
吉川水城
小田原で育ち、東京藝術大学修了後、益子で窯業試験場の技師として活躍。独立してから、益子の伝統的な黒釉で、独自の色絵世界をつくり出す。 栃木県窯業試験場に入所 民藝陶器の里として世界的に知られる益子焼は、1853年に開窯した。つくられていたのは、柿釉、青磁釉、黒釉、糠白釉、並白釉などを掛けた甕、擂り鉢、行平、土瓶などの生活雑器。しかし、後に重要無形文化財保持者に認定された濱田庄司(1894〜1978一)が定住し、益子の素材を活用するようになってからは、民藝風の陶器づくりが盛んになり、その中心的な窯場へと変貌を遂げた。現在では、400を超す窯元が煙を上げている。 1941年東京に生まれた吉川氏は、父親の仕事の関係で、小田原で育った。小さい頃から神奈川県の絵画の賞を独占し、現役で東京藝術大学に入学。インダストリアルデザイナーを目指した。しかし、教授のすすめで3年の夏休みに九州の上野焼で土掘りから蹴轆轤を体験し、焼き物の道に進んだ。ちょうど藝大に陶芸科が新設された頃で、吉川氏はその第一期生となった。教授は、藤本能道、浅野陽、田村耕一のそうそうたるメンバー。吉川氏は佐野出身の田村先生に指導を仰ぎ、その紹介で益子の栃木県窯業試験場に就職した。 益子に色絵の技法を伝える 吉川氏が窯業試験場に入所した頃、益子では天然の白絵土が枯渇し、伝統的な化粧掛けの技法が消えかけていた。吉川氏は、窯業試験場の技師として化粧土のレシピを公開し、化粧掛けの技法を復活させた。また、抜きした部分に赤絵を入れるのがほとんどであった益子に、藝大で取得した下絵付けや上絵付けによる色絵の技法も伝えた。しかし、技師として益子にこれ以上貢献できるものがないと独断した吉川氏は、1969年に退所。益子町北郷谷に窯を築いた。 ところで、独立した吉川氏に、絵具の調合を依頼してきた大家がいる。20世紀の陶芸界の鬼才と言われ、独創的な器形を幅広く展開した加守田章二(1937〜1983)だ。1959年に益子に移り住んだ加守田は、現代感覚の灰釉や炻器シリーズで注目を集めていたが、彩陶の連作は吉川氏の絵具が出発点になっているのだ。 黒釉に絵付けして二度焼き 益子の陶芸家として歩み始めた吉川氏の特徴的な手法は、黒釉に絵付けした色絵を、再度本焼きするというもの。土は有田の磁土、瀬戸の半磁土、常磐炭鉱から採った「高萩土」などさまざまだが、黒釉は古くから使われてきた益子の伝統的な釉薬。益子の「あしぬま石」の粉末8、長石1、石灰1、それにベンガラ0.3を加えたもので、「あしぬま石」を単身で使えば、民藝的な益子焼を象徴する柿釉となる。 吉川氏は、色絵が映える益子の黒釉を30年以上前から使用している。しかし、二度焼きすると黒い色がさらに深まるが、キズが出やすいという欠点があった。吉川氏は試行錯誤の末、1,250度で焼成を終えてから、15分で1,050度まで急冷できる窯で焼けば、キズが入らないことを突き止めて1976年に大型ガス窯を特注。以来吉川氏は、本焼きした黒釉の上に、下絵具と同じくらい耐火度の高い絵具で絵付けをして、再度本焼きするという手法を貫いている。 益子のトラディショナルな黒釉で、新たな表現を確立した吉川水城氏は、濱田庄司と同じ益子焼の正当な継承者の一人だ。
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