指輪が、すべての始まりだった。
令和の世、還暦を迎えたばかりの私、瑞希(みずき)の指で、それは静かに輝いていた。夫が遺したアンティークのジュエリーボックス。その奥にひっそりと仕舞われていた、18Kゴールドのダイヤモンドリング。二つの曲線が優雅に交差し、そこに埋め込まれたダイヤモンドが、まるで星の軌跡のように連なっている。夫の祖母から受け継がれたものだと聞かされていたが、その詳しい由来を知る者はいなかった。ただ、言い伝えによれば、この指輪は時を超える力を持つという。
「馬鹿らしいわよね、そんなおとぎ話」
一人、リビングで呟く。夫を亡くして三年。歴史教師の仕事も定年を迎え、だだっ広い家で時間を持て余す日々。心にぽっかりと空いた穴は、何で埋めればいいのか分からなかった。ふと、吸い寄せられるように、その指輪を左手の薬指にはめてみた。ひんやりとした金属の感触が、肌に馴染んでいく。その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。めまい、耳鳴り、そして強烈な浮遊感。私は意識を手放した。
次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、見慣れたリビングではなかった。鬱蒼と茂る木々、土の匂い、そして肌を撫でる湿った風。自分の服装が、あの日着ていたワンピースのままであることに気づき、私は愕然とした。ここはどこ?何が起こったの?混乱する私の耳に、鋭い声が突き刺さる。
「何者だ!」
声の主は、月代(さかやき)を剃り、刀を腰に差した若武者だった。歳は三十代半ばだろうか。日に焼けた精悍な顔立ちに、鋭い眼光。その瞳には、私に対する警戒心が剥き出しになっていた。
「ここは会津の領内。怪しい者を通すわけにはいかぬ」
会津。その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。歴史教師として、幾度となくその名を口にしてきた。幕末の動乱期、最後まで武士の誇りを貫き、悲劇的な運命を辿った地。まさか、そんな時代に?
若武者は私を怪しみながらも、藩の者と思しき数人の男たちと共に、私を城下へと連行した。道中、私は必死に頭を働かせた。自分がタイムスリップしたという、荒唐無稽な事実を受け入れなければならない。そして、この時代で生き抜く術を見つけ出さなければ。幸い、私は歴史を知っている。それが、私の唯一の武器だった。
城下で私を待ち受けていたのは、会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり)その人だった。歴史の教科書で見た肖像画よりも、ずっと若く、苦悩の色が滲み出ている。私は記憶喪失を装い、未来を予知する力がある、とだけ伝えた。突拍子もない話だったが、私の口から語られる京の情勢や、長州の動きは、彼らの知る情報と奇妙に一致していた。そして何より、私が身につけていたワンピースの生地や、指輪のデザインは、彼らにとって未知のものであり、私の言葉に不思議な説得力を与えた。
こうして私は、「未来を読む女」として、会津藩に身を置くことになった。若武者の名は、斎藤謙信(さいとうけんしん)。彼は容保の側近であり、新選組との連絡役も務める、腕利きの武士だった。謙信は、私の存在を完全には信用していなかったが、その妹の八重(やえ)は、違った。薙刀(なぎなた)の名手である彼女は、私の西洋の知識や、男女平等の考え方に、強い興味を示した。
「瑞希殿の故郷では、女子(おなご)も男子(おのこ)と同じように学ぶことができるのか?」
目を輝かせて尋ねる八重に、私は令和の世の常識を語って聞かせた。八重は私の話に夢中になり、私たちはすぐに打ち解けた。謙信は、そんな私たちを少し離れた場所から、複雑な表情で見守っていた。
会津での日々は、穏やかに過ぎていった。私は藩の子供たちに手習いを教えたり、八重と共に薬草を摘みに出かけたりした。謙信とも、言葉を交わす機会が増えていった。彼は口数が少なく、感情を表に出すことは滅多になかったが、その瞳の奥に宿る優しさに、私は気づいていた。ある夜、月明かりの下で、彼はぽつりと語った。
「俺は、この会津を守りたい。そのためなら、この命、惜しくはない」
その横顔に浮かぶ固い決意に、私は胸が締め付けられる思いがした。私は、この会津が辿る悲しい未来を知っている。それを、彼に告げるべきか。いや、告げたところで、歴史の流れを変えることなどできるのだろうか。私の心は、激しく揺れ動いた。
そんな私の葛藤をよそに、時代は刻一刻と、その悲劇へと突き進んでいた。鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城。そして、新政府軍の矛先は、ついに会津へと向けられた。
戊辰戦争。その戦火は、私の想像を絶するものだった。城下に響き渡る砲声、燃え盛る家々、そして人々の悲鳴。八重は薙刀を手に、女たちを率いて果敢に戦った。謙信は、白虎隊の少年たちが出陣していく姿を、唇を噛み締めながら見送っていた。私は、何もできなかった。ただ、傷ついた人々を看病し、おにぎりを握ることしか。
「瑞希殿、これを」
ある日、謙信が私に小さな包みを差し出した。中には、干し柿が数個入っていた。戦況が悪化し、食料も底をつきかけている中、彼は自分の分を私に分け与えてくれたのだ。
「…ありがとう」
かすれた声で礼を言う私に、彼は言った。
「瑞- 希殿は、未来に帰らねばならぬ人だ。だから、生き延びてくれ」
その言葉に、私はハッとした。彼は、私がこの時代の人間ではないことに、気づいていたのだ。そして、それを黙っていてくれた。彼の優しさが、私の胸に温かく、そして痛く染み渡った。
鶴ヶ城への籠城戦が始まった。降り注ぐ砲弾の中、私たちは必死に耐えた。だが、もはやこれまで、という時が来た。敵の総攻撃が開始され、城内は混乱の極みに達した。その時、一本の砲弾が、私のすぐ近くに着弾した。爆風に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。薄れゆく意識の中、私は左手の薬指にはめた指輪を、強く握りしめた。謙信、八重…みんな、死なないで。そう、心の中で叫んだ瞬間、再び、あの浮遊感に襲われた。
目を開けると、そこは活気に満ちた街だった。レンガ造りの建物、ガス灯の灯り、そして行き交う人々の洋装。私は、瞬時に理解した。ここは、明治の東京だ、と。
呆然と立ち尽くす私の前に、一台の人力車が止まった。そこから降りてきたのは、凛々しい洋装に身を包んだ、見覚えのある女性だった。
「瑞希殿…!?」
それは、成長した八重の姿だった。彼女は看護婦として、この新しい時代を力強く生きていた。八重に導かれるようにして、私はある屋敷へと案内された。そこで私を待っていたのは、警察官の制服を着た、一人の男だった。
「…謙信」
私の呼びかけに、彼はゆっくりと振り返った。その顔には、会津で別れた時よりも深い皺が刻まれ、瞳には、拭いきれない哀しみの色が宿っていた。彼は、藤田五郎(ふじたごろう)と名を変え、警官として、明治の世の治安維持に努めていた。
再会を喜ぶ八重とは対照的に、謙信は私と距離を置こうとした。彼は、会津を守れなかったこと、多くの仲間を失ったことを、深く悔いていた。過去の亡霊に囚われた彼は、未来から来た私と向き合うことが、辛かったのだろう。
私は、新島襄(にいじまじょう)の妻となった八重の紹介で、女子の英語塾で教鞭を執ることになった。生徒たちは皆、新しい知識を貪欲に吸収しようとしていた。その姿は、かつて八重が私に見せた輝きと重なって見えた。
生徒の一人に、麻(あさ)という少女がいた。彼女は貧しい農家の出身で、女工として働きながら、夜間の塾に通っていた。麻は、古い慣習に縛られることなく、自分の力で生きていきたいと願っていた。私は、そんな彼女の姿に、未来の女性たちの可能性を見た。
私は、時間を見つけては、謙信の元を訪れた。会津での思い出、八重のこと、そして、私が教える生徒たちのことを語り聞かせた。彼は黙って私の話を聞いていたが、その表情は、少しずつ和らいでいった。
ある雨の日、私は謙信に尋ねた。
「あなたは、まだ会津の夢を見ますか?」
彼は、窓の外に降る雨を見つめながら、静かに答えた。
「毎晩だ。夢の中で、俺は何度も、鶴ヶ城で死んでいく仲間たちを見ている」
その声は、震えていた。私は、彼の背中にそっと手を伸ばした。その瞬間、彼の肩が、小さく揺れた。彼は、私に背を向けたまま、嗚咽を漏らした。私は、ただ、彼の背中をさすり続けた。降りしきる雨が、彼の心の痛みを、少しでも洗い流してくれるように、と願いながら。
その日を境に、私たち二人の間を隔てていた氷の壁は、少しずつ溶け始めた。彼は、私の存在を、過去の痛みから目を逸らすための逃げ場所ではなく、共に未来を歩むための支えとして、受け入れてくれるようになった。
私たちは、穏やかな時間を共に過ごした。それは、恋と呼ぶにはあまりにも静かで、しかし、深く、確かな絆で結ばれた関係だった。指輪は、私の指で、まるで私たちの穏やかな日々を祝福するかのように、優しい光を放っていた。
だが、平穏な日々は、長くは続かなかった。ある夜、大きな揺れが私たちを襲った。関東大震災。その歴史的な大災害が、再び私の運命を大きく揺り動かした。崩れ落ちる家屋、火の海と化す街。私は、謙信の手を強く握りしめた。その時、指輪が、再び熱を帯び始めた。嫌な予感が、私の背筋を駆け巡る。
「瑞希殿!」
謙信の叫び声も虚しく、私の体は、またしても時空の渦に飲み込まれていった。
次に私が降り立ったのは、大正デモクラシーの華やかな空気が満ちる、帝都・東京だった。モダンな洋館が立ち並び、人々は自由な気風を謳歌していた。しかし、私の心は、晴れることがなかった。謙信と、引き裂かれてしまった。もう、二度と会うことはできないのだろうか。絶望が、私の心を支配した。
私は、自分の姿が、年老いていることに気づいた。会津、明治、そして大正。三つの時代を駆け抜けた私の体は、確実に時を重ねていた。鏡に映る自分の顔には、深い皺が刻まれ、髪は白くなっていた。
私は、謙信と八重の消息を追い求めた。そして、ついに、彼らの孫にあたるという青年に、巡り会うことができた。彼の名は、龍生(りゅうせい)。大学で西洋哲学を学ぶ、知的な若者だった。
龍生は、祖父母から、私の話を何度も聞かされていたという。未来から来た不思議な女性、瑞希。彼にとって、私は、伝説上の人物だった。
「あなたが、瑞希さんですか…?」
驚きと感動に目を見開く龍生に、私は静かに頷いた。私は彼に、自分が生きてきた数奇な運命を、全て語った。謙信との出会い、八重との友情、そして、明治の世で育んだ、ささやかな幸せ。龍生は、涙を浮かべながら、私の話に耳を傾けてくれた。
「祖父は、亡くなるまで、あなたのことを話していました。『瑞希殿は、俺の心の光だった』と」
龍生の言葉に、私の目から、熱い涙が溢れ出した。謙信は、私のことを、ずっと想い続けてくれていたのだ。
私は、龍生の家で、穏やかな晩年を過ごすことになった。彼は、私を実の祖母のように慕ってくれた。私は彼に、令和の世の話を聞かせた。スマートフォン、インターネット、そして、かつて日本が経験した、戦争の歴史。龍生は、私の話に真剣に耳を傾け、未来の世界に思いを馳せていた。
そして、運命の日がやってくる。大正12年9月1日。関東大震災。私は、この日が来ることを知っていた。だが、逃げることはしなかった。これが、私の最後の役目なのだ、と覚悟を決めていた。
激しい揺れが、街を襲う。私は、龍生の手を固く握りしめた。
「龍生、あなたはこの国を、未来へと繋いでいくのよ」
私は、自分の指から、あの指輪を抜き取った。そして、それを龍生の手に握らせた。
「この指輪が、あなたを守ってくれるわ」
指輪は、私の手から離れた瞬間、その輝きを失ったように見えた。そして、私の意識は、ゆっくりと闇の中に沈んでいった。
次に目覚めた時、私は、見慣れたリビングのソファに横たわっていた。窓の外からは、令和の街の喧騒が聞こえてくる。私は、ゆっくりと自分の左手を見た。そこには、あの日と同じように、ワンピースの袖からのぞく、皺の寄った、しかし、見慣れた自分の手があった。薬指には、何もはめられていない。
夢だったのだろうか。あまりにもリアルで、鮮明な夢。だが、私の心には、あの激動の時代を生きた人々の想いが、温かく、そして確かに残っていた。
私は、立ち上がり、夫の書斎へと向かった。埃をかぶった古いアルバムを、一冊ずつ開いていく。そして、ある一枚の写真に、目が留まった。それは、大正時代に撮られた、家族写真だった。中心には、穏やかな笑みを浮かべた老夫婦。そして、その隣に立つ、聡明そうな青年。青年の手には、見覚えのある指輪が、はっきりと写っていた。写真の裏には、震えるような文字で、こう記されていた。
「愛する瑞希祖母様へ 龍生」
涙が、止まらなかった。あれは、夢ではなかったのだ。私は、確かに、あの時代を生きたのだ。謙信と、八重と、そして龍生と。
私は、空になったジュエリーボックスを、そっと撫でた。指輪は、もうここにはない。それは、時を超え、龍生の子孫へと、受け継がれていったのだろう。そして、いつかまた、時を超える旅をする誰かの指で、輝くのかもしれない。
私の心に空いていた穴は、いつの間にか、温かいもので満たされていた。それは、夫を亡くした悲しみとは違う、愛おしさと、感謝の念だった。私は、歴史の中に、確かに生きた。そして、その記憶は、これからも、私の中で生き続ける。
私は、ペンを取った。この、時を超えた壮大な愛の物語を、書き記しておくために。私の人生は、決して空っぽなどではなかった。それは、ダイヤモンドのように、幾つもの時代を駆け抜け、光り輝く、物語に満ちていたのだから。
窓の外では、令和の空が、どこまでも青く、澄み渡っていた。