E179【Chelo Sastre】我が魂を揺さぶる銀の藝術
くだらぬ。実にくだらぬ。巷に溢れる宝飾品とやらの、なんと浅はかで、魂の抜け落ちた骸(むくろ)であることか。金や石の価値ばかりをひけらかし、作り手の矜持も、使い手の見識も問わぬ、ただの虚飾の塊。そんな物ばかりを右へ倣えで身に着ける者どもの、憐れなる感性よ。美とは、そのような表層をなぞるだけの行為にあらず。美とは、己の生き様を懸けて選び取り、共鳴し、語り合うもの。真の美は、沈黙の中にあってさえ、雄弁にその哲学を物語るのだ。
さて、ここに一つの耳飾りがある。スペインの作家、チェロ・サストレの手によるものと聞く。我が輩は最初、この無骨とも言える銀の塊を、ただの装身具としてしか見ていなかった。だが、手に取り、その肌に触れ、光にかざした瞬間、我が輩の不遜なる魂は、雷に打たれたかのような衝撃を受けたのである。
見よ、この銀の肌を。槌(つち)で幾度も、幾度も打ち付けられたであろう、その力強い起伏を。これは単なる模様ではない。イベリアの乾いた大地に照りつける、灼熱の太陽そのものだ。ジリジリと肌を焦がす光の粒子が、銀という名のカンバスの上に永遠に刻みつけられている。滑らかに磨き上げられただけの、能面の如き銀では、この生命の躍動は決して生まれぬ。作家は知っていたのだ。真の美とは、完璧さの中にではなく、闘争の痕跡、すなわち「仕事の跡」にこそ宿るということを。
そして、この形。なんという大胆不敵なる造形か。二枚の銀の板が、互いに反発し、それでいて惹かれ合うように、絶妙な間(ま)を保ちながら重なり合っている。これは、フラメンコの男女の踊り手の、激しい応酬そのものではないか。男が情熱をぶつければ、女はそれをしなやかに受け流し、更に高次の官能へと昇華させる。その一瞬の交錯、火花の散るような緊張と官能の戯れが、この小さな銀の世界に完璧に封じ込められている。安直な左右対称(シンメトリー)に逃げず、不揃いなるが故の調和という、美の本質を突いている。ガウディの建築が、自然の有機的な曲線を神の領域にまで高めたように、サストレの耳飾りは、人間の根源的な情念を、芸術の域にまで高めているのだ。
歴史を紐解けば、スペインという国は、常に異文化の血が交じり合い、闘争の中から新たな文化を生み出してきた土地である。フェニキア人が鉱脈を見出し、ローマ人がそれを支配し、西ゴート族が荒々しい槌を振るい、イスラムのウマイヤ朝が緻密で絢爛な装飾文化を花開かせた。この耳飾りの銀には、その全ての記憶が溶け込んでいる。槌目の荒々しさはゲルマンの魂であり、艶めかしい曲線はムーア人の残した夢の名残である。そして、それらを現代的な感性でまとめ上げた、ピカソやミロを生んだ国の、尽きせぬ芸術的エネルギーが満ち満ちている。
凡百の女どもよ、この耳飾りを身に着けようなどと、ゆめゆめ思うな。この耳飾りが選ぶのは、己の足で立ち、己の言葉で語り、己の感性で世界と対峙する、一本筋の通った人間だけだ。流行を追いかけ、男に媚びるだけの女の耳に、この銀の塊はあまりに重い。だが、もし、その魂にイベリアの太陽を宿し、心にフラメンコの烈火を秘めた女(ひと)がいるならば、この耳飾りは、彼女の最高の共犯者となるだろう。それはもはや装身具ではない。彼女の生き様を代弁する、沈黙の宣言となるのだ。
重さ約15グラム。この心地よい重みは、己の存在を確かめるための重みだ。幅約26ミリ。その大きさは、世界に対して臆することなく、自らの美意識を表明するための大きさである。
我が輩は、この小さな傑作を前にして、久しぶりに心が満たされるのを感じている。分かる者にだけ、分かれば良い。この価値を解せぬ者は、永遠に既製品のまやかしの中で眠り続けるがよい。真の美を求める、孤高の魂を持つ者よ。来たれ。この銀の輝きは、汝のためにこそ、ここに在るのだから。