝説のレスラーは、一枚も二枚も上手だった。俺の攻撃は、柳に風と受け流され、逆に、芸術的なまでに美しいドロップキックや、重いソバットを叩き込まれる。何度も、何度も、マットに叩きつけられた。全身の骨がきしみ、意識が朦朧とする。観客からは、「帰れ!」という容赦ない野次が飛ぶ。
もう、ダメか。心が折れそうになった、その時だった。胸の虎が、カッと灼熱を放った。そして、頭の中に、祖父の声が直接響いてきたのだ。
『立て、海斗! 虎はな、牙が折れても、爪が剥がれても、決して諦めねえ! その魂を、今こそ見せてやれ!』
俺は、最後の力を振り絞り、マットを叩いて立ち上がった。タイガーマスクが、驚いたように俺を見ている。
「あんたは、一人じゃない!」
俺は、叫んでいた。
「あんたの背負ってる孤独も、痛みも、俺が…じいちゃんが、受け止めてやる!」
それは、対戦相手に言うべき言葉ではなかったかもしれない。だが、俺の魂の叫びだった。俺は、残された全てのエネルギーを込めて、コーナーポストに駆け上がり、飛んだ。渾身の、ダイビング・ヘッドバット。それは、祖父の得意技だった。
俺の頭が、タイガーマスクの額に、激しくクリーンヒットした。だが、それは、憎しみのこもった一撃ではなかった。互いの魂が、リングの上で、確かに共鳴し合った、そんな感覚があった。俺たちは、二人ともマットに崩れ落ちた。結果は、両者リングアウト。引き分けだった。
試合後、俺は、控え室でタイガーマスクと二人きりになった。彼はマスクを脱いでいた。その素顔は、驚くほど優しく、そしてどこか悲しげな青年だった。
「君は、一体何者なんだ…? 君の戦いからは、水島選手の魂を感じた」
俺は、マスクを脱ぎ、全てを話した。未来から来たこと、水島源蔵の孫であること。彼は、驚きもせず、静かに俺の話を聞いていた。
「そうか…だからか。君の瞳は、未来を知っている者の瞳をしていた。ありがとう。君のおかげで、俺は、一人ではないと知ることができた」
別れの時が来た。由美が、涙を浮かべて俺の前に立っていた。
「あなたのこと、絶対に忘れない。あなたの勇気も、優しさも。…未来で、また会いましょう。きっと」
彼女はそう言って、お守りだという小さなペンダントを俺に握らせた。
そして、最後に祖父と向き合った。祖父は、俺の首にかかっている虎のネックレスを、そっと撫でた。
「それは、元々、俺の親父…お前の曽祖父の形見だったんだ。俺は、これに守られて、ずっと戦ってきた」
そう言うと、祖父は自分の首にかけていた、全く同じデザインの、しかし長年の戦いで傷だらけになった、もう一つの虎のネックレスを外し、俺の首にかけた。
「二つの虎が、お前を守るだろう。未来で、お前の信じる道を、胸を張って生きろ。俺の、たった一人の、誇れる孫よ」
俺は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、祖父と固い握手を交わした。その瞬間、再び、あの灼けるような熱が全身を包み、俺の意識は、昭和の時代から、急速に引き剥がされていった。
エピローグ:令和に繋がるレガシー
気がつくと、俺は、祖父の墓の前に立っていた。空は、あの時と同じように、高く澄み渡っていた。首には、二つの黄金の虎が、ずっしりとした重みと、温もりを伝えていた。夢ではなかった。俺は、確かに、あの時代を生きてきたのだ。
俺は、変わった。もう、無気力なフリーターではない。俺の胸には、祖父から受け継いだ、熱い魂が燃えている。俺は、プロレスラーになることを決意した。
それからの俺は、人が変わったようにプロレスに打ち込んだ。母は、最初こそ猛反対したが、俺の目に宿る本気の光を見て、そして俺が語る、彼女の知らなかった父・水島源蔵の本当の姿を聞いて、最後は、涙を流しながら「頑張りなさい」と背中を押してくれた。
数年後。俺は、インディーズ団体で、「タイガー・レガシー」というリングネームでデビューを果たした。祖父譲りの荒々しいファイトと、タイガーマスクから学んだ華麗な技を織り交ぜた俺のスタイルは、次第に注目を集めるようになっていった。
そして、あるタイトルマッチの日。俺は、試合後のインタビューを受けていた。その時、俺にマイクを向ける一人の女性記者と、目が合った。彼女の瞳は、強く、真っ直ぐで、どこか懐かしい光を宿していた。そして、その胸元には、由美が俺にくれたものとよく似た、小さなペンダントが光っていた。
インタビューが終わった後、俺は、彼女に声をかけた。
「あの…どこかでお会いしませんでしたか?」
彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。
「初めまして、ですね。でも、私は、あなたのことを、生まれる前から知っていましたよ」
彼女は、佐伯美咲(さえきみさき)と名乗った。ジャーナリストだった祖母・由美が残した日記を読んで、ずっと俺のことを知っていたのだという。日記には、未来から来た不思議な青年との、短くも鮮烈な出会いが、瑞々しい筆致で綴られていた。
「祖母は、亡くなるまで、あなたのことを話していました。『いつか、時を超えて、彼に繋がる人に会えるはずだから』って。このペンダントは、その時のためのお守りだって」
俺たちは、運命に引き寄せられるように、恋に落ちた。美咲は、俺の最大の理解者であり、一番近くで俺の戦いを見守ってくれる、かけがえのないパートナーになった。
そして今日。俺は、日本プロレス界の最高峰のベルトを賭けて、チャンピオンとして、満員の東京ドームのリングに立っている。胸には、二つの虎が、誇らしげに輝いている。セコンドには、涙ぐむ母の姿が。そして、リングサイドの記者席では、美咲が、真剣な眼差しで俺を見つめている。
ゴングが鳴る。俺は、天に向かって、力の限りに咆哮した。それは、祖父に、タイガーマスクに、由美さんに、そして、俺を支えてくれる全ての人に捧げる、魂の叫びだった。
俺の物語は、まだ終わらない。この二つの虎の魂と共に、俺は、令和の時代に、新たな伝説を刻んでいく。祖父が守り、繋いでくれたこの魂を、未来へと受け継いでいくために。リングという名の、無限の宇宙で、俺は永遠に輝き続けるだろう。