廃盤
4CD
アーベントロート指揮
ベルリン・フィル
ライプツィヒ放送交響楽団
ブラームス:
・交響曲第1番ハ短調Op.68
ベルリン・フィル
録音:1941年7月
・交響曲第3番ヘ短調Op.90
ライプツィヒ放送交響楽団
録音:1952年3月17日
・交響曲第4番ホ短調 op.98
ライプツィヒ放送交響楽団(中部ドイツ放送 交響楽団)
録音:1950年2月15日
・ドイツ・レクイエム Op.45
ベルリン放送交響楽団
録音:1952年11月23日
ヘルマン・アーベントロート指揮
凄まじい情熱!
「アーベントロートは旧東ドイツで活躍していたため、もう一つ知名度が弱いが、フルトヴェングラーより3歳年上のこの巨匠の個性は極めて強烈で、
ブラームスの一番と「悲愴」はフルトヴェングラーよりもはるかに雄弁である。
今こそ聴くべし、アーベントロート!」
【宇野功芳】
【アーベントロートのプロフィール】
1883年フランクフルトの大きな書籍商の息子として生まれた。7歳からヴァイオリンを始める。
1900年からミュンヘン音楽院でフェリックス・モットルに指揮法を、ルートヴィヒ・テュイレに楽理と作曲を、ピアノはアンナ・ランゲンハム・ヒルツェルに師事した。
1905年からリューベック市でプロの指揮者としてスタートする。
1911年から1914年までエッセン市の音楽監督をつとめた。
1914年ケルン音楽院の院長となり、1915年から1934年までケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団を指揮。1918年にケルン市の音楽監督に就任。1919年教授になる。
1922年からはベルリン国立歌劇場でも指揮し始める。
1934年1月、ナチス・ドイツより「ナチスの政策に非協力的であること」「ユダヤ人社会ならびにユダヤ人とその文化に好意的であること」などの理由から、ケルン音楽大学学長などの職務を解任され、公職追放された。同年、ライプツィヒに移住。ブルーノ・ワルターが亡命して空席となっていたライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団常任指揮者に就任し、終戦まで務めた。
1943年・1944年バイロイト音楽祭でニュルンベルクのマイスタージンガーを指揮。
1945年末にゲヴァントハウス管弦楽団を退任し、翌1946年よりヴァイマル音楽大学学長ならびにリスト博物館館長に着任。
1949年よりライプツィヒでの指揮活動を再開し、ライプツィヒ放送交響楽団首席指揮者に、1953年からはベルリン放送交響楽団首席指揮者に就任。
1949年08月25日ドイツ民主共和国から国家賞を受賞。
戦後は東ドイツに留まったが、西ドイツのオーケストラへも度々客演している。1951年にはプラハの春音楽祭に東ドイツ代表として参加。1954年から1955年まで、東欧各地やバルカン半島でも演奏活動を行っている。1956年5月下旬、イェナに演奏旅行で滞在中に脳卒中に倒れ、いったんは手術により小康状態を保つが、5月29日に病院内の庭を散策中に再び倒れ、そのまま帰らぬ人となった。葬儀は6月2日に、東ドイツにより国葬として行われた。
戦後の10年間、東西に分割されたドイツ楽壇において、西のフルトヴェングラーに対し東ではアーベントロートのみが最重鎮としてその存在をあらしむものであった。
(キングレコード)
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