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『ゴッドファーザー』Blu-ray(1972年)監督 フランシス・フォード・コッポラ *送料無料
The Godfather
監督 フランシス・フォード・コッポラ
脚本 マリオ・プーゾ
フランシス・フォード・コッポラ
原作 マリオ・プーゾ
製作 アルバート・S・ラディ(ファイナルカット権なし)
ロバート・エヴァンス(クレジットなし)
出演者 マーロン・ブランド
アル・パチーノ
ジェームズ・カーン
ロバート・デュヴァル
音楽 ニーノ・ロータ
撮影 ゴードン・ウィリス
編集 ウィリアム・レイノルズ
ピーター・ジンナー
配給 パラマウント映画
公開 アメリカ合衆国の旗 1972年3月24日
日本の旗 1972年7月15日[1]
上映時間 177分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
イタリア語
ラテン語
製作費 $6,000,000[2]
興行収入 $245,066,411[2]
配給収入 日本の旗 19億9700万円[3]
(東京ロードショー分3億6651万円)
次作 ゴッドファーザー PART II
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『ゴッドファーザー』(原題:The Godfather)は、1972年に公開されたアメリカ映画。監督はフランシス・フォード・コッポラ。
マリオ・プーゾによる同名小説の映画化作品で、三部作(または二部作と後日譚ともされる)「ゴッドファーザー・シリーズ」の第一弾。2004年のデジタルリマスター版公開時における日本でのキャッチコピーは、「権力という孤独 愛という哀しみ 男という生き方」。
概要
家族の愛と絆、義理と人情、忠誠と裏切り、金と権力などが交錯するなかで揺れ動く人生の機微や人間社会の模様をイタリア系移民の裏社会を通して描き出した、一大叙事詩の第1章である[4][5]。
20世紀半ばにおけるアメリカの移民社会やマフィア暗躍時代の実態をギリシア悲劇[6]やシェイクスピアやドストエフスキーにも通ずる格調高い年代記としてまとめ上げられた脚本に[7]、19世紀の豪華なオペラ様式[8]や黒澤明[注 1][11]の影響を示唆させる複数の対照的要素が連続的および並列的に配置されたダイナミックな物語の構図[13][14]、イタリア系を中心とした個性的な俳優陣によるリアルで重厚な演技[15]、忠実に再現された戦後間もないアメリカやシチリアの雰囲気を秀逸なカメラワークと郷愁的色調やフィルム・ノワール[16]ならびにドイツ表現主義[17]的陰影に満ちた照明で捉えた芳醇な映像美に[18][19]、ニーノ・ロータによる叙情的な旋律の劇伴など[20]、その画期的な作風で新たな映画芸術を確立した。
公開されるや当時の興行記録を塗り替える大ヒットになるとともに評論家や映画関係者からも高い評価を受け、同年度のアカデミー賞において9部門にノミネート、そのうち作品賞・主演男優賞・脚色賞を受賞、劇伴は同年度のグラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門を受賞した。
テレビ放送の普及による米国映画産業の衰退を打開したブロックバスター映画の発端となる作品であると同時に[21]、芸術的なこだわりが強い映画であっても興行的に成功できることを世界に証明した[22]。また、監督から脚本家から俳優や音楽担当に至るまで多くのイタリア人が製作に関与した映画であり、これまでのハリウッドに当然のように蔓延していたホワイトウォッシング(白人以外の役を白人が演じること)を打開した先駆的作品とも考えられている[注 2][15]。
1990年には、「文化的、歴史的、また芸術的に重要である」としてアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。2006年には、フランシス・フォード・コッポラ監督および撮影監督のゴードン・ウィリスによって、ネガフィルムの大規模な修復プロジェクトが1年半かけて行われ、その出来も高い評価を得た[23][24]。
「ゴッドファーザー」(またはゴッドマザー、ゴッドペアレンツ)とは、日本語版では原作、映画共に「名付け親」と訳されているが、正式にはキリスト教(特にカトリック)文化において洗礼式に選定される代父母のことであり、その後の生涯にわたって第二の父母として人生の後見を担う立場である[注 3]。すなわち、タイトル『ザ・ゴッドファーザー』は、主人公のドン・コルレオーネが幅広く一族郎党のボスであることを暗示している。
あらすじ
第二次世界大戦終戦直後の1945年。ニューヨーク五大ファミリーの一角で、最大の勢力を誇るイタリア系マフィア「コルレオーネ・ファミリー」の邸宅では、ドン・コルレオーネ(ヴィトー)の娘コニーの結婚式が盛大に開かれていた。ドンには他に3人の息子と1人の事実上の養子がおり、その中で末弟であるマイケルはただ一人裏社会には入らずに大学を経て軍隊に入り、戦場での活躍で英雄扱いを受けていた。式に参列したマイケルは婚約者のケイを家族に紹介し、祝福される。その華やかな雰囲気の一方で、ヴィトーは娘を凌辱された葬儀屋の男の請願を執務室にて受け、困惑しながらもその報復を部下に指示する。また、自らが代父となった歌手のジョニーからも懇願を受け、弱気なジョニーを叱咤激励しつつ、養子かつ組織のコンシリエーレである弁護士のトム・ヘイゲンを介して、ジョニーを干そうとしていたプロデューサーのウォルツを脅し、彼が大事に育てていた雄馬の首を切り取り、彼のベッドへと放り込ませる。
ある日、五大ファミリーのタッタリア・ファミリーの客分で麻薬密売人のソロッツォが、政治家や司法界への太い人脈を持つコルレオーネ・ファミリーに麻薬(ヘロイン)の取引を持ちかけてくる。麻薬取引を固く禁じるヴィトーは拒絶するが、長男で跡継ぎ(アンダーボス)のソニーは迂闊にも乗り気の姿勢を見せる。そのため、ソロッツォ(及びタッタリア)は邪魔なヴィトーを消せば取引は可能と考え、ヴィトーへの暗殺未遂事件を起こす。複数の銃弾を受けたヴィトーは昏睡状態となるも一命を取り留め、ソロッツォは思惑が外れて焦る。一方のコルレオーネ・ファミリーではソニーが報復を訴えるも、全面抗争を避けたい他の幹部らに説得され、様子を見ることになる。そんな中、夜半の病院で、いまだ意識の戻らない父の見舞いに来たマイケルは、味方の護衛達が警察の指示で追いやられたと知り、敵の暗殺者が迫っていることに気づく。マイケルは機転を利かせて父を別室に移し、同じく見舞いに来ていたパン屋のエンツォと共に玄関で見張りに立ち、近づいてきたタッタリアの襲撃者たちを素通りさせる。間もなくタッタリアの依頼を受け護衛たちを帰らせたマクラスキー警部が病院に到着し、目論見を失敗させたマイケルの顔面を殴りつける。トムの機転で護衛問題は片付くが、再度父を狙われたことに激怒したソニーはタッタリアの跡継ぎブルーノを殺害し、ここに全面抗争が確定する。また、父を守る思いと怒りに燃えるマイケルは裏社会に入ることを決意して兄ソニーや父の盟友で幹部(カポ・レジーム)のクレメンザやテシオに相談する。そしてマイケルは、ソロッツォとマクラスキーとの会談に応じる振りをして、レストランでの交渉の席で二人を射殺すると、ケイに黙ったまま、組織と縁が深いシチリア島へ高跳びする。
その後もニューヨークでの抗争は熾烈を極め、コルレオーネ・ファミリーはソニー指揮の下でタッタリアに大損害を与えていた。コルレオーネの勝利が間近と見られていたが、そんな折に、ソニーは妹コニーがその夫のカルロより日常的に暴力を受けていることを知って激しく怒り、義弟カルロを問い詰めるために単身屋敷を飛び出してしまう。その隙を狙われ、ハイウェイの料金所にてソニーは刺客たちから短機関銃の集中射撃を浴びて無残に殺される。一方、シチリア島で知り合った現地の美女アポロニアと結婚し安穏とした生活を送るマイケルにも敵の手が伸び始めており、護衛役のファブリツィオの裏切りでアポロニアが爆死する。
意識を回復するもまだ体調は万全ではないヴィトーは息子ソニーの死にショックを受けつつ、タッタリアとの手打ちを決める。コルレオーネに次ぐ勢力を誇るバルジーニが仲介役となって五大ファミリーの会合が開かれ、その場でヴィトーは麻薬取引を部分的に認めつつ、残る息子マイケルの身の安全を要求し、タッタリアとの講和が結ばれる。その帰途、ヴィトーはトムに今回の騒動の黒幕はバルジーニだと指摘する。
ヴィトーは帰国したマイケルを正式にファミリーの跡継ぎにすることを決め、自らは相談役として退く。若く新参のマイケルに不安を覚える部下たちも多い中、マイケルは5年以内にファミリーを合法化して一部のシマは譲ると言い、また有能だが平時の人材と目する義兄トムを遠ざけ、ファミリーの仕事をしたがっていた義弟カルロを重用する。加えてマイケルはケイと再会して結婚し、2人の子供をもうける。しかし、コルレオーネ・ファミリーは落ち目だと内外にみなされ始めており、ラスベガスを新天地とする構想は、次兄フレドを預かっているラスベガスの有力者モー・グリーンとの対立で破綻する。また、死期が近いことを悟ったヴィトーは、マイケルに自分の死後にバルジーニが動き出すだろうと忠告し、さらに彼との会談を持ちかけてきた者が裏切り者だと指摘する。間もなくヴィトーは孫と庭の菜園で過ごしている際に心臓発作で亡くなり、その葬儀の場でテシオがバルジーニとの会談を持ちかけてくる。マイケルは会談の日を自らが代父(ゴッドファーザー)となる妹コニーの息子の洗礼式の日と定める。
洗礼式当日、マイケルは信頼するロッコやアル・ネリらに命令を下し、バルジーニを含めたニューヨーク五大ファミリーのドン全員と、モー・グリーンの同時暗殺を実行する。さらにテシオを粛清し、実は家庭内暴力が故意のもので、バルジーニにそそのかされてソニー暗殺計画の一端を担っていたカルロをも粛清する。
数日後、転居を控えたコルレオーネ邸に酷く取り乱したコニーが現れ、洗礼式の日に幼子の父親であるカルロを殺したこと、そもそも初めから殺すために手元に置く目的で重用していたことなどを指摘し、兄マイケルを人でなしと罵る。それを聞いて心配になるケイは事実かとマイケルに問うが、彼はこれを否定する。表面的には安堵の顔を浮かべるケイであったが、書斎に入ってきたカポ・レジームたちが新たなドン・コルレオーネとしてのマイケルに忠誠を誓う姿と、不安気な表情の妻の目の前でドアが閉じられるところで物語は終わる。
製作
本作は、その製作過程において、監督と会社の衝突や本物のマフィアからの脅迫など、さまざまなトラブルを抱えたため、完成まで茨の道を歩んだ[31]。その舞台裏の物語は、2022年に『ジ・オファー / ゴッドファーザーに賭けた男』としてドラマ化された(主人公はアルバート・S・ラディ)[31]。『ゴッドファーザー』の原作者マリオ・プーゾは晩年、「映画産業はベガスよりも、そしてマフィアよりも、ずっとクセモノだと思う」と述懐している[32]。
企画の発足
本作で描かれた時代の五大ファミリーのボスとその妻たち(1949年撮影)。左から2番目にラッキー・ルチアーノ、中央にフランク・スカリーチェ。
ロバート・エヴァンス(2012年)
イタリア系の小説家のマリオ・プーゾは5作目の長編小説の題材として、ニューヨークの犯罪ファミリーを選んだ。出版社からわずかな前払い金を受け取って書き始めた小説『マフィア』をパラマウント映画が知ったのは1967年、同社のスカウトが当時のパラマウントの製作担当副部長のピーター・バート(英語版)に60ページの未完成原稿を紹介したときであった[33]。バートはこの作品が「マフィアの物語をはるかに超越している」と感じ、プーゾに12,500ドルのオプションと、完成した作品を映画化する場合には8万ドルの報酬を約束した[33][34]。プーゾの代理人はこのオファーを断るように言ったにもかかわらず、プーゾは無類のギャンブル好きで金に困っていたためこの契約を受け入れた[33][34]。パラマウントの制作部長であったロバート・エヴァンスによれば、1968年初頭にプーゾと会ったとき、彼はギャンブルの借金を返済するために1万ドルを緊急に必要としていることを打ち明けていた[35]。1967年3月、パラマウントは映画を作ることを期待して、プーゾの今後の作品を経済的に支援することを発表した[33]。プーゾはパラマウントの経済的援助を得て執筆を進め、1969年3月10日に446ページからなる小説『ゴッドファーザー』を上梓した。原作は同年9月に売上げ1位を記録し、その後67週間にわたって「ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト」に留まり、2年間で900万部以上を売り上げることになる[36][37][33][38]。
1969年、パラマウントは8万ドルでこの小説を映画化する意図を確認し、1971年のクリスマスに映画を公開することを目指した[注 4] [34][39][40][41][42]。同年秋から1970年冬にかけて、ピーター・バートとロバート・エヴァンスは製作スタッフを探しにかかるが、有名なプロデューサーたちはマフィアを理想化したようなこのプロジェクトに加わることに消極的であった[43]。一方で、独立プロデューサーたちが映画化権を持っている会社の上層部へ「我々にやらせて欲しい」と売り込みをかけてきた、ともエヴァンスは説明している。名前を上げているだけでもヘクト、ヒル、ランカスターがあり、バート・ランカスターは監督と主演を望んでいるとエヴァンスは聞かされていた[44]。
結局映画のプロデューサーはその時点で1本のテレビ番組と1本映画の経験しかなかったアルバート・S・ラディが務めることとなり、1970年3月23日、パラマウントはラディの会社アルフラン・プロダクションを通して映画の製作を行うことを発表した[45]。ラディが起用された理由は、スタジオ幹部がラディとの面会で彼に感銘を受けたことと、彼が映画を低予算で製作することで知られていたためであった[46][47][48]。なかでもラディは面会のなかで、マフィアと関係の深いミケーレ・シンドーナと交流があった、パラマウントの親会社ガルフ&ウエスタン(英語版)の重役チャールズ・ブルードーン(英語版)に対して、「あなたの愛する人々についての震えるような映画を作りたい」と売り込み、彼に衝撃を与えた[32]。
監督の選出
フランシス・フォード・コッポラ(1996年)
ロバート・エヴァンスは、この映画を「ethnic to the core」(根っからのエスニックなもの)で観客が「smell the Spaghetti」(スパゲッティを味わう)ほどにするために、イタリア系アメリカ人によって監督されることを望んだ[32][49]。当時のパラマウントの最新のマフィア映画であった『暗殺』は興行成績が非常に悪かったが[38][50]、エヴァンスはその失敗の理由をイタリア系のキャストやクリエイターがほとんどいないことだと考えていたためであった(監督のマーティン・リットと主演のカーク・ダグラスはイタリア系ではなかった)[35]。 今回の新作では、第一候補としてまずセルジオ・レオーネにオファーしたが[51][52]、レオーネは自身のギャング映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』に取り組むため、この誘いを断った[51][52]。その後、ピーター・ボグダノヴィッチに声をかけたが、彼はマフィアに興味がなかったため断った[53][54][55]。さらに、ブルードーンとパラマウントの社長であったスタンリー・R・ジャッフェは、有名な監督たちにオファーをしはじめた[32]。ピーター・イェーツ、リチャード・ブルックス、アーサー・ペン、コスタ=ガヴラス、オットー・プレミンジャーといった面々であったが、マフィアをロマンチックに描くことは不道徳であるとして、全員にそのオファーを断られた[32][56][57]。そこでピーター・バートは、低予算で仕事ができるイタリア系の監督として、最新作『雨のなかの女』が興行的に不発に終わっていたフランシス・フォード・コッポラを提案した[58][32]。当時のコッポラは批評家からの評価は高かったが、興行的にはまだ成功を体験していない、いわばマイナーな監督であった。コッポラは当初、プーゾの小説がいかがわしく扇情的で「pretty cheap stuff」(かなり安っぽいもの)だと述べて、オファーを断った[35][59]。しかし当時、コッポラのスタジオであるアメリカン・ゾエトロープは、ジョージ・ルーカス監督映画『THX 1138』の予算超過のためにワーナー・ブラザースに40万ドル以上の借金をしており[60]、また彼の経済状態の悪さと、ルーカスなどの友人や家族のアドバイスもあり、コッポラは最初の決定を覆して仕事を引き受けた[57][61] [62]。コッポラは1970年9月28日に本作の監督として正式に発表された[63][64]。コッポラは125,000ドルと劇場レンタル料の6パーセントを受け取ることに同意した[65][66]。
しかし実際のところ、ピーター・バートとロバート・エヴァンスは、上層部の反対もあり、監督発表の48時間前でも、コッポラにするべきか決めかねていた。当時はマフィア映画が当たらないという風潮が根付いており、原作が人気を得ていたとはいえ、最初からこの映画を大規模な作品にすることは想定していなかったため、最終的にはコッポラという長編映画3本を連続してコケた監督にお願いするしかなかった[67]。
コッポラとパラマウントの衝突
『ゴッドファーザー』の製作以前、パラマウントは不遇の時期を過ごしていた[38]。最新のマフィア映画『暗殺』(1968年)の失敗に加えて、パラマウントが製作または共同製作した『ペンチャー・ワゴン』(1969年)、『暁の出撃』(1970年)、『ワーテルロー』(1970年)といった直近の映画は、予算を大幅に超過していた[38][50]。この映画の予算は当初100万ドルから250万ドルほどであったが、小説の人気が高まるにつれ、コッポラはより大きな予算を要求し、最終的には600万ドルから720万ドルほどとなったが、それでも大作規模に及ぶものではなかった[注 5][56][68][70]。パラマウントの幹部は、映画を現代のカンザスシティに設定し、コストを削減するためにスタジオの映画セット(バックロット(英語版))で撮影することを望んだ[56][47][68]。しかしコッポラはこれに反対し、小説と同じ時代、1940年代と1950年代に映画を設定したいと考えた[47][56][62][64]。その理由は、主人公の海兵隊への勤務と帰還、企業国家アメリカの台頭、第二次世界大戦後のアメリカの様子を描きたかったためであった[64]。原作はますます成功を収めていたため、コッポラの願いは最終的に叶えられた[47][68]。スタジオの責任者はその後、コッポラにニューヨークとシチリアでのロケを許可した[76]。
チャールズ・ブルードーンは、何度スクリーン・テスト(英語版)を行っても納得のいく役者を見つけられない製作陣に不満を抱いていた[71]。実際にコッポラの優柔不断さとパラマウントとの衝突のために製作はすぐに遅れはじめ、1日あたり約4万ドルの費用がかかるようになり、スタジオ側は製作費に目を光らせるようになった[77]。そしてパラマウントが試写を始めたとき、コッポラ監督の映画は退屈なものに見え始めていた[78]。重厚な会話と穏やかな暴力表現に、経営陣は失敗作ではないかと心配になった[78]。彼らは血と根性とセックスとドラッグを求めており、コッポラの使う控えめな威嚇と陰謀は、パラマウントの煙たいオフィスを納得させなかった[78]。そのため、スタジオはコッポラを解雇すると脅し続け、彼自身も撮影中、自分はいつでも解雇される可能性があると感じていた[56][78]。経験不足のため製作規模の拡大に対処できないことをエヴァンスが懸念して、いざとなればエリア・カザンに監督を引き継ぐよう頼んでいたことにもコッポラは気づいていた[79]。
また、コッポラは、編集者のアラム・アヴァキアン(英語版)と助監督のスティーブ・ケストナーが、自分を解雇させようと共謀していることを確信していた。アヴァキアンはエヴァンスに、コッポラが十分な映像を撮れていないため、シーンをうまく編集できないと不満を漏らした。しかしエヴァンスは、送られてくる映像に満足しており、共謀を疑っていたコッポラに2人を解雇することを許可した。コッポラは後に「私は『ゴッドファーザー』のように、先制攻撃として人をクビにした。私を解雇させようと最も努力していた人たちを、私は解雇したんだ」と説明している[80]。さらに、監督の進退が問われたこの時期に、主演のマーロン・ブランドは逆に、コッポラが解雇されたら私も辞めると周囲を脅していた[56][81]。
このようにコッポラは会社からの脅しを全く意に介さず、むしろそれを利用して反抗的に仕事を続けていたようだった[78]。しかし、それでもパラマウントは代役監督を送り込み、映画の進行を監視することをやめなかった[78]。これは、スタジオが脅迫行為を押し付けるだけでなく、プロジェクトの進行状況を把握するための手段でもあった[78]。スタジオと良好な関係を保つために、コッポラは会社の要求をいくつか受け入れ、暴力的なシーンが追加された[82]。たとえばカルロの浮気を知ったコニーが食器を叩き割るシーンは、このために追加された[62][82]。そしてソニーが銃弾の雨あられに遭う象徴的なシーンのように、スタジオの見解を念頭に置くように心がけた[82]。また、マイケルがソロッツォとマクラスキーを殺害するシーンを撮影したとき、撮影現場から聞こえる断末魔とパチーノの激しい演技が、代役監督とスタジオに彼らの心配が見当違いであることを納得させた[78]。
コッポラは、本作の撮影に関して、役者たちのリアルな演技や即興性を重要視した[32]。さらに、美術監督のディーン・タヴォウラリスや衣裳デザイナーのアンナ・ヒル・ジョンストン(英語版)とともに、その時代特有の背景の小道具からマフィアの暴力の描写まで、映画のあらゆる面で正確さとリアリズムを目指した[160]。撮影が始まる前に、キャストは2週間のリハーサルの期間を与えられ、その期間中、家族内でのキャラクターを確立させるために主要キャスト全員でキャラクターを演じながら夕食させる機会も設けられた[161]。
撮影開始は当初1971年3月29日を予定し、クリスマスプレゼントを買うためにニューヨークのベスト社(英語版)を後にするマイケル・コルレオーネとケイ・アダムスのシーンから始めるつもりであったが[162][163]、3月23日に雪が舞う予報が出たため、ラディは撮影日をその日に前倒しした[163]。しかし、結局雪は降らなかったため、スノーマシンを使って3月23日に撮影が開始された[163]。 ニューヨークでの主要な撮影は1971年7月2日まで続いたが、コッポラはシチリアでの撮影に向かう前に3週間の休暇を求めた[164]。 シチリアへのスタッフ出発後に、パラマウントは公開日を1971年のクリスマスから1972年初頭に移動すると発表した[165]。
撮影監督のゴードン・ウィリスは当初、製作が「混沌」としているように見えたため、『ゴッドファーザー』の撮影を断っていた[166][131]。後にウィリスがオファーを受諾した後、コッポラとの間で、時代映画であるため機械的にシンプルに保つべきであるという基本的な認識のもと[167]、現代の撮影装置、ヘリコプター、ズームレンズを一切使用しないことに合意し、またクラシカルな「タブロー形式」による撮影を選んだ[168]。タブローとは、19世紀の絵画や舞台美術の実践における、運動の形象化を基礎とした理念であり、映画を単純なショット=断面として切り取るのではなく、物語の時空間的展開や、見る者の知覚に作動する図像学的な意味作用を含んだ画面表現を表している[169]。一方で、オープニングの葬儀屋の男の顔が徐々にズームアウトしていくシーンや銃撃シーンでは、革新的な撮影技術を使用した[160]。またウィリスとコッポラは、映画全体を通して明暗を強調させることに同意し[71]、影と低い光量を利用することで心理的な展開を表現した[168]。フィルムの露出を下げることで、ウィリス曰く「(年代物の)色の悪い新聞写真」のような琥珀色の色彩も与えた[168][167]。シチリアのシーンは、田舎をよりロマンチックな土地として表現するために撮影され、ニューヨークのシーンよりもソフトでクリーミーな印象を与えている[170][167]。ウィリスのもとには、カメラオペレーターとしてマイケル・チャップマンがついた。
コッポラのロケ要請は守られ、約90パーセントがニューヨークとその近郊で撮影され[171][172]、120以上の異なる場所が使われた[173]。いくつかのシーンはイースト・ハーレムにあったスタジオ「フィルムウェイ(英語版)」で撮影された[174]。残りの部分は、カリフォルニアで撮影されたり、シチリアで現地撮影された。ラスベガスを舞台にしたシーンは資金不足のためロケが行われなかった[171][175]。シチリアのシーンは、実在するコルレオーネ村ではなく、サーヴォカとフォルツァ・ダグロで行われた[176]。オープニングの結婚式シーンはスタテン島で750人近くの地元民をエキストラとして使って行われ[172][177]、ほとんどフリーフォームの演技で撮影された[140]。コルレオーネ邸として使われた家と結婚式会場の場所は、スタテン島のトッドヒル地区(英語版)の「110 Longfellow Avenue」であった[178][177][98]。コルレオーネ邸周囲の外壁は発泡スチロールで製作された[177]。コルレオーネの事務所と周辺を舞台にしたシーンは、チャイナタウンのモット・ストリート(英語版)で撮影された[173][179]。
この映画の最も衝撃的な場面の1つに、実際に切断された馬の頭部が登場する[62][180]。このシーンの撮影場所については論争があるが、外観のロケーションはビバリーヒルズの「The Hearst Estate」[注 13]、建物の内部はロング・アイランドの「Sands Point Preserve」で撮影されたようである[182][183]。頭部は実際に劇中の馬を殺したわけではなく、馬肉で製造されるドッグフード会社から死骸を拝借した[184]。また、この映画で最も費用がかけられた撮影は、ソニーが殺害されるシーンである[185]。6月22日、ソニーが殺されるシーンはユニオンデール(英語版)にあるミッチェル空軍基地(英語版)の滑走路で撮影され、3つの料金所とガードレール、看板も設置された[186]。ソニーの車は、無数の弾痕に似せた穴を開けた1941年式リンカーン・コンチネンタルで、ソニーの服には血液に似せた液体の袋と大量の爆竹が仕込まれた[160][187][188]。このシーンの撮影だけで3日を要し(ただし撮影自体はワンテイクで終えた[160])、当時の価格で10万ドル以上かかっている[189][188]。
1971年8月7日に撮影が終了した後[190]、ポストプロダクションの努力は映画を扱いやすい長さに編集することに集中した[191][192]。9月には、最初のラフカットが鑑賞された[191]。映画から削除されたシーンの多くはソニーを中心としたものであり、プロットを進展させるものではなかった[193]。11月までにコッポラとラディはセミファイナルカットを終えた[193]。この編集について、ファイナルカットの権利を持っていたエヴァンス(故人)と、監督のコッポラ双方の意見はわかれている。コッポラは何度も2時間10分以内に収めるよう命じられたと主張するが、エヴァンスはコッポラにもっと質感を加えて、長さを気にするなと命じたと主張する[32]。そしてエヴァンスはコッポラに強要して追加した30分が映画を救ったと述べているのに対し、コッポラはエヴァンスがカットするよう命じた30分を元に戻しただけだと述べている[32]。