F4008「金の豹、心の廻廊」
第一章:受け継がれし重圧
雨の新幹線の窓外に都会の喧騒が遠ざかる。古都華(ことか)は膝上の桐箱を見つめた。その重みは、中身の価値以上の何かを秘めているようだった。数日前、遠縁の曾祖母・千代(ちよ)が百歳を前に大往生を遂げ、遺言でこの箱が古都華に託されたのだ。
箱を開けると、ビロードに鎮座する黄金のバングルが鈍い光を放つ。豹――パンテールが、獲物を狙う一瞬の緊張感を孕み手首に巻き付くようなデザイン。頭部には無数のダイヤモンドがパヴェセッティングされ、豹の斑点は深い蒼のサファイア、眼には生命力を宿したエメラルドが嵌め込まれている。緻密な編み込み細工のバンド部分は、まさに「圧巻」の一言。添えられた鑑定書には「750YG 天然ダイヤモンド サファイア エメラルド バングル 重量42.48g 内周約17cm 幅約12.5mm」とあり、管理番号「F4008」が振られていた。
「歴史的逸品…」古都華は呟き、冷たい金の感触と肌に吸い付く重みを感じた。四国の旧家で生まれ、若くして夫を亡くし、女手一つで料亭を切り盛りした千代。このバングルは、いつ、どんな経緯で彼女の元へ?
古都華の母、小夜子(さよこ)は、厳格な千代と折り合いが悪く「時代錯誤の女帝」と呼び、寄り付かなかった。古都華自身、千代の記憶は幼い頃の数回、厳しい眼差しの印象しかない。なぜ自分にこの高価なバングルを? 幼い頃、一度だけ千代がこれを身に着けていた。客人を迎える特別な日だったか、金の豹は千代の細い手首で力強く輝き、その横顔は少し柔らかく見えた。
小夜子にバングルのことを話すと「派手なものね。売ったら?何か魂胆があるに決まってるわ」と不機嫌だった。魂胆――その言葉に胸がざわつく。
遺品整理を手伝った親族から、千代が晩年、香川県観音寺市の温泉施設「琴弾廻廊(ことひきかいろう)」、特にそこのサウナに足繁く通っていたと聞いた。瀬戸内海を一望する絶景、古民家移築の趣ある建物、四国最大級のサウナ。厳格な千代とサウナ。意外だが、手がかりがあるかもしれない。そして古都華自身、仕事と人間関係に疲れ果て、癒やしを求めていた。
「行ってみよう、琴弾廻廊」。バングルを桐箱に収め、古都華は窓外を見た。雨は止み、雲間から光が差す。金の豹が新たな道へ誘うようだ。このバングルが持つ「力強さ、俊敏さ、そして神秘性」が、今の自分に何かを与えてくれるかもしれない。そんな予感を胸に、古都華は四国行きのチケットを手配した。この旅が、複雑な家族の糸を解きほぐし、自身の心をも解放するかもしれない、と。
第二章:廻廊の囁きと新たな出会い
観音寺駅からタクシーで琴弾廻廊へ。有明浜の松林を抜け、荘厳な建物が見える。古民家移築再生の施設は自然と調和し、懐かしい空気を漂わせる。案内された離れの客室からは、穏やかな瀬戸内海と夕陽に染まる燧灘(ひうちなだ)が一望できた。都会では味わえない解放感に、古都華は深く息を吸った。
夕食後、早速サウナエリアへ。広々とした空間に趣の異なる複数のサウナ、水風呂、外気浴スペース。多くの人がサウナを楽しんでいる。古都華はメインの「ロウリュサウナ」へ。薄暗い室内に白樺の香り、中央のストーブに積まれたサウナストーンが赤々と熱を放つ。じわりと汗が滲み、心が解けていく。
やがてロウリュサービスが始まり、アロマ水をかけられたストーンから蒸気が立ち昇る。心地よい熱波が室内を満たし、古都華は目を閉じ全身で熱を感じた。毛穴から汗が噴き出し、日頃のストレスや疲労が流れ出るようだ。限界まで汗をかき、掛け湯で汗を流し、深さのある水風呂へ。「…っ!」氷のように冷たい水が火照った体を一気に引き締める。数秒で心地よさに変わり、羽衣を纏う感覚。手足が痺れ、頭がクリアになる。
水風呂から上がり、外気浴スペースへ。海風が心地よい。ライトアップされた松林と夜の海、遠くに漁火。インフィニティチェアに身を沈めると、全身の力が抜け、えもいわれぬ多幸感に包まれた。これが「ととのう」か。「素晴らしい…」思わず声が漏れた。千代がこの場所を愛した理由が少しわかった。
数セット後、休憩スペースで寛いでいると、青年に声をかけられた。「初めてですか?すごく気持ちよさそうでしたよ」。歳の頃は古都華と同じくらい、短髪に人の良さそうな笑顔。「はい。こんな素晴らしいサウナは初めてです」「ここは最高ですよ。地元なんで週に何度も。よかったら、おすすめの入り方とか教えましょうか?」彼は佐伯湊(さえきみなと)と名乗り、地元で小さなデザイン事務所を経営しているという。湊の屈託のない笑顔と穏やかな口調に、古都華は自然と心を開いた。
「実は、曾祖母がここの常連だったと聞いて来たんです」古都華は千代のこと、バングルのことを話した。湊は興味深そうに聞く。「そのバングル、見てみたいな。豹のデザインなんて、すごいんでしょうね」「ええ、本当に…生きているみたいなんです」。部屋のバングルを思う。金の豹は今、どんな表情だろうか。
湊は琴弾廻廊の歴史や地域の文化を教えてくれた。彼の話は面白く、時間を忘れた。「千代さんも、きっとここでいろんなことを考えたり、心を整理したりしていたんでしょうね。ここのサウナは、ただ体を温めるだけじゃなくて、心まで温めてくれる気がするんです」。湊の言葉が古都華の胸に落ちた。千代がここで何を感じ、何を思っていたか。それが分かれば、バングルに込められた意味も分かるかもしれない。「明日、もう一度、曾祖母がいつも座っていたという場所でサウナに入ってみます」「それがいい。何か感じることがあるかもしれませんよ」湊は優しく微笑んだ。彼の存在が、この旅に新たな光を灯したようだ。
その夜、部屋で桐箱を開け、バングルを手に取った。間接照明の下、金の豹は一層神秘的に輝く。エメラルドの瞳が古都華を見つめているようだ。「あなたは何を知っているの…?」豹は答えない。ただ、その重みが静かな覚悟を促すようだった。
第三章:豹の眼差しと母の影
翌朝、古都華は湊に教えられた「千代お気に入りの場所」、露天風呂に面したサウナ室の隅に座った。窓から陽光が差し込み、庭の緑が鮮やかだ。静かで穏やかな時間が流れる。目を閉じ、ゆっくり呼吸を繰り返す。熱が身体の芯まで染み渡り、意識が内側へ向かう。不意に幼い頃の記憶が蘇った。
数少ない千代の家での思い出。夏の日、縁側で遊ぶ古都華に、千代が冷たい麦茶と水羊羹を出してくれた。その時の千代の手首には、あの金の豹。太陽光を浴び、ダイヤモンドが虹色に輝いていた。「ことちゃん、これ、綺麗でしょう?」千代は珍しく優しい声で言った。「うん、キラキラしてる。ライオンさん?」「これはね、パンテール。豹よ。強くて、しなやかで、美しいの」。そう言って、古都華の小さな手にバングルをそっと乗せてくれた。ずしりとした重さと、ひんやりとした金の感触。「いつか、ことちゃんにも素敵な宝物ができるといいね」。その時の千代の眼差しは、いつもの厳しさとは程遠い、愛情に満ちたものだった。
なぜ、母の小夜子はこの千代の優しさに気づかなかったのか。いや、気づいていて受け入れられなかったのかもしれない。自由奔放な小夜子と伝統を重んじる千代は水と油。千代の期待に応えられない自分への苛立ちが反発心へ繋がったのではないか。サウナの熱気の中、古都華は母と曾祖母の間の深い溝を感じ、それは自分にも無関係ではないと悟った。
水風呂でクールダウンし、外気浴スペースへ。昨日と同じインフィニティチェアに身を沈める。空は青く、海は穏やか。(お曾祖母様は、この景色を見ながら、何を思っていたんだろう…)パンテールは力強さ、優雅さ、独立心、官能性を象徴するという。千代はこの豹に自分を重ねていたのか。夫を亡くし、女手一つで家を守った人生は、豹のように強く気高かったのかもしれない。
その時、スマートフォンが震えた。母、小夜子からだ。「どう?何か分かったの、あのバングルのこと」相変わらず棘のある口調。「お曾祖母様がなぜ私にこれを遺したのか、まだ分からない。でも…少しだけ、お曾祖母様の気持ちが分かった気がするの」。古都華はサウナで感じたこと、幼い日の記憶を訥々と語った。小夜子は黙って聞いていた。「…あのおばあ様が、そんな優しい顔をすることがあったなんて、信じられないわね」。それでも声のトーンが少し和らいだようだ。「お母さん、お曾祖母様は、お母さんのことも気にかけていたと思う。ただ、表現が不器用だっただけなんじゃないかな」「…そうかもしれないわね」長い沈黙の後、小夜子はぽつりと言った。「そのバングル、あなたに似合うと思うわ。あのおばあ様も、きっとそう思って託したのよ」。それは小夜子なりの和解の言葉か。古都華の胸に温かいものがこみ上げた。
休憩室に戻ると湊がいた。「どうでした?何か感じましたか?」「ええ。少しだけ、曾祖母の気持ちに近づけた気がします。そして、母との関係も…」古都華は湊に感謝した。彼との出会いがなければ、こんな風に自分の心と向き合えなかっただろう。「よかった。古都華さんの表情、昨日よりずっと晴れやかですよ」。湊の笑顔は琴弾廻廊の陽光のように温かかった。
その日の午後、古都華はバングルを身に着け観音寺の街を散策した。約12.5mm幅のバングルは手首に確かな存在感を示し、42.48gの重みが心地よい。金の豹は古都華の動きに合わせしなやかに輝き、彼女を守っているようだ。すれ違う人々が時折手首に目を留める。それは羨望や好奇心だけでなく、敬意も含まれているように感じられた。このバングルはただの装飾品ではない。千代の生きた証、魂の一部なのだ。「750イエローゴールド…K18YG相当。本当に贅沢な作り」。改めて価値を実感し背筋が伸びる。
夕暮れ時、再び琴弾廻廊のサウナへ。ロウリュの熱波を浴び、古都華は決意を固めていた。このバングルを形見として仕舞い込まず、自分の一部として受け入れよう。千代の強さと優しさを胸に、自分の人生を切り拓こう、と。サウナ、水風呂、外気浴。サイクルを繰り返すうち、心と体が浄化され、新たなエネルギーが満ちてくる。金の豹が、エメラルドの瞳で力強く頷いているように見えた。
第四章:明かされる秘密と絆の再生
翌日、チェックアウト準備中、フロントから内線があった。「佐伯湊様より、古都華様にお手紙を預かっております」。湊から?驚きつつ封筒を受け取ると、一枚の便箋と古い写真が入っていた。
『古都華さんへ 昨夜、実家の母と話していて偶然この写真を見つけました。もしかしたら大切なものかもしれないと思いお渡しします。短い間でしたが楽しかったです。またいつか、この琴弾廻廊で会えたら嬉しいです。佐伯湊』
写真はセピア色に変色し、かなり古い。写っているのは若い頃の千代と幼い少女。少女の手には見覚えのある金のバングル…いや、よく見ると豹ではなく蛇をモチーフにしたものに見える。「これ、誰だろう…?」千代の隣の少女は母の小夜子か?いや、もっと幼い。そして千代の表情が、古都華の知る厳しいそれとは全く異なり、慈愛に満ちている。
急いで母に電話し、写真のことを話した。「蛇のバングル…?おばあ様と、小さな女の子…?」小夜子の声が震える。「それ、たぶん、私とおばあ様、そして…おばあ様のお姉さんよ」「お曾祖母様のお姉さん?」古都華は初耳だった。「ええ。私が生まれるずっと前に若くして亡くなったらしいわ。名前は…確か、春(はる)さん。おばあ様は、その春さんのことをとても大切に思っていたって、昔、父から聞いたことがある」
小夜子の話では、千代は若い頃、病弱な姉の春を献身的に看病していた。春は美しいものが好きで、特に動物モチーフの宝飾品に憧れていた。千代はいつか春に素敵なジュエリーを贈りたいと願い懸命に働いたが、願い叶う前に春は亡くなった。「その蛇のバングルは、もしかしたら、おばあ様が春さんのために用意したものか、春さんが持っていた形見なのかもしれないわね…」。だとしたら、千代が豹のバングルを手に入れたのは、春への想いを昇華させるためか。豹の力強さに、姉を守れなかった無念と、それでも強く生きようという決意を込めて。
「お母さん、お曾祖母様、私たちに何か伝えようとしていたのかもしれないね」「そうね…。あのおばあ様が、そんなに深い愛情を持っていたなんて…今まで気づかなかった」。小夜子の声は涙で潤んでいるようだ。「私たち、ずっと誤解していたのかも。おばあ様の厳しさは、愛情の裏返しだったのかもしれない」。古都華も目頭が熱くなった。琴弾廻廊での時間が、凍てついていた家族の心を溶かし始めたのだ。
古都華は湊に電話した。「湊さん、ありがとう。あの写真、とても大切なものでした」「いえ、お役に立てたなら。お母様とも、少しは良い方向に…?」「はい。湊さんのおかげです」。湊の優しさが、古都華と小夜子の心を繋ぐ架け橋となった。
東京へ戻る新幹線の中、古都華は改めてバングルを見つめた。金の豹は以前より親密な輝きを放つ。それは千代の魂、春への想い、そして古都華へ受け継がれた家族の絆の証。このバングルが持つ「神秘性」は、デザインや宝石の輝きだけでなく、人の心と心を繋ぎ、世代を超えて受け継がれる想いの深さそのものだった。クラスプ部分に刻まれた「750」の品位証明は、その絆の確かさを保証するかのようだ。
東京に戻り、まず母の小夜子に会った。二人で千代の思い出を語り、初めて心から笑い合った。小夜子は古都華の手首で輝く金の豹を見て穏やかに微笑んだ。「あなたに、とてもよく似合っているわ。おばあ様も、天国で喜んでいるでしょうね」。長年の母娘のわだかまりが解けた瞬間だった。
古都華の日常も変わり始めた。バングルを身に着けると不思議と自信が湧き、仕事にも前向きに取り組めるようになった。人間関係のストレスも以前ほど感じない。金の豹が古都華を守り導いているかのようだ。「パーティーや結婚式などのフォーマルな場でのドレスアップに。特別なディナーや記念日など、華やかなシーンで。普段の装いにラグジュアリーなアクセントを加えたい時に」。商品説明の言葉が現実となった。このバングルは古都華の人生を豊かに彩る、かけがえのないパートナーとなったのだ。
第五章:金の豹と廻廊の誓い
数ヶ月後、古都華は再び琴弾廻廊を訪れていた。新緑が目に眩しい季節。今回は母の小夜子も一緒だ。「本当に素敵なところね。おばあ様が気に入るのもわかるわ」。小夜子は瀬戸内海を見下ろす露天風呂に浸かり、しみじみと言った。その手首には古都華が贈った小ぶりなパールのブレスレットが優しく輝く。「ここで、お曾祖母様は色々なことを乗り越えてきたんだと思う」。古都華は千代がいつも座っていたというサウナ室の隅に座りながら答えた。
二人はロウリュサウナの熱気と水風呂の冷たさ、外気浴の心地よさを存分に味わった。汗と共に心の澱が流れ出る。「こんなに気持ちがいいなんて、知らなかったわ」。外気浴スペースのインフィニティチェアで小夜子は満足そうに目を閉じた。その表情は以前の険しさが嘘のように穏やかだ。古都華はそんな母の姿を見て心から嬉しく思った。この場所が母にとっても癒やしと再生の場となったのだ。
休憩室で冷たいドリンクを飲んでいると、見覚えのある顔が近づいてきた。「古都華さん!それに、お母様もご一緒に」。湊だった。彼は古都華と小夜子に気づき、笑顔で声をかけてきた。「湊さん、お久しぶりです。母もすっかりここのファンになったみたいです」「それはよかった。琴弾廻廊の魅力が伝わって嬉しいです」。三人はしばらくサウナ談義に花を咲かせた。湊の飾らない人柄は小夜子にも好印象を与えたようだ。
夕食後、古都華は一人、ライトアップされた廻廊を散策していた。手首には金の豹が静かに輝く。この数ヶ月でバングルはすっかり古都華の肌に馴染み、体の一部となっていた。その重みはもはやプレッシャーではなく、信頼と安心感を与える。「悠久の時を超えて愛されるモチーフとスタイル…」。商品説明の一節を思い出す。パンテールとバングルが持つ深遠なる物語。それは千代の人生、春の短い生涯、そして古都華自身のこれからの物語でもある。
月明かりの下、古都華はバングルの豹にそっと語りかけた。「ありがとう。あなたのおかげで、私は変わることができた。家族との絆を取り戻し、自分自身を見つけることができた」。エメラルドの瞳が優しくきらめいたように見えた。力強くもエレガントなパンテールは、古都華の内に眠っていた同じ資質を引き出してくれたのかもしれない。
遠くで湊が誰かと話す声が聞こえる。彼はこの琴弾廻廊を心から愛し、訪れる人々に癒やしと喜びを与えようとしている。その姿はどこか千代の生き様に重なる。古都華はそっと胸に手を当てた。この場所で得た気づきとバングルが繋いでくれた絆を、これからも大切にしていこう。そしていつか自分も、誰かの心を照らせるような存在になりたい。
海の向こうから夜明けの気配が近づく。新しい一日が始まろうとしていた。古都華は手首の金の豹をそっと撫でた。「これからもよろしくね、私のパンテール」。その声は夜明け前の静かな廻廊に清々しく響き渡った。F4008――この歴史的逸品は、古都華の人生という新たな歴史を刻み始めたのだ。その傍らにはいつも四国一のサウナ、琴弾廻廊の温かな記憶と、大切な人々の笑顔があることだろう。それは何よりも価値のある、心の宝物だった。