日本海軍水上機母艦 能登呂 PIT-ROAD 1/700 スカイウェーブシリーズW62 NOTORO《14式水偵2機付き・1隻入り》SW-3400
必ず説明文を、●●●の箇所までは、お読み下さい。
2025年3月1日頃より、500円スタートします!!
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早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が30~50年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
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日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
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長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、30~50年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝
能登呂(のとろ)[2]は、日本海軍の運送艦[3](給油艦[4])、後に水上機母艦[5]に改造された。
艦名は宗谷岬に相対している樺太(現在のサハリン)南端の西能登呂岬による[24][25]。
概要
能登呂は八八艦隊計画の給油艦の1艦として1920年(大正9年)に竣工した。「若宮」の老朽化によりその代艦として1924年(大正13年)に佐世保工廠にて水上機母艦への改装工事を実施、改装内容は若宮とほぼ準じた形であるが艦形が大きいため搭載機数は倍増している。また給油艦としての機能もそのまま残されていた。
大正年間には、軍鳩の運用試験を行っていた記録が残る[26]。
1934年(昭和9年)、特務艦(運送艦)から水上機母艦へ類別変更。日中戦争(日華事変)などに参加。
1941年(昭和16年)、搭載機を降ろす。大戦中は航空機輸送、重油輸送に従事したが3度の雷撃で損傷。
終戦時はシンガポールにあり、未修理のままオイルタンクとして使用されていた。戦後海没処分。
艦型
給油艦
知床型給油艦の1隻として建造された。詳細は知床型給油艦を参照。
水上機母艦
水上機母艦改装後の能登呂。給油艦時代との差は、前後に砲座が設けられ、艦橋前後の甲板上に天蓋が付いたことなど。[27]
水上機母艦改装後の能登呂。給油艦時代との差は、前後に砲座が設けられ、艦橋前後の甲板上に天蓋が付いたことなど。[27]
基本情報
艦歴
要目(水上機母艦時(1938年))
排水量 12,786英トン[28]
基準排水量 公表値 14,050英トン[29]
ボイラー ロ号艦本式混焼缶 4基[30]
出力 5,850hp[28]
速力 12.0ノット[28]
乗員 1934年6月定員 275名[31]
1941年6月定員 305名[32]
兵装 1937年[30]
40口径8cm高角砲
20mm機銃約20挺
1944年7月[33]
12cm単装高角砲2門
25mm機銃 連装4基8挺
13mm機銃 連装2基4挺
搭載艇 4隻[28]
搭載機 1927年 一四式水上偵察機常用4機、補用4機[23]
#搭載機も参照
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水上機母艦への改造はワシントン軍縮条約直後の1923年(大正12年)に計画され、翌1924年(大正13年)に佐世保海軍工廠で工事が行われた[14]。
艦橋前後の上甲板に艙口を覆う木甲板フラットを設けて水上機の搭載位置とし、その上方には鉄骨木板張りの天蓋を設けた[34]。天蓋は右舷側が開放されており、そこから水上機を収容した[23]。水上機揚収用のデリックは前後のデリック・ポストを補強、延長してそれぞれに1基ずつ設けた[23]。射出機は当時の軍縮条約の制限で装備されなかった[35]。後甲板には発動機調製所が設けられ、最前部のサンマータンクを改正して第2甲板に軽質油庫を設けた他、兵員室や飛行機用の諸工場も設置した[34]。
船首楼直後には飛行機への遮風のために隔壁が設けられ、空気抵抗が増したため速力がいくらか低下した[34]。また天蓋を設置したために艦橋からの前方視界が悪くなり、改造完成直後に前部マスト部分にパイロット・ハウスが設置されている[23]。
上述のように給油艦としての装備はそのままで、給油艦兼水上機母艦として使用された[34]。
1937年(昭和12年)に改装が行われ、天蓋は撤去された[23]。
兵装
要目上では12cm単装砲2門、8cm単装高角砲2門であるが、実際には艦前後に砲台のみが設置されていた[23]。1938年(昭和13年)頃の写真には前後の砲台に8cm高角砲の装備が確認される[23]。
あ号作戦後の状況は8cm高角砲2門、25mm機銃連装4基、13mm機銃連装2基とされる[33]。
搭載機
内令兵制定の昭和10年までの機数は以下の通り。(機数は常用+補用機)
1927年(昭和2年)6月28日:一四式水上偵察機 4+4機[36]
1929年(昭和4年)5月8日:一四式水上偵察機 6+2機[37](昭和4年に定数外として一三式水上練習機1機[38])
1932年(昭和7年)5月25日:一四式三号水上偵察機 4+2機、九〇式水上偵察機 2+1機[39]
1932年(昭和7年)11月1日:一四式三号水上偵察機、九〇式三号水上偵察機 3+1機[40]
1932年(昭和7年)12月8日:一四式三号水上偵察機 3+1機[41]
1933年(昭和8年)1月30日:一四式三号水上偵察機、九〇式三号水上偵察機 6+2機[42]
1933年(昭和8年)10月15日:九〇式二号水上偵察機二型 4+1機[43]
1934年(昭和9年)5月1日:九〇式二号水上偵察機二型 6+2機(一部は一四式三号水上偵察機)[44]
1937年(昭和12年)の修理完成後は九四式水上偵察機4機、九五式水上偵察機4機とされる[45]。
1941年(昭和16年)7月に搭載機を富士川丸に移し、固有の搭載機は無くなった[46]。
艦歴
1920年8月10日 川崎造船所にて竣工。特務艦(給油艦)
1925年12月-翌年5月 佐世保海軍工廠にて水上機母艦への改装工事。
1931年9月5日 横浜港に停泊中、漏れたガソリンに引火爆発、10名の殉職者を出す事故を起こした。
1932年1月 第一次上海事変に参戦。
1934年6月1日 水上機母艦へ類別変更。
1937年 日中戦争(日華事変)に参戦。
1941年7月 搭載機を降ろす。
1943年1月9日 マカッサル海峡でアメリカ海軍潜水艦ガー(SS-206)の雷撃により損傷、シンガポールで修理を行う。
9月20日 トラック沖でアメリカの潜水艦ハダック(SS-231)の雷撃で損傷、因島で修理。
1944年6月29日 シンガポール南東沖でアメリカの潜水艦フラッシャー(SS-249)の魚雷3本を受けた。
6月30日 シンガポール入港、修理。
11月5日 アメリカ陸軍航空隊機の爆撃により大破。
1945年3月1日 予備艦となる。
1947年1月12日 イギリス軍により海没処分された。
5月3日、除籍