かのバルセロナの女細工師、チェロ・サストレ。巷では奇抜な意匠をもって時代の寵児となったなどと囁かれるが、そのような薄っぺらな言葉でこの女の本質を語ろうとする輩は、物の美しさというものをまるで分かっておらぬ。美とは、流行り廃りの彼岸に、厳然として存在する魂の姿に他ならぬ。この銀の耳飾りを見よ。これこそ、サストレという作り手が、己が魂を銀に写し取った、まごうことなき真作である。
カタルーニャの乾いた風と、地中海の底知れぬ紺碧。その両極に抱かれ育ったサストレの美意識は、ありふれた宝飾師のそれとは全く趣を異にする。彼らが金や石の価値にのみ目を奪われ、虚飾の塔を築き上げることに終始する時、サストレはただ一人、金属そのものが持つ生命の声に耳を澄ますのだ。
この一対の銀塊を見よ。何という豊潤さ、何という静謐な力に満ちていることか。凡百の職人ならば、この銀の塊から、いかに多くの飾りを切り出し、いかに細かく磨き上げるかを考えるであろう。だがサストレは違う。彼女は銀の持つ本来の丸さ、その内に秘めたる月の如き光を、損なうことなくこの世に留めることを選んだ。槌で打ち、火で炙り、掌で転がし、まるで赤子を慈しむが如く、この形へと導いたのだ。手にした時の、ずしりとした重み。これは単なる銀の重さではない。作り手の情念と、銀という物質が呼応し合った、生命の重さそのものである。
意匠の中心を飾る、この渦巻き。これを単なる模様と見る者は、美の門の前に佇むばかりで、その内に入ることを許されぬ。これは、生命の螺旋だ。遥かなる太古、アンモナイトが海の底で見た夢の化石であり、銀河が夜空に描く壮大な詩でもある。サストレは、この小さな銀の球体に、宇宙の始まりと終わりを封じ込めた。渦は表面を削り取ることで生まれるが、それは決して喪失ではない。むしろ、内なる闇、すなわち虚空を覗き込むための窓なのだ。西洋の芸術が、常に空間を何かで埋め尽くすことで自己を主張してきたのに対し、我々東洋の民は、古来より「間」や「余白」にこそ、万物の真理が宿ると知っていた。サストレは、スペインという西洋の土にありながら、この東洋的なる美の神髄を、天啓の如く掴み取っている。その渦の奥を覗き込むがいい。そこには静寂があり、無があり、そして、だからこそ全てが生まれる豊饒の闇が広がっているではないか。
この耳飾りが最もその真価を発揮するのは、華やかな宴の席ではない。むしろ、月影だけが射す静かな夜、あるいは、物憂げな午後の光の中であろう。これを身につけた女(ひと)が、ふと髪をかき上げた瞬間、その耳元で銀の球体は、鈍く、しかし確かな光を放つ。それは、自ら輝くことを誇示する傲慢な光ではない。周囲の光を静かに受け止め、自らの内なる宇宙をほのかに映し出す、奥ゆかしい光なのだ。その一瞬、見る者は、単なる装身具としてではなく、一個の独立した生命体として、この銀の球体と対峙することになる。それは、作り手サストレの魂との、静かな対話の始まりでもある。
1980年代、世は浮かれ、人々は刹那的な刺激に狂奔していた。サストレもまた、その時代のうねりの中で、先鋭的な作品を世に問い、喝采を浴びたという。だが、そのような時代の喧騒は、彼女の創作の核心に触れるものではない。彼女の眼は、常に、流行の先にある、変わることのない物の本質だけを見つめていた。この耳飾りが証明している。ここに奇をてらった線も、見る者を威圧するような石もない。あるのは、銀という金属への深い敬意と、生命の根源たる形への飽くなき探求心、そして、使い手と一体となることで初めて完成する、という用の美に対する、峻厳なる哲学だけである。
この品をに出すという。結構なことだ。これほどの物が、好事家の蔵に眠るのではなく、新たにその価値を知る者の元へと旅立つのは、物の道理に適っている。願わくば、この銀の球体に宿るサストレの魂の声を聴き、その重さを掌で感じ、己が人生の新たな一頁を共に紡いでいけるような、真の美を解する人物の手に渡ることを、切に祈るばかりである。そうでなければ、サストレも、この銀も、浮かばれまい。