フー・ツォンの名前は、ロンドンのインディペンデントに語ったところによると「良い耳」を意味していたといいます。1934年3月10日、上海で生まれたフー・ツォンは、国際的に認められた最初の中国人ピアニスト。1940年にピアノを学びはじめ、第二次世界大戦中および大戦後も、イタリアのピアニストで上海市管弦楽団の指揮者であったマリオ・パーチに師事。1954年に他の中国のミュージシャン、歌手、ダンサーとポーランドで文化交流した際、フーの演奏は聴衆に感銘を与え、翌年のショパン・コンクールに出場するよう推薦されました。結果は第3位(その時、ヴラディーミル・アシュケナージが第2位、アダム・ハラシェヴィチが第1位)でしたが、マズルカの演奏で特別賞(マズルカ賞)を受賞しています。
この成功により、彼はワルシャワ音楽院で学ぶための奨学金を受けます。そこで彼は、後に「唯一の真面目な教師である」と述べたズビグニェフ・ジェヴィエツキに師事。ショパン・コンクール後、ジェヴィエツキはフーを脇に置き、「君は非常に特別だ。個性がある。既に君自身の考えを持っている。だから君にはそれほど頻繁にレッスンには来てほしくない。私は君の邪魔にならないように導き、君の音楽への個々のアプローチを維持することを確実にするためにここにいるだけだ」と述べたといいます。
1958年のクリスマス・イヴに、フーはワルシャワからロンドンへの飛行機に乗り込みました。両親が文化大革命の犠牲となったため、中華人民共和国への帰国を諦め、彼は1960年に政治亡命を申請し、彼の人生の残りの間ロンドンを拠点に活動しました。
フーは、1963年にスカルラッティのソナタの録音で、グラミー賞の「最優秀クラシック新人アーティスト」部門にノミネートされ、1964年にニューヨーク、タウン・ホールでのリサイタル・デビューを果たしました。その後、彼は何度もニューヨークに戻り演奏会を開いています。またエリーザベト王妃国際コンクールの審査員、ショパン・コンクールの審査員、およびパロマ・オシェア・サンタンデール国際ピアノ・コンクールの審査員も務めました。アルゲリッチはしばしば「別府アルゲリッチ音楽祭」に彼を招いて共演もしています。2020年12月28日、新型コロナウイルス感染症によりロンドンで逝去しました。
フー・ツォンのレパートリーはバッハ、スカルラッティ、モーツァルト、ベートーヴェンから、ニューヨークを拠点とする現代作曲家のスン・フー・ユアンまで幅広かったのですが、とりわけショパンの演奏解釈で一家言を成す存在でした。「私はショパンについて強い共感を抱いている。大好きなのだ」と作家のティム・スタインに語っています。「でも個人的にショパンをどう思うか聞かれたら、彼が史上最高の作曲家だとは言えない。でもショパンは、あらゆる作曲家の中で最高のアーティストだった。そういう意味では、ショパンの音楽は私たち東洋人の心にしみるのだ。そこには信じられないほどの味わいや繊細なニュアンスがある」。
熱心なピアノ音楽愛好家にとっては、フー・ツォンが1978年頃から1984年頃にかけてCBSから発売されたショパン録音が、ピアノ・ソナタ、練習曲、24の前奏曲などの初CD化音源も含め、今回初めてCDとして集大成されることは大事件に等しいのではないでしょうか。もともとこれだけのキャリアを誇る名手にしては残された録音が極めて少ないフー・ツォンですが、スケルツォを除くショパンの主要ピアノ独奏曲が網羅されたこれらの録音は、メジャー・レーベルから声がかからず、フー自らプロデュースしたこともあってか、録音年代も明確ではなく、ヨーロッパではオランダCBS、日本ではビクター・エンタテインメントが発売していたように、国によってレーベルが異なる場合もあり、ワールドワイドでの幅広い認識が成されませんでした。またCD化もごく限られた地域や限られたレパートリーで行われていただけであり、フーのショパン録音の全貌を捉えることができませんでした。そのため日本のビクターやソニー・クラシカルが廉価盤の「エッセンシャル・クラシック」シリーズでごく短期間だけ発売したCDは、オークション・サイトで高値を呼ぶコレクターズ・アイテムとなる現象が起きてしまうほどでした。フー・ツォンのショパン演奏は、どれも弱音部の詩情の静寂感、そしてダイナミックな振幅による情熱的な部分まで、ショパン音楽の持つ強い説得力が感じられます。特にピアノの倍音の美しさを保つタッチ、音の間の連続性は絶品といえるでしょう。
フーの演奏は、仲間のミュージシャンからも賞賛されました。 1965年、マルタ・アルゲリッチは、ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝したとき、彼の録音の影響を受けたことを認めています。中国のピアニスト、ラン・ランは、フーをロールモデルとして説明し、音楽に対する彼の「ユニークな」理解を称賛しています。
ショパンは革命前夜の1830年秋にウィーンへの楽旅の途中でワルシャワ陥落を知りパリへ向かい、以後はフランスで活躍することになりました。フー・ツォンとショパンの生き様が重なり合う瞬間が見えるようです。(輸入元情報)
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