眠れる真珠と深海のクジラ:南船場、時を超える銀の魚
序章:午前三時の南船場と、終わらない覚醒
大阪、南船場。かつて繊維問屋街として栄えたこの街は、今やハイブランドのブティックと洗練されたカフェ、そして歴史ある建造物がモザイクのように入り混じる、独特の洗練された空気を纏っている。御堂筋から数本西へ入った静謐な通り。街灯が落とす影が濃くなる一角に、その店「ブランドクラブ南船場」はひっそりと、しかし確かな存在感を放って佇んでいた。
重厚な木の扉を開ければ、そこは外界の時間軸から切り離された異空間だ。ヨーロッパから海を渡ってきたアンティーク家具が鈍い光沢を放ち、磨き上げられたガラスケースの中では、主の訪れを待つ宝石たちが、それぞれの物語を秘めた静かな呼吸を繰り返している。
ジュエリーデザイナーの篠原莉奈(しのはら りな、29歳)にとって、この空間は職場であり、同時に逃げ場でもあった。そして最近では、彼女を蝕む「不眠」という名の怪物が待ち受ける、美しくも残酷な檻となっていた。
午前三時。莉奈は店の奥にあるアトリエスペースで、ただ一人、作業台に向かっていた。手元のデスクライトだけが点灯し、周囲の闇を際立たせている。彼女の眼下には真っ白なスケッチブックが広がっていたが、そこには一本の線さえ引かれていなかった。
「……また、描けない」
乾いた呟きが、静寂に吸い込まれる。ペンを握る指先は微かに震え、こめかみの奥では鈍い痛みが脈打っていた。
莉奈が深刻な不眠症に陥ってから、半年が過ぎようとしていた。布団に入り目を閉じると、昼間のプレッシャーや未来への不安が泥水のように意識に流れ込んでくる。ようやく浅い眠りに落ちたかと思えば、悪夢にうなされ、動悸と共に跳ね起きる。その繰り返しだった。睡眠不足は彼女の最大の武器であった創造性を枯渇させ、色彩感覚を狂わせ、世界を灰色のフィルター越しに見せていた。
彼女は藁にもすがる思いで、睡眠に関する学術論文や専門書を読み漁っていた。アトリエの隅には、付箋だらけの本が積み上げられている。
『睡眠と記憶の統合:レム睡眠中の扁桃体活性化の役割』
『慢性不眠症における認知行動療法と薬物療法の比較研究』
『概日リズムの乱れが創造的思考に及ぼす神経科学的影響』
活字は彼女に知識を与えたが、安らぎは与えてくれなかった。「交感神経の過緊張」「セロトニン不足」「視床下部-下垂体-副腎系(HPA軸)の機能不全」。自らの状態を医学用語で定義できても、この終わらない夜を終わらせるスイッチはどこにも見つからなかった。
そんな行き詰まった夜、莉奈は気晴らしに、オーナーの許可を得て、未整理の在庫が眠る古い金庫を開けた。重い扉が軋み、黴と埃、そして古い金属の匂いが混じり合った空気が流れ出す。奥底にあるベルベットのケースを一つ、無造作に取り出した。
ケースを開けた瞬間、莉奈の呼吸が止まった。
そこにいたのは、一匹の魚だった。
A1277。【Fish】。商品タグにはそう記されている。
全長75.0mm、幅22.0mm。手のひらに乗せればずしりと沈む、15.0gの重量感。しかし、数字の羅列などどうでもよくなるほどの圧倒的な「何か」が、そのブローチには宿っていた。
頭部は、19.0×13.8mmの巨大な南洋白蝶真珠。だが、それは百貨店に並ぶ真円の優等生ではない。歪み、うねり、銀色の光沢の中にピンクやグリーンの干渉色が複雑に混じり合う、規格外のバロックシェイプ。まるで深海で長い時をかけて凝縮された、生命の神秘そのもののような塊だった。その真珠には、一粒のダイヤモンドが涙のように、あるいは意志を持った瞳のように埋め込まれている。
そして圧巻なのは、その胴体だった。14金ホワイトゴールド(K14WG)の無垢材を用いながら、滑らかな流線型を拒絶するかのように、鋭角的な三角形や多角形が幾重にも重なり合い、複雑に入り組んだ透かし彫りを形成していた。それは砕け散った氷河のようであり、あるいは秩序への反逆を示す前衛的な建築物のようでもあった。
背ビレと腹ビレ、そして力強く跳ね上がった尾ヒレには、トータルで数十石に及ぶであろう、極上の天然ダイヤモンドがパヴェセッティングされている。無骨なボディとは対照的な、冷たく洗練された輝き。
「美しい……でも、痛い」
莉奈の口から、思わずそんな言葉が漏れた。その魚は、美しかったが、同時に傷ついているようにも見えた。完璧な真円になれなかった真珠、砕かれた体。しかし、それでもなお泳ぐことをやめない、悲壮なまでの生命力。
それは、今の莉奈自身の姿に重なった。デザイナーとして完璧を求められながら、その重圧に押し潰され、形を失いかけている自分。
莉奈はそのブローチを両手で包み込んだ。真珠の冷たさと、ホワイトゴールドの硬質な感触が掌に伝わる。その時、奇妙な感覚が彼女を襲った。ブローチから、電流のような微かな痺れが走り、心臓の鼓動とシンクロしたのだ。
強烈な眠気が、突如として莉奈を襲った。半年間、あれほど焦がれても訪れなかった深い闇が、抗いがたい力で彼女を引きずり込んでいく。莉奈は作業台に突っ伏した。手の中の魚を、固く握りしめたまま。
それが、長く奇妙な「時間旅行(タイムスリップ)」の始まりだった。
第一章:昭和の幻影と深海の記憶
目を開けると、そこは南船場のアトリエではなかった。
鼻をつくのは、金属を溶かすフラックスの刺激臭と、松脂の匂い。耳に届くのは、カンカンカン、というリズミカルな金槌の音と、ラジオから流れるノイズ混じりの歌謡曲。窓の外の景色はセピア色帯びており、行き交う人々の服装も、走る自動車の形も、明らかに現代のものではなかった。
(ここは……どこ? 昭和?)
莉奈は混乱したが、自身の体は透明な意識体のように、その空間に漂っていた。誰も莉奈の存在には気づかない。
目の前の作業机に、一人の若い女性が座っていた。黒髪を無造作に束ね、真剣な眼差しで手元の金属板に向かっている。彼女の手には、タガネと小さな金槌が握られていた。彼女が削り出しているのは、紛れもなくあの【Fish】の胴体部分、あの複雑な幾何学模様の透かし彫りだった。
女性の名前は「江美(えみ)」といった。夢の中の莉奈には、なぜか彼女の名前や感情が、自分のもののように直接流れ込んできた。
江美は焦っていた。そして、怒っていた。
『こんな古いデザインじゃダメ。もっと新しい、魂を揺さぶるようなものを作らなきゃ』
江美の心の声が聞こえる。彼女の周囲にあるデザイン画には、当時の主流であった花やリボンを模した、優美で対称的なジュエリーが描かれていた。しかし、彼女が今まさに生み出そうとしているのは、それらを否定するような、攻撃的でアシンメトリーな造形だった。
作業場の扉が開き、背広を着た男性が入ってきた。江美の婚約者、商社マンの隆(たかし)だ。
「江美、まだそんなことをしているのか。もう夜中だぞ」
「隆さん……。もう少しなの。このラインが、どうしても納得いかなくて」
隆は、江美の手元を覗き込み、眉をひそめた。
「なんだい、これは。魚? ずいぶんゴツゴツして、可愛げのないデザインだな。こんな奇抜なもの、誰が着けるんだ? お得意様の奥様方は、もっと上品なものを求めているんだよ」
隆の言葉は、正論だった。この時代、ジュエリーは富とステータスの象徴であり、女性らしさを強調するための装飾品だった。江美の前衛的な感性は、異端でしかなかった。
「これは、ただの飾りじゃないの。私の……私の叫びなのよ」
「叫び? 芸術家気取りはやめてくれ。君には、僕と結婚して、穏やかな家庭を守ってほしい。こんな油臭い場所で、男みたいな仕事をしてほしくないんだ」
隆の言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって江美の心を抉る。莉奈は、江美の胸の痛みをリアルに感じ、息苦しくなった。愛する人に理解されない孤独。社会の枠組みからはみ出してしまう恐怖。それでも湧き上がる創造への衝動。
江美は反論しなかった。ただ、唇を噛み締め、作業台の下で拳を握りしめた。彼女の視線の先には、まだ台座にはめ込まれていない、歪な形の巨大なバロックパールが転がっていた。
『私とお前は似ているわね。規格外のはみ出し者。でも、誰よりも美しい輝きを秘めている』
江美がパールにそっと触れる。その瞬間、視界が歪み、莉奈の意識は急速に浮上した。
「ハッ……!」
莉奈は、ブランドクラブのアトリエで跳ね起きた。全身が冷や汗で濡れている。時計を見ると、朝の7時を過ぎていた。4時間以上、一度も目覚めることなく眠っていたことになる。半年ぶりの深い睡眠。しかし、目覚めは爽快とは程遠かった。江美の悲しみと憤りが、莉奈の心に重く澱(おり)のように残っていた。
手の中のブローチを見る。あの魚は、夢の中と同じ姿で、静かに輝いていた。あれは単なる夢ではない。このブローチに刻み込まれた「記憶」を、莉奈の脳が再生したのだとしか思えなかった。
最新の脳科学では、記憶は単なる情報の蓄積ではなく、感情と結びついた神経回路のパターンとして保存されると考えられている。特に強烈な情動を伴う記憶は、扁桃体と海馬の強固なネットワークによって焼き付けられる。もし、物質に残留思念のようなものが宿るというオカルト的な仮説が、未知の物理法則によって説明できるとしたら? このブローチは、江美という女性の強烈な情念を記録した外部ストレージであり、莉奈の睡眠不足で過敏になった脳が、そのデータの再生装置となってしまったのではないか。
その日から、莉奈の二重生活が始まった。昼間は現代の南船場でジュエリーと向き合い、夜になりブローチを傍らに眠ると、昭和の江美の人生を追体験する。
夢の中の江美は、孤立を深めていった。彼女の【Fish】は、当時の展覧会に出品されたが、「醜悪」「宝飾品の品位を落とす」と酷評された。隆との関係も冷え切り、婚約は破棄された。
『誰も分かってくれないなら、それでいい。この魚は、私自身。どんなに傷ついても、私は私の海を泳ぐ』
完成したブローチを胸に、鏡の前で涙を流す江美。その涙の味まで、莉奈は知っていた。江美の苦悩は、スランプに陥った莉奈自身の苦悩と共鳴し、増幅されていく。莉奈の不眠は、質を変えて悪化した。眠れるようにはなったが、それは休息ではなく、他人の人生の重荷を背負う苦行の時間だった。莉奈の頬はこけ、目の下のクマは濃くなり、精神は限界に近づいていた。
第二章:現代のクジラと静かなる職人
「莉奈さん、顔色、やばいですよ。ちゃんと寝てます? というか、なんか憑かれてません?」
遠慮のない言葉を投げかけてきたのは、ブランドクラブのアルバイト、海斗(かいと、21歳)だった。大学で情報工学を専攻する彼は、ヴィンテージの知識は皆無だが、デジタルネイティブとしての鋭い感性と、物怖じしない性格で店に新しい風を吹き込んでいた。
「……憑かれてる、かもね。毎晩、昔のデザイナーの夢を見るの。このブローチを作った人の」
莉奈は疲れ切った声で、江美のこと、夢の内容を海斗に話した。普通なら笑い飛ばされるような話だが、海斗は真剣な表情で聞き入った。
「へえ、残留思念の再生か。面白いですね。人間の脳波と特定の周波数がリンクしたのかな。そのブローチ、とんでもない情報密度の『レコード』ってわけだ」
海斗はスマホを取り出し、何やら検索を始めた。
「莉奈さん、このブローチのスペック、半端ないですよ。このサイズのバロックパールに、これだけの細工とダイヤ。当時としても破格の価値だったはずです。それを作れた江美さんって人、ただの職人じゃない。パトロンがいたか、彼女自身が資産家だったか」
「資産家……」
「ええ。現代で言うところの『クジラ』ですよ」
「クジラ?」
「ビットコインの世界の用語です。市場価格を左右するほど大量のコインを保有する大口投資家のこと。彼らは海の底深くに潜んでいて、めったに姿を現さない。でも、彼らが動くと、市場に巨大な波が起きる。そのブローチは、昭和のジュエリー界のクジラが遺した、渾身のドロップ(投下)だったのかもしれませんね」
海斗の言葉は、莉奈の心に奇妙なリアリティを持って響いた。深海のクジラ。巨大で、孤独で、強大な力を持つ存在。それは、社会の深層で誰にも理解されずに藻掻いていた江美の姿と重なる。
「クジラ、か。言い得て妙だな」
ふいに背後から落ち着いた声がした。店の専属職人、葛西聡(かさい さとし、42歳)だった。
聡は、口数の少ない男だった。黙々と修理や加工作業をこなし、その技術は確かで、オーナーの洋子からも絶対の信頼を置かれている。常に冷静沈着で、感情の起伏を見せない彼が、海斗の話に興味を示したことに莉奈は驚いた。
聡は莉奈の手にあるブローチを手に取り、ルーペを目に当てた。
「……すごいな。この透かしの断面、全て手作業でヤスリがけされている。糸鋸(いとのこ)だけでこの鋭角を出すのは、狂気じみた技術と執念が必要だ。今のキャスト(鋳造)製法じゃ、この『エッジの鋭さ』と『冷たさ』は出せない」
職人としての聡の言葉が、夢の中の江美の情熱を裏付けた。
「莉奈さん、このブローチをクリーニングさせてもらってもいいかな。少し、気になることがある」
聡の申し出を、莉奈は承諾した。数日後、アトリエに呼ばれた莉奈は、聡から顕微鏡を覗くように促された。
「尾ヒレの裏、ダイヤの石座の隙間を見てくれ」
言われた場所を覗き込む。倍率を上げ、光を調節する。複雑に入り組んだホワイトゴールドの谷間に、肉眼では傷にしか見えない微細な刻印が浮かび上がった。
『E. Y. to Future』
「E. Y. ……江美、ヤマモト?」
夢の中で隆が彼女を「山本君」と呼んでいたのを思い出した。そして、「to Future(未来へ)」。
鳥肌が立った。江美は、同時代の人々に理解されることを諦めていた。彼女はこのブローチを、遥か未来の、自分の感性を理解してくれる誰かに向けて作っていたのだ。それは、時を超えたメッセージボトル。
「彼女は、未来を見ていたんだな」
聡の声が、珍しく熱を帯びていた。
「僕も、少し似たようなものを見ているから、分かる気がする」
「聡さんが?」
聡は少し躊躇った後、静かに語り始めた。
「海斗君がさっき言っていた『クジラ』。……実は、僕の亡くなった父がそうだったんだ」
驚愕の事実だった。聡の父は、町工場を営む平凡な技術者だと思われていた。しかし彼は、ビットコインがまだ「インターネット上の怪しいおもちゃ」扱いされていた黎明期に、その暗号技術と分散型台帳の哲学に未来を見出し、密かに退職金をつぎ込んでいたのだという。
「父は言っていた。『今の世の中で価値がないとされているものの中にこそ、本当の未来が眠っている』と。父が遺したハードウェアウォレットには、今や莫大な価値になったビットコインが眠っている。僕はそれを、ただ持っているだけだ。父のように未来を見通す目も、使う勇気もない。ただの臆病なクジラの番人さ」
自嘲気味に笑う聡。しかし莉奈は、彼の中に江美と通じる「本質を見抜く目」を感じていた。彼は江美の技術の凄さを一目で見抜き、そのメッセージを受け取った。
「聡さんは臆病じゃありません。このブローチの真価を、誰よりも理解してくれた」
莉奈の言葉に、聡は少し驚いたように顔を上げ、そして穏やかに微笑んだ。その笑顔に、莉奈の凍り付いていた心が少しだけ解けるのを感じた。
江美の孤独な魂(ブローチ)、海斗の現代的な解釈(クジラ)、そして聡の秘められた力(ビットコイン)。バラバラだったピースが、南船場のこの店で、奇妙な引力によって引き寄せられ始めていた。
第三章:明かされる真実と姉妹の絆
刻印の発見は、事態を急展開させた。莉奈は意を決して、オーナーの橘洋子(たちばな ようこ、68歳)にブローチと刻印を見せ、自身の夢について全てを打ち明けた。
いつも上品な微笑みを絶やさない洋子の表情が、みるみるうちに崩れていった。彼女は震える手でブローチを受け取ると、愛おしそうに、そして悲しそうに、真珠の頭を撫でた。
「……まさか、莉奈さんが江美姉さんの声を聞くなんて」
「お姉さん……?」
「ええ。山本江美は、私の十歳上の姉です。この店は元々、姉のアトリエだった場所なのよ」
洋子の口から語られた真実は、あまりにも切ないものだった。
江美は、間違いなく天才だった。しかし、時代が早すぎた。婚約破棄の後、彼女は憑かれたように創作に没頭したが、社会からの拒絶は彼女の精神を蝕んでいった。そして、【Fish】を完成させた数ヶ月後、江美は海での事故で還らぬ人となった。自ら深海へ還ることを選んだのか、不慮の事故だったのか、今となっては誰にも分からない。
当時まだ学生だった洋子は、姉の才能を理解できず、彼女を追い詰めた家族や社会の一員であった自分を責め続けた。
「私は怖かったの。姉さんの情念がこもったこのブローチも、遺された数えきれないほどのデザイン画も。全部金庫の奥に封印して、見ないふりをして生きてきた。この店でアンティークを扱っているのも、過去の美しいものに囲まれていれば、姉さんの無念と向き合わずに済むと思ったから……」
洋子の目から涙が溢れ出し、頬を伝う。それは、半世紀近く封じ込められてきた後悔の涙だった。
「でも、姉さんは莉奈さんを選んだのね。同じデザイナーとして苦しむあなたに、このブローチを通じて何かを伝えたかったんだわ。『to Future』……私じゃなく、あなたという未来に」
その夜、洋子は一冊の古びたスケッチブックを莉奈に託した。
「お願い、莉奈さん。姉さんの夢を、見てあげて」
莉奈がアトリエでそのスケッチブックを開くと、そこには圧倒的な世界が広がっていた。有機的な曲線と幾何学模様が融合したリング、宇宙の星雲を模したネックレス、見たこともないカットの宝石を使ったオブジェ。どれもが今の時代にあっても斬新で、生命力に満ち溢れていた。
江美は、死んでいなかった。彼女の魂は、このスケッチブックの中で、鮮烈な輝きを放ちながら生き続けていたのだ。
ページをめくるたびに、莉奈の中にあった「描けない」というブロックが、音を立てて崩れていくのを感じた。江美の情熱が、莉奈の枯渇したクリエイティビティの泉に呼び水を注いだのだ。アイデアが、奔流となって溢れ出した。江美のデザインをベースに、莉奈の現代的な感性を融合させたらどうなるか? 新しい素材を使ったら?
莉奈は夢中でペンを走らせた。不眠の苦しみは、創造の喜びに変わっていた。気づけば朝が来ていたが、そこには疲労感ではなく、久しく忘れていた充実感があった。
第四章:プロジェクト「Re-Born」と三人の挑戦
「このデザインたちを、現代に蘇らせたいです。江美さんの復刻ではなく、令和の新しいジュエリーとして」
数日後、莉奈は洋子と聡、海斗の前で宣言した。彼女の手には、江美のスケッチを元に莉奈が再構築した、新しいコレクションのデザイン画が握られていた。
洋子は深く頷いた。「やりましょう。それが、姉への供養にもなるはず」
しかし、問題は資金だった。江美のデザインは、妥協のない最高級の素材と、超絶技巧の職人技を必要とする。今の店の体力では、コレクションを展開するだけの資金力はなかった。
沈黙が流れる中、聡が静かに手を挙げた。
「資金なら、僕が出します」
全員の視線が聡に集まる。
「父が遺したビットコインを使います。ずっと、使う意味を探していました。ただ換金して贅沢をするなんて、父も望んでいない。でも、江美さんの、時代に埋もれた『本物の価値』を未来に引き上げるためなら……これ以上相応しい使い道はない」
深海のクジラが、ついに動いたのだ。聡の決断は、プロジェクトに強力な推進力を与えた。
さらに、海斗が提案した。
「ただジュエリーを作って売るだけじゃ、昭和と同じです。江美さんの物語ごと、未来に残しましょう。NFTを使いましょう」
「NFT?」洋子が首を傾げる。
「江美さんのオリジナルのスケッチをデジタルデータ化して、ブロックチェーン上に『鑑定書』付きで記録するんです。ジュエリーの実物を購入した人に、そのデザインのNFTもセットで渡す。そうすれば、江美さんのデザインの所有権と真正性は、デジタル空間で永遠に保証されます。物質はいつか壊れるかもしれないけど、ブロックチェーン上のデータは消えない。本当の意味での『to Future』です」
アナログの極致である江美の魂、聡が提供する現代の錬金術(ビットコイン)による資金、そして海斗が構築する未来のテクノロジー(NFT)。三つの時代が交差し、プロジェクト「Re-Born(リ・ボーン)」が始動した。
アトリエは活気に包まれた。莉奈が描いた難解なデザインを、聡がその卓越した技術で立体に起こしていく。
「ここはもっとエッジを立てて。江美さんの痛みを感じるくらいに」
「そうすると強度が落ちる。裏からプラチナで補強を入れよう。美しさと耐久性、両立させなきゃ未来には残らない」
二人は時にぶつかり合いながらも、互いの才能を深くリスペクトしていた。共に一つのものを創り上げる過程で、莉奈と聡の間には、言葉を超えた信頼と、静かな愛情が育まれていった。不眠の夜に孤独に耐えていた莉奈の隣には、今、頼もしいパートナーがいる。聡もまた、過去の遺産を守るだけの「番人」から、未来を創る「クリエイター」へと変貌を遂げていた。
「莉奈さん、最近よく笑うようになりましたね」
作業の合間、聡がコーヒーを差し出しながら言った。
「聡さんのおかげです。私、一人じゃ潰れてた。江美さんの夢に押し潰されて……。でも今は、彼女と一緒に走ってる気がするんです」
「僕もだ。君が、父の遺したコインに意味を与えてくれた。……ありがとう」
二人の視線が交わり、穏やかな時間が流れる。その様子を、洋子は遠くから温かい目で見守っていた。
終章:銀の魚が泳ぐ未来へ
そして迎えた、コレクション「Re-Born」の発表会。
ブランドクラブ南船場は、かつてない輝きに満ちていた。ショーケースには、【Fish】を筆頭に、江美のスケッチから生まれ変わったジュエリーたちが並ぶ。バロックパールと幾何学模様を組み合わせたネックレスは「混沌からの誕生」を、鋭角的なダイヤモンドのリングは「意志の閃光」を表現していた。それらは、昭和の怨念ではなく、令和の希望を纏って輝いていた。
会場には、招待された顧客、メディア関係者、そして海斗の仕掛けたSNSでのプロモーションを見て集まった若い世代まで、多くの人々が詰めかけた。
スクリーンには、江美のオリジナルのスケッチと、それがNFT化されるプロセスが映し出される。海斗がマイクを握り、情熱的に解説する。
「これは単なるジュエリーではありません。半世紀前に不遇の死を遂げた天才デザイナーの魂を、最新のテクノロジーで永遠の存在へと昇華させる試みです。過去の『クジラ』の夢を、現代の『クジラ』が叶え、皆さんがその証人となるのです!」
物語のあるジュエリーは、人々の心を強く打った。作品は次々と成約し、NFTへの関心も高かった。
発表会のクライマックス。洋子が壇上に立ち、震える声で挨拶をした。
「姉は、孤独でした。でも、姉の作った『魚』は、時という海を泳ぎ切り、莉奈さんという岸辺に辿り着きました。そして、聡さん、海斗くんという素晴らしい仲間と出会い、今日、こうして皆様の心という海へ泳ぎ出していきます。……姉さん、聞こえてる? あなたの未来は、こんなに明るいのよ」
会場は温かい拍手と、感動の涙に包まれた。
その夜、パーティーが終わった静かな店内で、莉奈は聡と二人、窓辺に立っていた。
莉奈の胸元には、あの【Fish】が飾られている。今やそれは、彼女を苦しめる呪いのアイテムではない。困難を乗り越える力と、時代を超える美しさの象徴として、莉奈を守るように輝いていた。
「終わったな、いや、始まりか」
聡が安堵の息をつく。
「はい。……私、昨日はぐっすり眠れたんです。夢も見ずに、朝まで」
「それはよかった。江美さんも、安心して成仏したのかな」
「ううん、きっとまだそこにいますよ。次はどんなデザインを描こうかって、私の頭の中でワクワクしてる気がする」
莉奈は悪戯っぽく笑った。不眠のトンネルを抜けた彼女の顔は、以前よりずっと強く、美しかった。
「莉奈さん」
聡が莉奈の方へ向き直る。その真剣な眼差しに、莉奈の鼓動が少し早くなる。
「これからも、君の描くデザインを、僕に形にさせてほしい。……公私ともに、ずっと隣で」
不器用だが、誠実なプロポーズだった。莉奈の目から、温かいものが溢れ出す。
「……はい。喜んで。私の最高のクジラさん」
聡は優しく莉奈を抱き寄せた。南船場の街並みを、令和の月が優しく照らしている。
ショーケースの中では、他のジュエリーたちが二人を祝福するように瞬いていた。そして、莉奈の胸元のバロックパールの魚もまた、その歪な、しかし唯一無二の瞳で、二人の幸せな未来を静かに見つめていた。
深い睡眠は、明日への活力を生む。過去の痛みは、未来への輝きに変わる。南船場の片隅で起きた小さな奇跡の物語は、デジタルの海と人の心の海を繋ぎながら、これからも永遠に語り継がれていくのだろう。
(完)