以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
第一章：令和の空虚
西暦2025年、東京。コンクリートとガラスでできた巨大な峡谷の底で、倉田美咲（くらたみさき）、28歳は、静かに息をしていた。息はしているが、生きている実感は希薄だった。法人向けのソフトウェアを販売する会社で営業アシスタントとして働き、もう5年になる。可もなく不可もない成績、特に親しい同僚もいない、波風の立たない毎日。それは安定と引き換えに、彩りを失った日々だった。
数ヶ月前に、唯一の肉親であった祖母の静江（しずえ）が亡くなった。静江は美咲が物心ついた頃から、両親を事故で亡くした彼女を女手一つで育ててくれた、太陽のような人だった。いつも朗らかに笑い、どんな時も「大丈夫、大丈夫」と美咲の頭を撫でてくれた。その祖母がいなくなり、美咲の世界から、色が、音が、そして温度が失われたようだった。
遺品整理は、思ったよりも早く終わった。祖母は質素な人だった。残されたのは、古びた家具と、数枚の着物、そして美咲との思い出が詰まったアルバムだけ。そう思っていた。だが、桐箪笥の奥に隠された小さな宝石箱を見つけるまでは。
黒ずんだベルベットの箱を開けた瞬間、美咲は息を呑んだ。そこに収められていたのは、彼女が祖母の指で一度も見たことのない、豪奢な指輪だった。
中央に据えられた、舟のような、あるいは鋭い瞳のような形の一際大きなダイヤモンド。その両脇に、寄り添うように少し小さな同じ形のダイヤモンドが二つ。三つのマーキスカット・ダイヤモンドは、まるで冬の夜空に輝く三連星のように、強い光を放っていた。プラチナと思しき白い金属の台座がダイヤモンドを掲げ、アームの部分は温かみのあるイエローゴールドでできている。
箱の底には、古びたタグが一枚。かすれた文字で「1.00cttw」「14K」「$6920」と記されている。ニューヨーク5番街。それがこの指輪の故郷らしい。倹約家で、ブランド物など一つも持っていなかった祖母が、なぜこんなものを？
美咲は、そっと指輪を手に取った。ずしりとした重みと、不思議な温かさが指先に伝わる。まるで、誰かの想いが金属に溶け込んでいるかのようだ。魔力に引かれるように、美咲はそれを自分の左手の薬指にはめてみた。サイズは16号。少し大きいが、抜けるほどではない。
その瞬間だった。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。めまいかと思ったが、違う。部屋の景色が、まるで熱せられたアスファルトから立ち上る陽炎のように揺らぎ始めたのだ。耳の奥で、キーンという鋭い音が鳴り響く。立っていられず、美咲はその場にしゃがみ込んだ。
「うっ…！」
目を固く閉じる。揺れは収まらない。嵐の中の小舟のように、世界が激しく回転している。次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、見慣れた自分の部屋ではなかった。
第二章：昭和の残像
焦げ付いた木の匂いと、土埃の匂いが混じり合って鼻をつく。美咲の目に映ったのは、一面の焼け野原だった。遠くに、かろうじて形を保った西洋風の建物が見えるが、そのほとんどは骨組みだけを晒している。ついさっきまでいたはずの、高層ビルがひしめく令和の東京ではない。
「どこ…ここ…？」
呆然と立ち尽くす美咲の服装は、先ほどまでのオフィスカジュアルではなく、簡素なもんぺ姿に変わっていた。足元は地下足袋だ。自分の手を見る。指にはめたはずの指輪が、ない。パニックが全身を襲う。
「誰か！誰かいませんか！」
声は、乾いた風にかき消された。人々は、美咲など存在しないかのように、黙々と瓦礫を片付け、バラックを建てている。誰もが、その顔に疲労と、それでも失われることのない強い意志の色を浮かべていた。
不意に、すぐそばを凛とした横顔の女性が通り過ぎた。年の頃は、20代前半だろうか。結い上げた黒髪、通った鼻筋、そして何より、その瞳の力強さに美咲は目を奪われた。女性は美咲のすぐ隣で足を止め、瓦礫の山から一本の歪んだ鉄筋を拾い上げた。その時、美咲は気づいた。女性の左手の薬指に、あの三連のダイヤモンドリングが光っているのを。
「あの…！」
声をかけようとしたが、女性は美咲に気づかない。彼女の視線は、瓦礫の向こうから歩いてくる一人の男性に注がれていた。
痩身で、少し猫背の男だった。着古した国民服が、彼の体の細さを際立たせている。しかし、その顔には、理知的な光と、どこか少年のような純粋さが宿っていた。彼は女性を見ると、ほっとしたように表情を和らげた。
「花恵（はなえ）さん」
「健司（けんじ）さん…ご無事で」
花恵と呼ばれた女性の声は、鈴が鳴るように美しかった。健司は、花恵の指に光る指輪に目を落とし、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「その指輪、まだ持っていてくれたんだね。こんな世の中になってしまったのに…売れば、しばらくは楽に暮らせるだろうに」
「馬鹿なこと言わないでください」花恵は、指輪を守るように、そっと右手を添えた。「これは、あなたとの約束の証です。健司さんが、もう一度絵を描くための。私たちが、ここからもう一度始めるための。違う？」
健主は何も言わず、ただ、花恵の手をそっと握りしめた。その二人の姿を見ていると、美咲の胸に、理由のわからない切なさが込み上げてきた。花恵。その名前には聞き覚えがあった。そうだ、祖母・静江の母親、美咲にとっての曽祖母の名前だ。
では、あの指輪は、もともと曽祖母のもの…？
その考えに至った瞬間、再び世界が歪み始めた。キーンという耳鳴りが戻ってくる。美咲は必死に目を開けて、二人の姿を焼き付けようとした。健司と花恵。あなたたちは、一体、何者なの？ この指輪に、どんな物語が隠されているの…？
意識が遠のく。次に目覚めた時、美咲は自分の部屋の床に倒れていた。左手の薬指には、あの指輪が静かに輝いていた。時刻は、ほんの数分しか進んでいない。夢だったのだろうか。だが、鼻の奥には、まだ焼け跡の匂いがこびりついているようだった。
第三章：絡み合う糸
あの日以来、美咲の日常は一変した。指輪をはめ、強く曽祖母のことを想うと、不意にあの時代へと飛ばされるようになったのだ。タイムスリップ、としか言いようがない現象。最初は数分だった滞在時間が、次第に長くなっていった。
美咲は、幽霊のような存在だった。昭和の世界の誰にも、その姿は見えず、声も届かない。ただの「観測者」。だが、彼女は観測を続けた。曽祖母・花恵と、健司という画家の卵、そして、もう一人の男の物語を。
その男の名は、小野田達也（おのだたつや）といった。がっしりとした体格で、人の良さそうな丸い顔をしている。彼の家は戦前から続く材木問屋で、幸いにも戦火を免れ、復興景気の波に乗って羽振りが良かった。達也は、花恵の幼馴染だった。
「花恵ちゃん、またあんな奴と会ってるのか」
ある日、闇市の片隅で、達也は花恵にそう声をかけた。彼の声には、隠しきれない苛立ちと嫉妬が滲んでいた。
「あんな奴って、健司さんのこと？」
「あぁ。倉田の健司だ。あいつは夢ばかり見て、何の力にもなりゃしない。絵描きなんて商売が、この時代に成り立つもんか。それより、俺のところへ来いよ。親父も賛成してくれてる。何一つ不自由はさせない。お前を一生、守ってやれる」
達也の言葉は、誠実だった。彼の花恵への想いは本物なのだろう。だが、花恵は静かに首を横に振った。
「達也さん、ありがとう。でも、私には健司さんがいます」
「あいつのどこがいいんだ！お前にやったあの指輪だって、どうせ戦前にアメリカかぶれの親の金で買ったものだろう。今じゃ、何の価値もない見栄っ張りだ！」
「価値がないですって？」花恵の声が、鋭くなった。「あの指輪は、健司さんの魂そのものです。彼は、ニューヨークで一度、認められた。戦争がなければ、彼は世界的な画家になっていたかもしれない。あの指輪は、彼が失った夢と、これから取り戻す未来の象徴なんです。あなたにはわからないでしょうね！」
そう言い放ち、花恵は達也に背を向けた。その薬指で、三つのダイヤモンドが悔し涙のようにきらりと光った。
美咲は、ただ黙ってその光景を見つめていた。達也の言うことにも一理ある。この時代、安定した生活は何物にも代えがたい価値があったはずだ。それでも花恵は、健司を選んだ。そこまでして彼女を惹きつける健司の魅力とは、一体何なのか。
美咲は、健司のアトリエ…と呼ぶには粗末すぎる、バラック小屋の一室を訪れた。健司は、イーゼルに向かっていた。彼の描く絵は、美咲が知っているどんな絵とも違っていた。絶望的なまでに暗い色彩の中に、一点、強烈な光が差し込んでいる。それは、破壊と再生、死と生のせめぎ合いのように見えた。彼の内面そのものをキャンバスに叩きつけたような、凄絶な絵だった。
「すごい…」
美咲の呟きは、誰にも届かない。
健司は、絵筆を置くと、小さな木箱から一枚のスケッチを取り出した。それは、花恵の指にはめられた、あの指輪の精密なデザイン画だった。中央の大きなマーキスカット、両脇に寄り添う二つのマーキematical。その下には、走り書きで「Hanae, My North Star（花恵、我が北極星）」と記されている。
親の金で買ったものではなかった。健司が、花恵のためにデザインし、ニューヨークで特注したものだったのだ。三つの石は、過去・現在・未来の二人を象徴しているのかもしれない。美咲は、胸が締め付けられるのを感じた。この指輪は、達也が言うような虚栄の飾りではない。二人の愛と、未来への祈りの結晶だったのだ。
しかし、現実は厳しい。絵は全く売れなかった。健司の生活は困窮を極め、花恵が闇市で懸命に働いて得た金で、二人はどうにか食いつないでいた。
「健司さん、無理しないで。あなたの絵は、いつか必ず認められるわ」
花恵は、痩せていく恋人の背中をさすりながら、いつもそう励ましていた。だが、健司の表情から、少しずつ焦りの色が見え始めていたのを、美咲は見逃さなかった。彼のプライドが、才能豊かな芸術家の自尊心が、日々の貧しさの中で少しずつ削られていく。
そして、運命の日が訪れた。
第四章：引き裂かれた約束
その日、健司は珍しく晴れやかな顔で花恵の前に現れた。
「花恵さん、見てくれ！絵が売れたんだ！アメリカの商人が、まとめて5枚も買ってくれた！」
健司が握りしめていたのは、分厚い札束だった。信じられない、という顔で目を見開く花恵。
「本当…？本当なの、健司さん！」
「あぁ！これで、ちゃんとした画材が買える。暖かい部屋も借りられる。そして、君に…君に、苦労ばかりかけてきたお詫びができる」
二人は、子供のようにはしゃぎ、抱き合った。美咲も、自分のことのように嬉しかった。ようやく、彼らの努力が報われる時が来たのだ、と。
だが、幸せは長くは続かなかった。数日後、健司のアトリエに、憲兵のような鋭い目つきの男たちが押し入ってきた。彼らは、進駐軍のMPだった。
「ケンジ・クラタだな。偽ドル札を使った容疑で逮捕する」
「なっ…！人違いだ！俺は何も知らない！」
健司は抵抗したが、無駄だった。彼は、為すすべもなく連行されていく。アトリエに残された花恵は、何が起きたのか理解できず、ただ床にへたり込んでいた。
美咲は、背後に立つ人影に気づいた。達也だった。彼は、苦虫を噛み潰したような顔で、MPに連行される健司の後ろ姿を見つめていた。
「達也さん…！あなたなのね…？あなたが、密告したの…？」
花恵が、震える声で尋ねる。達也は、ゆっくりと彼女に向き直った。
「俺じゃない。だが、こうなることはわかっていた。あのアメリカの商人は、界隈じゃ有名な偽札使いの詐欺師だ。健司は、浮かれてそれに気づかなかった。それだけのことだ」
「そんな…」
「花恵ちゃん、目を覚ませ。あいつは、お前を幸せにはできない。あいつの描く夢は、いつだって現実の前にもろくも崩れ去る。俺なら、お前を守れる。健司のことも、俺の親父のコネを使えば、刑を軽くしてやれるかもしれん」
それは、悪魔の囁きだった。だが、花恵にとって、それは唯一の蜘蛛の糸でもあった。健司を救いたい。その一心で、彼女は達也を見つめ返した。その瞳には、絶望と、そして一つの決意が宿っていた。
数日後、花恵は留置場の健司に面会した。ガラス越しに見る健司は、すっかり憔悴しきっていた。
「花恵さん…すまない…俺は、君を…」
「健司さん」花恵は、彼の言葉を遮るように、凛とした声で言った。「私、達也さんと一緒になります」
健司の目が、信じられないというように見開かれた。
「…何を、言ってるんだ…？」
「その方が、あなたのためでもあるの。達也さんの力がなければ、あなたはここから出られない」
「そんなことのために…！俺たちの約束はどうなるんだ！」
「約束は…もう、守れません」
そう言って、花恵は左手の薬指から、そっと指輪を外した。三つのダイヤモンドが、冷たく、悲しい光を放つ。彼女は、その指輪を面会室の小さなテーブルの上に置いた。
「さようなら、健司さん。あなたの絵、好きでした」
それが、彼女が最後に振り絞った言葉だった。背を向けて去っていく花恵の肩は、小さく震えていた。健司は、ガラスの向こうで、声にならない叫びを上げ、崩れ落ちた。
テーブルの上に残された指輪が、二人の引き裂かれた愛の証のように、静かに横たわっていた。美咲は、涙が止まらなかった。これが、指輪に秘められた真実だったのか。祖母が語らなかった、家族の歴史の、あまりにも悲しい一幕。
花恵は、愛する人を救うために、自らの愛を犠牲にしたのだ。美咲は、タイムスリップを重ねるうちに、花恵を深く尊敬するようになっていた。彼女の強さ、健気さ、そして深い愛情。そのすべてが、この悲劇的な決断に凝縮されていた。
世界が再び歪む。美咲は、最後の力を振り絞って、泣き崩れる健司の姿と、テーブルの上で寂しげに光る指輪を目に焼き付けた。
第五章：令和の夜明け
令和の部屋に戻った美咲は、しばらく動けなかった。頬を伝う涙が、カーペットに染みを作っていく。左手の薬指にはめられた指輪が、今までとは違う重みを持って感じられた。これは、ただの美しい宝石ではない。曽祖母・花恵の自己犠牲と、健司という画家の絶望、そして達也の歪んだ愛が刻み込まれた、歴史の証人なのだ。
祖母の静江は、母である花恵からこの指輪を譲り受けた時、真実を聞いていたのだろうか。そして、なぜ一度も身につけず、美咲に残したのだろうか。
『この指輪が、いつかあんたを本当の幸せに導いてくれる』
生前、祖母が冗談めかして言っていた言葉を思い出す。あの時は聞き流していたが、今ならその意味が少しだけわかる気がした。これは、過去の悲しみを乗り越え、未来へ繋ぐためのバトンなのかもしれない。
美咲は、立ち上がった。そして、パソコンを開き、一心不乱に検索を始めた。「画家 倉田健司」「戦後 洋画家」「ニューヨーク在住歴」…考えつく限りのキーワードを打ち込んでいく。
ほとんどの検索は空振りに終わった。だが、諦めかけたその時、一つの小さな個人ブログの記事が目に留まった。
『幻の画家、ケンジ・クラタを追って』
記事の主は、古美術商を営む若い男性らしかった。彼は、戦後の一時期、彗星のように現れて消えたケンジ・クラタという画家の作品に魅せられ、その足跡を調査しているという。ブログには、数点の作品の写真が掲載されていた。どれも、美咲があのバラック小屋で見た、暗闇の中に強烈な光を描いた、魂を揺さぶるような絵だった。
記事によると、倉田健司は、達也の尽力もあってか、比較的軽い刑期で出所したらしい。しかし、彼が花恵の前に再び姿を現すことはなかった。彼は、全てを捨てて日本を去り、その後、再びアメリカに渡ったという。結婚もせず、生涯、孤独に絵を描き続けた。彼の作品は、生前はほとんど評価されることがなかったが、近年、一部のコレクターの間で再評価の動きが出ている、と書かれていた。
そして、記事の最後に、こう締めくくられていた。
『彼の作品には、一貫して三つの星、あるいは三つの光が描かれている。専門家は、彼の宗教観の現れだと分析するが、私は、彼が生涯でただ一人愛した女性への、届かぬ想いの象徴ではないかと考えている。彼の残した数少ないスケッチの中に、三つのマーキスカット・ダイヤモンドが輝く指輪のデザイン画があった。その下には、こう記されている。「Hanae, My North Star」と』
涙が、また溢れてきた。健司は、生涯、花恵を想い続けていたのだ。彼の描く光は、いつだって花恵だったのだ。そして、花恵もまた、健司から贈られた指輪を、生涯手放すことはなかった。達也と結婚し、静江を産み、穏やかな人生を送ったように見えた彼女の胸の奥には、常に健司への想いが秘められていたのだろう。
美咲は、いてもたってもいられなくなり、ブログの管理人に連絡を取った。画家のケンジ・クラタについて、話を聞かせてほしい、と。
数日後、美咲は都内にある小さなギャラリーを訪れていた。そこに、ブログの管理人である、藤木朔（ふじきさく）と名乗る青年がいた。優しそうな瞳をした、物静かな青年だった。
「あなたが、倉田美咲さんですね。ご連絡ありがとうございます。まさか、ケンジ・クラタの縁者の方から連絡をいただけるとは…」
美咲は、これまでの経緯を、タイムスリップのことは伏せながら、正直に話した。祖母の遺品から指輪が見つかったこと、それが曽祖母のものであったこと、そして、倉田健司という画家が関わっていたらしいこと。
話を聞き終えた朔は、興奮した様子で一枚のスケッチブックのコピーを持ってきた。
「これを見てください。健司が残した、数少ない私物です。彼の描いた指輪のデザイン画です」
それは、美咲がタイムスリップした先で見たものと寸分違わぬデザイン画だった。「Hanae, My North Star」の文字も、確かにそこにある。美咲は、お守りのように握りしめていた指輪を、そっと朔の前に差し出した。
「たぶん、これです」
朔は、スケッチと実物の指輪を交互に見比べ、感嘆の声を上げた。
「すごい…本物だ…。70年以上の時を経て、絵と指輪が再会した…」
朔は、自分の曽祖父の話をしてくれた。彼の曽祖父は、戦後、健司の数少ない後援者の一人だったのだという。健司は、朔の曽祖父にだけは心を開き、愛した女性との悲しい別れについて、断片的に語っていたらしい。
「曽祖父は、健司の死後、彼の作品が散逸しないように、必死で集めたんです。そして、いつか必ず、彼の名誉を回復するんだ、と。僕がその遺志を継いでいるんです」
二人は、時間を忘れて語り合った。美咲は、曽祖母たちの生きた証を、朔は、無名の画家が遺した魂の叫びを。遠い過去に引き裂かれた二つの物語が、令和の東京で、静かに一つに結ばれようとしていた。
帰り際、朔は美咲に言った。
「美咲さん。もし、よかったら、今度開催するケンジ・クラタの小さな個展で、この指輪を、彼の作品と一緒に展示させていただけませんか。彼の描いた『光』が、何だったのかを、多くの人に知ってもらいたいんです」
美咲は、迷わず頷いた。
「はい。きっと、曽祖母も、健司さんも、それを望んでいると思います」
個展の最終日。美咲は、もう一度ギャラリーを訪れた。健司の絵と並べて展示された三連のダイヤモンドリングは、スポットライトを浴びて、誇らしげに輝いていた。まるで、長い旅路の果てに、ようやく安住の地を見つけたかのように。
「ありがとう」
美咲は、指輪に向かって、そっと心の中で呟いた。あなたのおかげで、私は自分のルーツを知ることができた。そして、空っぽだった私の心に、温かい光が灯った、と。
ギャラリーを出ると、朔が待っていた。
「美咲さん。もし、よかったらこの後…」
彼の言葉は、夕暮れの街の喧騒に混じって、少しだけ照れくさそうに響いた。美咲は、微笑んで頷いた。
二人は、並んで歩き始めた。美咲の心は、不思議なくらい晴れやかだった。空虚だった日々は、もうどこにもない。彼女の目の前には、過去から繋がれた、新しい未来が広がっている。
左手の薬指には、もう指輪はない。けれど、その温かさだけは、確かに残っていた。それは、70年以上の時を超えて結ばれた、二つの家族の愛の温かさだった。三つのダイヤモンドが象徴していた過去、現在、そして未来。そのすべてが、今、美咲の中で輝き始めている。指輪が導いた物語は、悲劇では終わらない。令和の空の下、新しい愛の物語として、今、静かに幕を開けたのだ。
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