【写真解説】より一部紹介
<撮影共通データ>
●レンズ V4×5リンホフスーノーテヒニカⅤ
●レンズフ ジノン75、F5.6 アンギュロン90、F6.8アンギュロン120、F6.8テッサー150)ほか
●フィルム RDフジクローム・デーライト RDPフジクローム・デーライト・プロフェッショナル ほか
●フィルター SL=スカイライトフィルター PL偏光フィルター ND=ニュートラルデンンティ
<カンチェンジュンガ山群>Kangchenjunga Region
カンチェンジュンガ主峰を起点として南西に延びる稜線上のヤルン・カン、カンパチェン、ジャヌーとそれにつづく峰々。ジョンサン・ラから南のシッキム国境上のランポ、ピラミッド、テント、ネパールの各ピークからカンチェンジュンガ主峰、さらに中央・南峰を経てタルン、カブルー北・南峰からラトン、コクトンの両ピーク。ジョンサン・ラから西のチベット国境上のジョンサン、アウトライアー、ラシャール、チャブク、オンミ・カンリらの各ビーク。そこから南下してヌプチュー、シャルプーに及ぶ、この東側の山域がカンチェンジュンガ山群の範囲である。8000m峰4,7000m峰18を含む一大山群で、水系としてはタムール川上流のカンチェンジュンガ氷河とヤルン氷河が主な登路を提供している。
1 カンチェンジュンガ山群 Kangchenjunga Region
カンチェンジュンガ北面のベース、パンペマから上流に向かう。このカンチェンジュンガ氷河は多くの枝氷河を合流させながら北に曲がっていくが、私も右岸沿いに上下しながら左に折れる。やや小高くなったモレーンの上は絶好の展望台で、北にはジョンサン・ビーク、東方一帯にはピラミッド・ピークからテント・ピークが見え、南方には目的のカンチェンジュンガ山群の大パノラマがある。手前のツインズからの北稜が高まる所、カンチェンジュンガ主峰から右にヤルン・カン、カンバチェンなどの雄峰がずらり並んでいる。※3月中旬4×5判90E6SL
4 ジャヌー北西面 Jannu,Northwest Face 7710m
ジャヌー北西面を狙うために、シャルプー南東後にルートを定める。カンパチェン部落からグンサ方面に戻り、対岸にジャヌー氷河の流入を見る辺りから取り付いた。登るにつれ、ジャヌー氷河の蛇行がしだいに顕著になってくる。左岸に起伏する岩稜の最も奥に強立するジャヌーは、昨夜の降雪を冠して中天にひときわ高い。全山岩と氷に鎧われた山体が午後の陽を浴びるとき、それはまさしく“怪峰”の異名のままで、見る人をして畏怖せしめるに足る迫力に満ちていた。
※3月中旬4×5判150E6SL
ほか
<マカルー山群>Makalu Region
マカルー山群は通常、クーンブ・ヒマールに包括されるが、その東端にあってバルン・コーラの両岸にわたり、マカルー8481にを中心に、マカルーII,チョモ・レンソ、バルンツエ、チャムランなどの7000m峰4座,6000m峰10数座をかぞえる一大山群として独立した位置を占めている。このすべての山に源をもつバルン・コーラは、チベットに発するアルン河の一大支流で、この山域の登山もほとんどこれを避っておこなわれる。マカルーにはネパールの山の測量順位によるビーク」の名があるが、この流域のピークにはいまだに正式な呼称がなく、この順位によるピーク3からピーク7までの山、そのほかチャゴ、ペタンツェ、ピラミッド・ピーク、チョー・ポルなどが主要なピークとしてかぞえられる。
16 マカルー Makalu 8481m
世界第5位の高峰マカルーの初登項は1955年のフランス隊で、北面ルートによる全員登項という快挙であった。その後イギリス隊は敗退し、1970年、日本山岳会東海支部隊による東南稜からのアタックが初登頂から15年ぶりにおこなわれ、同5月23日、見事登頂に成功した。バルン谷4800mのベース・キャンプは、その長大なマカルー東南稜の全貌を展望するに絶好のアングルであり、同時に南西稜、南壁、西稜と3つのバリエーション・ルート、および壮大なマカルーのアイスフォールが一望される好位置にある。※4月下旬4×5150E6SL
ほか
<クーンブ・ヒマール ロールワリン・ヒマール>
Khumbu Himal,Rolwaling Himal
世界最高峰エベレストを中心とするクーンブ・ヒマールは、ドゥド・コシの上流とイムジヤ・コーラの源流一帯に位置する山群で、東はマカルー山群に接し、西はポーテ・コシでロールワリン・ヒマールと画されている。ネパールの8000m峰9座のうち、エベレスト、ローツェ、ローツェ・シャール、チョー・オューにマカルーを加えた5座までがここにある。一方、ロールワリンはタンパ・コシ上流のボーテ・コシとクーンプのポーテ・コシに挟まれるロールワリン・チューの南北に位置する山群で、メンルンツェ(ジョボ・ガル)とガウリサンカールの2つの7000m峰のほか、無数の6000m峰を擁して北に延び、ナンバ・ラでチョー・オューを通ってきたチベット国境に連結している。
25 クーンブ氷河とエベレスト Khumbu Glacier,Mt.Everest 8848m
カラ・パタール5545メートルから見下ろすクーンブ氷河と見上げるエベレスト、その左手にはチベット側のチャンツェも見える。ゴラク・シェブ南方のチャングリ氷河末端に張ったテントからこのピークに登り、日没後駆け下りるのが日課になってしまい、最初50分かかって登ったのが、1日ごとにタイムが短縮し、ついに30分になった。クーンプ氷河が右に折れ、山ひだに挟まれて上昇した頂点がエベレストである。初登頂は1953年。もとよりイギリス隊で10度にわたる遠征の末、ヒラリーとシェルパのテンジンの2人が頂上を踏んだ。※11月下旬4×5150E6SL
26 エベレスト Mt.Everest 8848m
イギリス隊の初登頂ののち、1956年スイス隊、1960年北面からの中国隊、1963年アメリカ隊ほか、続々とこの世界最高峰は登られた。さらにインド、日本、日本女子、ニュージーランド、韓国その他、多くの隊がエベレストの登頂に成功している。ここゴーキョ・ピーク(5483m)から見るエベレストには、それら多くの隊が登ったルートを指摘することができる。このゴーキョ・ピークも1度目は往復して日没まで待ち、2度目は山頂に3夜を過ごしてエベレストを狙った。笠雲浮かぶエベレストの右の山はヌプツェとローツェである。※11月下旬4×5600E6SL
27 ヌプツェ西面 Nuptse,West Face 7879m
ヌプフェは世界第26位の離峰で、エベレストのサウス・コルの南方、ローツェから西に大きく延びる稜線上にあり、7000m峰4座をもっている。ヌプは西、ツェは峰、つまりエベレストの西峰の意味をもつ山名である。初登頂は1961年のイギリス隊で、第2登も同時になされた。1977年、登歩渓流会隊が挑戦したが、このカラ・バタールから見える北西峰(7745m)に登っただけで、これから東に連なる西峰(7795m)と主峰には至らなかった。主峰の旧高度は7833mであったが、現在は7879mに統一されている。※11月下旬4×5300,E6SL
29 ローツェ Lhotse 8511m
この山名も、ロー(南)ツェ(緑)、すなわちエベレストの南峰の意味である。これは1921年、イギリスのエベレスト隊が命名した。エベレスト、K2、カンチェンジュンガに次ぐ世界第4位のローツェ初登頂は、1956年のスイス除で、その後1977年、ドイッ除が登頂に成功した。日本からは1973年、神奈川岳連隊が南壁からのアタックを試みたが雪崩や落石がひどく断念。1981年、ユーゴスラビア隊が南壁の壁には成功したが、登項には至っていない。チェクンから見る3000mのローツェ南壁にはほとんど雪がついていない。
11月中4×5430RDSL+PL
31 クーンブ氷河とプモ・リ Khumbu Glacier,Pumo Ri 7145m
プモ・リという山名は“乙女の峰”という意味で、1924年、エベレストで行方不明になったイギリス隊のマロリーが命名した。この山の初登頂は1962年のドイツ・スイス合同隊で、1953年、インド隊が試みて失敗したリントレンのコルから、北東稜を忠実にたどって頂上に立った。第2登はフランスのシャモニ登山学校隊で、これは富士宮山岳会隊が失敗した南東稜からである。クーンブ氷河のセラックの間からは、7000mを超えているとはとうてい思えないほど間近に、プモ・リの南東面が見上げられた。※11月下旬4×5判180E6SL
33 アマ・ダブラム Ama Dablam 6856m
“巨人の牙”と別名があるアマ・ダブラムの最も典型的な山容を眺めるには、タンポチェがよい。左に6135m峰をもつ西稜を延ばし、やや右に反り身になった、おなじみの姿である。標高は7000mに足らないのにこの山が有名なのは、この独特で悪絶な山容と、イムジヤ・コーラ沿いのどこからでも見ることができる故であろう。アマ・ダブラムとは“母の首飾り”という意味をもち、初登頂はイギリス。1960年のことだが、無許可であった。1980年秋、日本のイエティ同人隊が北東壁に挑み、見事これに成功している。
39 ヒマラヤひだの無名峰 Unnamed Peak 6430m,ChhukhungGlacier
アマ・ダブラムから東につづく稜線はアンプ・ラブツァからバルンツェにつづいているが、この間、7つの6000m峰がある。この7峰のうち最初の6340m峰のみ、プマ・ダブラム(娘の首飾り)という山名があるだけで、あとの6430m、6246,6146,6238,6205,6840mの6峰は無名峰である。最後の6840m峰を除き、ほかの5つの峰はアマ・タブラム氷河に隣接するチュクン氷河の源頭の峰で、そのヒマラヤひだの美しさはヒマラヤ中随一といってよい。この6430m峰はほかの峰々に比べ標高差があるので、ことに美しい眺めだ。※11月中旬4×5400E6SL
40 カンテガと無名峰群 Kantega 6779m,Unnamed Peaks
カンテガとは“雪の鞍”という意味で、タンポチェ辺りから見る山頂付近の形は、馬の背につける鞍に非常によく似ている。このカンテガから東北東に延びる稜線が、北から北西に転じてアマ・ダブラムに接続する間には6000m峰が数峰あるが、それらはすべて無名峰である。ペリチェから上流に進み、ドゥグラを過ぎる辺りから、それらの無名峰が前山の上に頭をのぞかせてくる。おそらくは未踏の山頂であろうと思われるこれら美しい雪の山頂には、ヒマラヤニストの憧れをかき立てる何かがある。※11月中旬4×5判210E6SL
41 チョ・オユー Cho Oyu 8153m
ドゥド・コシの源流である長大なゴジュンバ氷河の最奥所に、ゴジュンバ・カン、ギャチュン・カンとともに東西に連なる8000m峰である。“トルコ玉の女神”という美しい山名であるが、ゴーキョから見る山体は堂々として“青い巨人”の方がふさわしい。発見したのは1921年のイギリス・エベレスト隊であるが、初登頂はオーストリアのティッヒーとヨヒラーで1954年の春である。この山では同年、女性として当時の最高到達記録(7803m)をつくったフランスのコーガン夫人が、翌年再度の挑戦中、雪崩により遭難死している。※11月下旬4×5判300E6SL+PL
42 ギャチュン・カン Gyachung Kang 7922m
チョー・オユーとゴジュンバ・カンにつづいてチベットとの国境稜線に並ぶギャチュン・カンは、日本人によって初登頂された山である。1964年、長野県岳連隊はゴジュンバ氷河にルートを定め、ベース・キャンプ設営から1ヵ月という短期間で登頂した。このギャチュン・カンという山名の意味は“100の小川の源となっている大きな恵みの山”という長いものだという。荒々しい岩肌を露出させた山容にそぐわないようにも思える。この山を展望するには、ゴジュンバ氷河の奥か、ゴーキョ・ピークが優れている。※11月下旬4×5判400E6SL+PL
43 メンルンツェ Menlungtse 7181m
メンルンツェは別名ジョボ・ガルといい、ロールワリン・ヒマール中の最高峰であるが、チベット領にあるため登山はできず、したがってまだ未踏峰である。すばらしい重量感、美しい雪壁、このメンルンツェの展望台としては、マンルン・ラが第一等地だ。5616mの峠に張ったテントから連日西方のピークに登るが、5月も下旬でモンスーンの前触れか、天候は毎日毎日ぐずついて、この1枚を撮るため、ついに7日を費やしてしまったが、幕営5日目、晴れ上がった空にどっかりと座したメンルンツェに思わず歓声を上げた。※5月下旬4×5判240E6SL+PL
44 ガウリサンカール ガウリンシャンカール Gaurisankar 7146m
一時、この山は世界最高峰だと信じられていた。メンルンツェに次ぐ2つ目の7000m峰でロールワリン・ヒマールのあとの山々はみな6000m峰となる。この山はロールワリン・チューの入り口、シムガオン辺りが一番近くに望めるくらいで、あとはあまり好展望地はない。悪天候の中をシムガオンから登って下りた小さなカルカに幕営する。日没寸前に雲が切れ、ガウリサンカール南壁が見えた。尾根の高みに駆け登っての撮影だったが、牛糞で滑るし、無数のヒルが食い付いてきて、身の置き所がなかった。※5月下旬4×5判300E6SL+PL
ほか
<ジュガール・ヒマール ランタン・ヒマール ガネッシュ・ヒマール>
Jugal Himal , Langtang Himal , Ganesh Himal
ジュガール・ヒマールと一般に呼称されている山は、レンポ・ガン、ドルジェ・ラクバ、グル・カルポ・リ、マディヤ・ピーク、ギャルツェン・ピークほかの、大体ランタン・コーラ左岸の山々である。しかし、これらはランタン・リルンを最高峰として、ランタン・リ、キュンカ・リ、サルバチュム、ペンタン・リほかの山々と同様、チベット領シシャ・パンマを主峰とするランタン・ヒマールに含められるものである。ガネッシュ・ヒマールは、この山群の北西にある7406m峰を主峰とする山群で、主峰以下VI峰まである。主峰からV峰までがすでに登られているが、主峰を除いてすべて近年である。また、チリメ・コーラが中国との国境に修正されたので、南面からの入山は面倒となった。
<マナスル山群>
Manaslu Region
マナスル山群と呼ばれる範囲は、北のラルキャ・ラを頂点とし、東をブリ・ガンダキ、西をマルシャンディの支流ドゥド・コーラで区切られる地域である。この山域にはマナスルを最高峰に、ピーク29、ヒマルチュリがあって、日本人はこれをマナスル三山と言い習わしている。ほかにマナスルの北峰、ヒマルチュリの北峰と西峰が7000m以上の高度をもつ。8000m峰1,7000m峰5、さらにパウダ、ブンギほか数峰の6000m峰もかぞえられる。パン・プチはクータン・ヒマールの北西に連なる峰で標高は不明だが、このほかにも位置。高度など、同定されていないピークがまだ残っている。また、ヒムルン・ヒマールはドゥド・コーラのどんづまりにあって、いまだ未踏の山として残されている。
66 マナスル、ピーク29、ヒマルチュリManaslu 8156m,Peak 29 7835m,Himalchuli 7893m
どちらかというとほかの山群は東西の走向であるのに対し、マナスル山群のみ完全な南北走向である。このマナスル、ピーク29、ヒマルチュリは高度もさほど違わず、山体の大きさも同程度なので、並列を見ると本当に○○三山といった感じである。シスワから尾根道をだらだら登るとマジェクナ峠に出る。ここはアンナプルナ山群とマナスル三山の大展望がある所。ネパール特有の段々畑や民家を前景に置いて、そのかなたに雪山が連続する。マナスル三山の夕焼けの風景ならば、ここから2日半歩いたパグルン・パニの方がいい。*12月上旬4×5150E6SL+PL
<アンナプルナ・ヒマール>
AnnapurnaHimal
人類初の8000に峰登頂でヒマラヤ登山の幕を明けたアンナプルナ山群は、3つの8000mの頂をもつⅠ峰を頭に、II峰からIV峰と南峰、ファング、ロック・ノアール、ガンガブルナ、グレイシャー・ドーム、ティリツォ・ヒマール、ニルギリの3つの峰、マチャプチャレ、ラムジュン・ヒマールほか、無数のピークで構成されている。その範囲は北のマナン谷。東のマルシャンディ。西のカリ・ガンダキ、そして南はポカラの北東で線を引く広大なものである。早くから開かれたため、すでにめぼしい未踏峰はないが、いまなお多くの登山隊を迎えていることは、この山群の魅力を示すものである。また地域解明の進んでいないラブセ(ナウル)・コーラ沿いの山々などは、別な意味で興味深いものがある。
80 アンナプルナⅠ峰と南峰 Annapurna18091m,Annapurna South 7219m
アンナプルナという山名は、サンスクリット語で“豊穣の女神”の意味をもつ語だという。それかあらぬか、ポカラ一帯から展望するアンナプルナ山群には、山麓の風景と融け合って、どこか豊かさが感じられる。そのポカラから歩いて3日、ジョンサンバ街道のゴラバ二の山稜から仰いだアンナプルナⅠ峰(左)と南峰である。Ⅰ峰の初登頂はフランスのモーリス・エルゾーグらによる1950年6月3日、人類初の8000m峰登頂である。南峰は1964年、京都大学隊がアンナプルナ内院からアタックし、初登頂を飾った。※11月上旬4×5500E3SL
92 ニルギリ Nilgiri 7061m
ゴラパニのポーン・ヒルから遠望するニルギリの山容は黒々とした岩肌を屹立させて見る人を威圧する。ツロブギンから間近に仰ぐ山姿はさらに圧倒する鋭さをもって迫ってくるが、これらのアングルはすべて南峰(6839m)で、最高峰である北峰はその陰に隠されていて見ることができない。ここアルバリからは北峰、南峰に加えて中央峰(6940)が、左から右へ、ずらり並立する展望がある。タバ・パスを越えるのに、強風、寒気、ポーター・ストライキと三拍子そろった悪条件で、10日を要したときの1枚である。※12月上旬4×5判300RDSL
93 マチャプチャレ Machhapuchhare 6993m
ポカラ一帯から眺めるマチャプチャレは、アンナプルナ山群の中央にあって、7000mに満たない山とはとても思えない威容を誇っている。ここアンナプルナ内院上部4500mからのマチャプチャレは、その上に端麗さを加えて、世界の名峰の名に恥じない山容である。この山に登頂したのは、イギリスのノイスとコックスで、頂上から北に延びる稜線にルートをとり、悪天の中を、ついに初登頂を達成した。1957年6月2日である。地元民の信仰の山であるため、約束によって頂上直下50mで引き返したが、初登頂と見なされている。※10月下旬4×5判400E6SL
ほか
<ダウラギリ・ヒマール>
Dhaulagiri Himal
ダウラギリ・ヒマールと呼ばれる山群の範囲は、北方のバルブン・コーラ、東方のカリ・ガンダキ、南西のウッタール・ガンガ、西方はジャングラ・バンジャンとドルパタンを結ぶ線で囲まれた広大な地域である。山群の盟主ダウラギリ1峰の8167mを筆頭に、II峰一VI峰、チューレン・ヒマール、プタ・ヒウンチュリ、グルジャ・ヒマールなど、9つの7000m峰があり、6000に峰にいたっては20数峰がかぞえられる。ダウラギリⅠ峰とトゥクチエ・ピークをつなぎ北東・南西に延びる山稜、シータ・チュチュラからII峰以下の各峰とプタ・ヒウンチュリをつないで東西に走る山脈に大別され、この間を南-南東に向かって流下するツゥロ、ミャグディ、ドゥラ、南西から西に向かうカペ、ドガリなどの水系がある。
95 ダウラギリⅠ峰とトゥクチェ・ビーク DhaulagiriⅠ 8167m,Tukuche Peak 6920m
ゴラパニから北方へ、シャクナゲの密林を下っていくとプダレからチトレとなって、山々の展望が開ける。3番目の村はシカ・パラテ、そしてシカの村へと下りはなおもつづいていく。シカはパラテのほか、デオラリ、ウーポルロ、トロと冠する4つの集落で構成されていて、いずれの集落からもダウラギリ方面の展望が欲しいままにできる。ことにこのシカ・デオラリを前景にした辺りは思わず足を止めて眺め入るほどにすばらしい。山国ネパールの雰囲気を見事に、余すところなく表している。※11月中旬4×5240、RDPSL
ほか
<西ネパールの山々>
West Nepal
西ネパールで最も知られた山はアピ、ナンパ、サイパルである。最高峰はアピの7132mであり、第2位はサイパルの7031mである。第3位のカンジロバ、第4位のジェティボフラ二、第5位のボバイエとつづくが、アピとサイパル以外はみな6800m以上あるのに、第6位のナンパ(6754m)ほどにも知られていない。アピとナンパは最も西に位置し、次いでサイパル、カンジロバの順になるが、各山群の間は大きく離れている上、山群そのものもダウラギリ以東の各ヒマールに比べるとまことに小さい。しかし、アプローチははるかに長く、ルートも判然としない上、キャラバン出発地までの交通事情、食料事情も悪く、ポーターも少なく、質が悪い。西ネパールに入る人が少ないのはこうした事情によるのだろう。
108 アピ Api 7132m
チャムリア・コーラ沿いに高巻きやトラバース、渡橋を繰り返してグサ・マルマを過ぎる。グサから奥も上下がつづくが、道はやがてチャムリアの源流帯に下りる。通常なら2日で軽く行き着けるここパウレまでも、ラッセルと積雪に押し伏せられた竹の密叢や灌木帯の通過に時間をとられ、4日を要した。なにしろびっしりとルートをふさぐ竹や大人の太ももほどもある立木をククリ(山刀)で切り開いての行進なのである。初登頂は1960年春,同志社大学山岳会隊が北面からアタック、成功した。第2登はまだ成されていない。※2月上旬4×5400E6SL
ほか
【ネパール・ヒマラヤ取材記】より一部紹介
不便な交通事情
ネパール・ヒマラヤの全域撮影という、いま振り返ってみれば無謀にも思える計画を立てたのは、もう数年が過ぎたヨーロッパ・アルプス取材のときだった。広いといっても、たかが北海道の2倍程度の面積しかないネパールの国土、ヒマラヤはそのうちの一部ではないか、と考えたのがそもそものまちがいの始まりであった。ネパール14州のうち、北方チベットに境を接する10州にまたがるヒマラヤは、その州の数のまま10のゾーンに大別されているといってよく、ヨーロッパ・アルプスのように各山域を連結・連続して取材する、などということはとうていできない相談であった。
その最大のネックは交通である。ネパールの首都カトマンドゥから、第2の都ポカラとの間に車のかよう道路ができたのが5年足らず前、現在、各地で道路建設がさかんにおこなわれているとはいっても、日本や他の国々のような機械力にはよらず、すべて人力に頼るこの国の工事では、ネパール全土に車道が行き渡るのは、どう少なく見積もっても100年以上かかるだろうと思われるスローモーぶりである。したがって、取材はバス、ジープをでき得るかぎり利用し、あとは自分の足ということになるが、それが1回の取材を最低1ヵ月、長ければ2ヵ月を超える長期間の旅とする最大の原因であった。だが、そうした車を利用できる所でも、東部のカンチェンジュンガやマカルーは、そこからやっと山が見えるという場所までも15日以上、ベース・キャンプまでは20日間以上のキャラバンが必要とされるのである。(以下略)
【あとがき】
3年間にわたるネパール・ヒマラヤの撮影取材もどうやら無事に終わった。いくらスケジュールを立てても、最初のころはいつこのネパール行脚が終わるか五里霧中で、1年2年は延長も止むを得まいと考えていた。幸いにして何の事故もなく終了してみると、今度は意外と呆気なかったようにも思えるから不思議である。もっとも3年間といっても、実際は2年と6ヵ月の間に取材は終了し、そのうち、ネパール滞在は正味18ヵ月、560日足らずである。つまり1年半ネパールで暮らし、1年は日本にいたことになる。だが、その間、日本での入山日数を加算すると自宅にいたのはたった9ヵ月ばかりに減ってしまう。いきおい時間が足らなくなり、時間に追われることになったため、あっという間に過ぎてしまったと感ずるのだろう。それにしても、ネパールの東から西のはずれまで、くまなくとまではいえないまでも、そのほとんどを自分の足で歩きとおすことができたのはまたとない体験となった。どうしても入ることのできない地域もあったが、それはネパールの内政事情によるもので、そうした地域が、ヒマラヤとあまり関係ない場所であったことも好運であった。シッキムと境を接するカンチェンジュンガ山域から、ガルワールに至るアピ山域まで、グレート・ヒマラヤの谷に沿い、尾根を越え、縦横に歩いた距離は、およそ12000kmにも達するもので、これはネパールの首都カトマンドゥから東京を直線で結んだ距離の約2倍に相当する。その間、標高200mのテライの平野から6000m以上の高地までは必ず数回の峠越えがあり、折角かせいだ高度をアッという間に失い、また最初から出直しとなるのがキャラバンの通例であった。キャラバンに雇用するポーターも少ないときで10人、多いときは50人にものぼった。シェルバも同様で、奥地に深く入る必要があればあるだけ食料や装備がかさみ、ポーターの数が増え、それを管理し、高所への荷上げのためにシェルパも多くなるのである。メンバー、リエゾン・オフィサー、シェルパ、キッチン、ポーターの合計で60人以上というときさえあった。こうした中で、カメラとフィルムの携行・運搬にもっとも気を遣わされた。フィルムは熱を加えないようにするため断熱材で梱包、休憩時は日陰に置くよう申し渡しても、監視のシェルパさえすぐに忘れてしまうし、これらの機材・フィルムを最優先で強いポーターに背負わせることさえままならなかった。スリップや転倒、休息時にカメラやフィルムがあやうく失われそうになったことも何度かあり、ガネッシュ南面での下山ではポーターがスリップして、フィルム・トランクが滝下に落ち、撮影済みフィルムが水に浸かったことさえあった。(以下略)