以下、作者の気持ちのなってのブラクラ妄想セールストークです〜〜
内なる光の公理 (The Axiom of Inner Light)
この作品は、宝飾品を作ろうという意志から始まったのではない。それは、静寂と対話するという、ほとんど強迫観念に近い欲求から生まれたのだ。アトリエの窓から差し込む、月光とも呼べないほど希薄な都市の光を眺めながら、私は完全性という古典的な概念に疑問を抱いていた。完全な円、完全な調和、完全な閉じた系――それらは美しいが、生命の本質だろうか?生命とは、むしろ断絶、不均衡、そして常に外部へと開かれた未知の可能性の中にこそ宿るのではないか。
こうして、最初のインスピレーションが形を成した。それは円環だった。しかし、完璧に閉じたウロボロスの蛇ではない。あえて一部を切り開き、始まりも終わりもない、無限の可能性への入り口を設けたのだ。素材には18Kホワイトゴールドを選んだ。月光を凝固させたような、冷徹なまでの知性と静けさを宿すこの貴金属は、私の哲学を体現するのに最もふさわしいカンヴァスだった。11.5グラムという確かな重みは、この作品が単なる装飾品ではなく、身に着ける者の精神に働きかける、ひとつの「重し」であることを示唆している。
だが、開かれた円環だけでは、単なる未完の象徴に過ぎない。そこに秩序と理性を与える「公理」が必要だった。私は、20世紀初頭のドイツ、ヴァイマルで産声を上げたバウハウスの思想家たちに思いを馳せた。ヴァルター・グロピウスらが提唱した、装飾を排し、機能と構造の純粋な美を追求する哲学。彼らの精神は、合理性とミニマリズムの中にこそ、最も強力な表現が宿ると信じていた。
その思想へのオマージュとして、私は円環を断ち切るように、黒いエナメルとプラチナの層から成る直線的な構造体を配置した。これは単なる留め具ではない。混沌とした生命(開かれた円環)に介入する、厳格な論理の楔(くさび)なのだ。何度も焼き付けられ、研磨された漆黒のエナメルは、一切の光を吸収し、その隣で輝くホワイトゴールドのラインは、揺るぎない理性の光を放つ。それはまるで、マルセル・ブロイヤーがデザインした椅子のように、構造そのものが美となる瞬間を捉えたかったのだ。
そして、この作品の核心に至る。ダイヤモンドだ。
私は、伝統的な宝飾デザインのように、ダイヤモンドを金属の玉座に据え付け、その権威を誇示するような手法を断固として拒絶した。私の求める光は、外部から与えられた権威の光ではない。内側から、生命そのものの中から、必然として迸(ほとばし)る光でなければならなかった。
0.311カラットのダイヤモンド。私はそれを、開かれた円環の切り口の近く、まるで金属の裂け目から自然に結晶化したかのように埋め込んだ。これは「セッティング」ではない。「発見」なのだ。ホワイトゴールドという母岩が、永い時間をかけてその内部に育んだ純粋な輝きが、今まさに露わになった、という物語を表現した。その留め方は、熟練の職人技を要した。金属がダイヤモンドを掴むのではなく、金属がダイヤモンドのために道を譲り、その存在を優しく抱擁するように見えなければならない。それは、ミニマルな彫刻で知られるコンスタンティン・ブランクーシが、素材そのものの声を聞きながら形を削り出したプロセスにも似ている。
こうして、三つの要素がひとつの宇宙を形成した。
* 開かれた円環(The Open Circle): 不完全さ、可能性、そして生命の流転。
* 黒と白金の公理(The Axiom in Black and Platinum): 理性、構造、そして人間の意志。
* 内なるダイヤモンド(The Inner Diamond): 混沌と秩序の狭間で生まれる、本来的な真実の輝き。
このペンダントトップは、男性のためでも女性のためでもない。それは、自己の内なる対話に耳を傾ける「個」のために存在する。ある者にとっては、人生という不完全な円環を生きる中での、確固たる信念の象徴となるだろう。またある者にとっては、自らの内面に眠る、まだ見ぬ輝きを発見するための触媒となるかもしれない。
幅24.3mm、高さ17.5mmというこの小さな宇宙は、単なる物体ではない。それは、身に纏う哲学であり、沈黙の内に雄弁に語りかける詩である。私はただ、素材に内在する声に耳を傾け、それを形にしたに過ぎない。この物語の続きを紡ぐのは、これからこの作品を手にする、あなた自身の人生だ。