以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
タイトル：プラチナの鎖、湯気の向こうの絆
第一章：鈍色の輝きと、寂れた心の影
梅雨入りを間近に控えた大阪の空は、まるで薄墨を流したようにどんよりと重く垂れ込めていた。心斎橋筋商店街の喧騒も、どこか湿り気を帯びて遠くに聞こえる。そんな中、古美術商やアンティークショップが軒を連ねる、少し寂れた路地裏に、高橋美咲（みさき）は吸い寄せられるように足を踏み入れた。三十歳を目前にして、勤めていたデザイン事務所が倒産し、恋人とも別れたばかり。未来への展望は、この空模様のように晴れる兆しが見えなかった。
ふと、一軒の古びたショーウィンドウに目が留まる。埃をかぶった調度品の中に、黒いベルベットのネックトルソーにかけられた一本のネックレスが、鈍いながらも確かな存在感を放っていた。それはプラチナ製の喜平ネックレス。W6面カットと記されたそれは、緻密な編み込みが光を複雑に反射させ、まるで生きているかのように滑らかな曲線を描いていた。添えられた小さなカードには、「F4003 SEIKO Pt850 W6面喜平 40cm 41.4G 5.49mm ユニセックス 造幣局マーク有」とあった。
「……綺麗」
思わず呟いた声は、誰に聞かれるでもなく雨音に混じって消えた。そのネックレスは、美咲がこれまで身に着けてきた華奢なアクセサリーとは全く異なる、重厚で潔いまでのシンプルさを持っていた。41.4グラムという重さは、手に取らずともその存在感を想像させ、5.49ミリという幅は、男性にも女性にも似合う絶妙なバランスを感じさせた。SEIKOという信頼のブランド名と造幣局のマークが、その確かな価値を物語っている。
店主は奥で何やら作業をしているのか、美咲の存在には気づいていないようだった。しばらくその輝きに見入っていた美咲の胸に、ふと一つの考えが浮かぶ。「これを身に着けたら、何か変われるだろうか」。今の自分にはない強さ、揺るがない自信。そんなものを、このプラチナの鎖が与えてくれるような気がしたのだ。衝動的に店に入り、震える声でそれを指さした。退職金の一部と、なけなしの貯金をはたいて、美咲はそのネックレスを手に入れた。
ずしりとした重みが心地よかった。ひんやりとしたプラチナの感触が首筋に馴染む。鏡に映る自分の姿は、いつもより少しだけ輪郭がはっきりして見えた。だが、ネックレスを手に入れた高揚感も束の間、美咲の心は再び重たい雲に覆われる。これで何かが変わるわけではない。仕事も恋も失った現実は変わらないのだ。
その夜、美咲は古いアパートの一室で、ネックレスを握りしめながら泣いた。亡くなった祖母のことを思い出していた。祖母はいつも、「美咲は強い子や。大丈夫」と言ってくれた。しかし、今の自分はあまりにも弱い。その祖母が、生前よく口にしていた場所があった。「アムザのサウナはええで。心が洗われるようや」。祖母はミナミで小さな居酒屋を営んでおり、仕事終わりによくアムザの湯に浸かっていたという。
「アムザ……」
呟きながら、美咲はスマートホンで検索した。大阪ミナミ、千日前。カプセルホテルに併設された、都市型スパ施設。特に温冷浴が有名で、多くのサウナ愛好家を魅了しているという。温かい湯と冷たい水風呂に交互に入ることで、自律神経が整い、心身ともにリフレッシュできるらしい。
「心が、洗われる……」
今の自分に必要なのは、まさにそれかもしれない。ネックレスが与えてくれたのは、一瞬の勇気。その勇気を頼りに、美咲はアムザへ行ってみようと決意した。プラチナの冷たさとは対照的な、湯の温もりが、凍てついた心を溶かしてくれるかもしれない。首には、あの喜平ネックレス。それはまるで、未知の世界へ踏み出すための、ささやかなお守りのようだった。
翌日、梅雨の晴れ間が広がった。日差しはまだ弱々しいが、昨日までの陰鬱な雰囲気はない。美咲は少しだけ軽くなった心で、ミナミ行きの電車に乗り込んだ。ネックレスの重みが、不思議と背中を押してくれているような気がした。ザワザワとした期待と、ほんの少しの不安を胸に、アムザの看板が掲げられたビルを見上げる。ここが、祖母の愛した場所。そして、自分が何かを見つけられるかもしれない場所。美咲は深呼吸を一つして、自動ドアの向こうへと足を踏み入れた。受付で渡されたロッカーキーを握りしめ、浴室へと続く長い廊下を歩きながら、首元のプラチナが放つ微かな輝きを意識する。それは、まるで道しるべのように、美咲を新たな体験へと導いているかのようだった。このネックレスが、これからどんな物語を紡ぎ出すのか、美咲自身もまだ知らない。ただ、確かな重みだけが、現実としてそこにあった。
第二章：湯けむりの邂逅と、過去からの呼び声
アムザの浴室は、想像していたよりも広く、清潔感に溢れていた。様々な種類の浴槽が並び、奥にはサウナ室の扉が見える。平日の昼間だというのに、思いのほか多くの人々が思い思いに湯を楽しんでいた。美咲はまず、身体を洗い清め、メインの大きな浴槽に肩まで浸かった。じわりと広がる温かさが、強張っていた筋肉を解きほぐしていく。日々の喧騒や不安が、湯気と共に立ち昇って消えていくような感覚だった。
しばらくして、美咲は意を決してサウナ室の扉を開けた。むわりとした熱気と共に、木の香りが鼻をくすぐる。薄暗い室内には、数人の男たちが静かに汗を流していた。女性専用のフロアもあるのだろうが、祖母が通っていたのはおそらくこちらの大浴場だろうと、美咲は勝手に想像していた。ユニセックスな喜平ネックレスをしているせいか、あるいはこの場所の自由な雰囲気か、男性ばかりの空間でも不思議と気詰まりは感じなかった。
テレビの音が微かに流れる中、美咲は一番下の段に腰を下ろす。じっとりと汗が滲み出てくる。最初は息苦しさも感じたが、次第にそれが心地よさに変わっていった。数分後、サウナ室を出て、掛け湯で汗を流し、いよいよ水風呂へ。
「ひゃっ……！」
思わず声が出そうになるほどの冷たさ。だが、それも一瞬。すぐに全身が引き締まるような爽快感に包まれた。手足の先がジンジンとする。1分ほどで水風呂から上がり、休憩用の椅子に腰を下ろすと、噂に聞いていた「ととのう」という感覚が、ふわりと美咲を包み込んだ。頭が空っぽになり、身体が軽く浮き上がるような、何とも言えない多幸感。
「これが……アムザの温冷浴……」
祖母が愛した理由が、少しだけ分かった気がした。日々の疲れやストレスを洗い流し、明日への活力を得る。まさに「心が洗われる」体験だった。何度かサウナと水風呂、休憩を繰り返すうちに、美咲の心は驚くほど穏やかになっていた。
休憩スペースで冷たい水を飲んでいると、不意に隣に座った初老の男性に声をかけられた。白髪混じりの短髪に、日に焼けた精悍な顔つき。どこか職人のような雰囲気を漂わせている。
「ええネックレスしてはりますな。プラチナの喜平、しかもW6面カット。ええ品物や」
男性は、美咲の首元に目を留めていた。その視線は詮索するようなものではなく、純粋に良いものを見つけたという職人の目だった。
「あ、ありがとうございます。昨日、手に入れたばかりなんです」
「ほう。SEIKOの刻印と造幣局のマークもちゃんと入ってる。間違いのない逸品や。そういうもんは、人から人へと渡っていくうちに、いろんな物語を吸い込んでいくもんですわ」
男性はそう言うと、にこりと笑った。その言葉に、美咲はハッとする。このネックレスにも、何か物語があるのだろうか。自分が手に入れる前に、誰がどんな思いでこれを身に着けていたのだろうか。
「わしはな、若い頃、彫金の職人をやっとったんです。貴金属にはちょっとうるさいんでっせ」と男性は続けた。「そのネックレス、大事にしなはれ。プラチナは変色せんし、傷もつきにくい。持ち主の人生に、ずっと寄り添ってくれるはずや」
男性はそれだけ言うと、「ほな、もうひとっ風呂浴びてくるわ」と立ち去った。名前も知らない男性との短い会話だったが、美咲の心には深く刻まれた。ネックレスが「物語を吸い込む」という言葉が、妙に胸に残ったのだ。
その日の帰り道、美咲はスマートホンで再びネックレスについて調べてみた。「F4003 SEIKO Pt850 W6面喜平」。何か情報はないだろうか。すると、古いオークションサイトの履歴に、同じ型番と思われるネックレスの出品情報を見つけた。出品者はハンドルネームで、詳細は不明だったが、商品説明に「父の形見ですが、私には似合わないため、大切にしてくださる方にお譲りします」と書かれていた。出品時期は数年前。もしかしたら、美咲が手に入れたネックレスも、誰かの大切な形見だったのかもしれない。
そう思うと、首元のネックレスが、ただの装飾品ではなく、もっと重みのあるものに感じられた。誰かの思いが込められたもの。それを自分が受け継いだのだと。美咲は無意識のうちにネックレスを握りしめていた。その冷たい感触の中に、微かな温もりを感じたような気がした。
アムザで出会った男性の言葉と、ネットで見つけた情報。それらが、美咲の中でゆっくりと繋がり始めていた。このネックレスは、単なる衝動買いの品ではなく、何か意味があって自分の元へ来たのではないだろうか。そう思い始めると、失っていた未来への希望が、ほんの少しだけ、心の隅に灯ったような気がした。美咲は、このネックレスの「物語」をもっと知りたいと思った。そして、自分自身の新たな物語を、このネックレスと共に紡いでいきたい、と。アムザの湯で洗い流された心は、新しい何かを受け入れる準備ができたのかもしれない。
第三章：交錯する想いと、アムザの静寂
ネックレスの過去に思いを馳せるようになった美咲は、手に入れた古美術店を再び訪ねてみることにした。あの店主なら、何か知っているかもしれない。しかし、店は閉まっており、「しばらく休業します」という張り紙が寂しげに揺れていた。手がかりは途絶えたかに思えた。
失意の中、美咲は再びアムザを訪れた。あの温冷浴の爽快感と、その後の深いリラックス感が忘れられなかったのだ。サウナ室でじっくりと汗を流し、水風呂で身体を引き締め、休憩椅子で深く息を吐く。繰り返されるそのサイクルの中で、思考はクリアになり、絡まっていた感情が少しずつ解けていくのを感じた。
そんなある日、アムザの休憩スペースで、美咲は見覚えのある女性の姿を見つけた。大学時代の同級生、桐島沙織（きりしまさおり）だった。沙織は大手広告代理店に勤め、華やかな世界で活躍していると聞いていた。まさかこんな場所で再会するとは思ってもみなかった。
「美咲……？高橋美咲よね？」
「沙織！久しぶり。ここで会うなんてびっくり」
二人は積もる話に花を咲かせた。美咲は正直に、仕事も恋人も失い、今は少し休んでいることを打ち明けた。沙織は驚いた顔をしたが、すぐに励ますように言った。
「大丈夫よ、美咲なら。それにしても、そのネックレス素敵ね。プラチナ？ずいぶんしっかりしたデザイン」
「うん、最近手に入れたの。SEIKOの喜平で…」
美咲がネックレスの由来を話し始めると、沙織の表情がふと曇ったのに気づいた。
「そのネックレス…もしかして、留め具のところに小さな桜の刻印があったりしない？」
「え？桜…？」
美咲は慌ててネックレスを外し、留め具を確かめた。確かに、造幣局のホールマークとは別に、ごく小さな、意匠化された桜の花びらのような刻印が施されている。今まで全く気づかなかった。
「これのこと？どうして知ってるの？」
沙織は少し言い淀んだ後、重い口を開いた。「それ…うちの父が昔、母のために特注で作ったものかもしれないの。父は時計や宝飾のデザインをする人で、SEIKOとも繋がりがあったから…。母は数年前に亡くなったんだけど、そのネックレスは母が一番大切にしていたものだったはず。でも、いつの間にか家から無くなっていて…父も私も、ずっと探していたの」
衝撃的な事実に、美咲は言葉を失った。自分が衝動買いしたネックレスが、沙織の亡き母親の形見で、しかも家族が探し続けていたものだったなんて。
「ご、ごめんなさい…私、そんなこととは知らずに…」
「ううん、美咲が謝ることじゃないわ。どこで手に入れたの？」
美咲は古美術店のことを話した。沙織は眉をひそめた。
「おかしいわね…父は絶対に手放すはずがないもの。それに、母の形見を売るなんて考えられない。何か事情があったのかしら…」
沙織の話によると、父親の桐島宗佑（そうすけ）は、妻を亡くしてから気力を失い、少し認知症の症状も出始めていたという。もしかしたら、誰かに騙されて手放してしまったか、あるいは本人が無意識のうちにどこかへやってしまった可能性も考えられた。
「一度、父に会って、このネックレスを見てもらえないかしら。もし本当に母のものなら…返してほしいなんて言わない。ただ、どういう経緯で美咲の手に渡ったのか、父から何か聞けるかもしれないし…」沙織は懇願するような目で美咲を見た。
美咲の心は複雑に揺れた。ようやく手に入れた、自分を支えてくれるような気がしていたネックレス。しかし、それが沙織たち家族にとって、かけがえのない思い出の品だとしたら…。アムザの静寂の中で、美咲は深く考え込んだ。あの彫金職人だったという初老の男性の言葉が蘇る。「そういうもんは、人から人へと渡っていくうちに、いろんな物語を吸い込んでいく」。このネックレスは、桐島家の物語を吸い込み、そして今、美咲の元へと流れ着いたのだ。
「わかったわ、沙織。お父様に会ってみる。もし、本当にお母様の形見なら…私、お返しするつもりよ」
「美咲…ありがとう」沙織の目に涙が浮かんだ。
約束の日、美咲は沙織と共に、桐島宗佑の住む郊外の家を訪れた。庭の手入れが行き届いた、立派な日本家屋。しかし、家の中はどこか活気がなく、時が止まったような空気が漂っていた。宗佑は、リビングのソファに静かに座っていた。以前はきっと精悍だったであろう面影を残しているが、今はどこか遠くを見つめているような、虚ろな表情をしていた。
「お父さん、高橋美咲さん。私の大学の友人なの」沙織が紹介すると、宗佑はゆっくりと美咲に視線を向けた。
美咲は緊張しながら、首からネックレスを外し、宗佑の前に差し出した。
「桐島さん…このネックレスに、見覚えはありませんか？」
宗佑は、震える手でネックレスを受け取った。そのプラチナの輝きをじっと見つめ、指先でW6面カットの滑らかな感触を確かめるように撫でた。そして、留め具の小さな桜の刻印に気づくと、その目が微かに見開かれた。彼の唇が、何かを呟くように小さく動いた。その瞬間、止まっていた彼の時間も、動き出すかのように見えた。
第四章：桜の刻印、解ける心の氷
桐島宗佑は、ネックレスを手に取ったまま、しばらく黙り込んでいた。その表情は、驚きと懐かしさ、そして深い悲しみが入り混じっているように見えた。美咲と沙織は、固唾を飲んで彼の言葉を待った。やがて、宗佑はゆっくりと顔を上げ、掠れた声で話し始めた。
「これは……これは、妻の……明子（あきこ）のネックレスだ……」
その言葉は、確信に満ちていた。沙織の目に再び涙が滲む。
「やっぱり……お母さんの……」
宗佑は、ネックレスを胸に抱きしめるようにして、遠い昔を懐かしむように語り始めた。
「これは、結婚20周年の記念に、私がデザインしてSEIKOの職人に特注で作ってもらったものなんだ。明子は派手なものが好きではなかったから、プラチナのシンプルな喜平を選んだ。でも、ただの喜平ではつまらないから、留め具のところに、彼女が好きだった桜の花を、こっそり刻んでもらったんだ。世界に一つだけの、私たちの桜だ」
宗佑の目にも、うっすらと涙が光っていた。認知症の症状で記憶が曖昧になっている部分もあると聞いていたが、このネックレスに関する記憶は鮮明なようだった。それは、妻への深い愛情の証そのものだったからだろう。
「でも、お父さん、どうしてこれが家から無くなっていたの？誰かに売ったりしたの？」沙織が尋ねる。
宗佑は首を横に振った。「売るなんて……とんでもない。明子の形見を手放すことなど、考えられん。だが……正直に言うと、いつ、どうやって無くなったのか、記憶が定かではないんだ。明子が亡くなってから、私は……少し、おかしくなってしまっていたのかもしれない」
彼の言葉からは、妻を失った深い喪失感と、それによる混乱が痛いほど伝わってきた。もしかしたら、何かの拍子に紛失してしまったのか、あるいは、誰かが持ち出したのか。しかし、宗佑自身には、その経緯を思い出せないようだった。
美咲は、そっと口を開いた。「桐島さん、このネックレスは、私が心斎橋の古美術店で見つけました。お店の人は、誰かから買い取ったと言っていましたが……」
その時、沙織がハッとしたように言った。「古美術店……そういえば、父が亡き母の遺品を整理していた時、古い着物や骨董品と一緒に、いくつかの宝飾品もまとめて査定に出したことがあったかもしれないわ。その中に、これも紛れ込んでいたのかも……父はもう、どれが大切なものか、判断がつかなくなっていたのかもしれない」
宗佑は、沙織の言葉に力なく頷いた。「そうかもしれん……私が、明子の大切なものを……」彼の顔が苦痛に歪む。
美咲は、その姿を見ていられなかった。このネックレスは、確かに桐島家にとってかけがえのない品だ。しかし、今の宗佑にとっては、自らを責める材料になってしまっている。
「桐島さん」美咲は、穏やかな声で語りかけた。「このネックレスが、こうしてまた皆さんの元に戻ってきたことには、きっと意味があると思います。お母様が、お父様や沙織さんを繋ぎたくて、私を介してここに導いてくれたのかもしれません」
美咲の言葉に、宗佑は顔を上げた。その目には、先程までの虚ろさはなく、確かな光が宿っているように見えた。
「繋ぐ……そうか……明子が……」
その時、美咲の脳裏に、アムザで出会った彫金職人の男性の言葉が再び蘇った。「人から人へと渡っていくうちに、いろんな物語を吸い込んでいく」。そして、アムザの温冷浴。熱いサウナと冷たい水風呂が交互に身体を刺激し、血行を促進するように、冷え切っていた桐島家の心にも、温かい何かが流れ込み始めているのかもしれない。
「このネックレス、しばらく美咲さんが持っていてくれないか」不意に宗佑が言った。
「え？」美咲も沙織も驚いた。
「今の私には、これを正しく見守る自信がない。だが、こうして再び出会えたことで、明子との思い出は確かに蘇った。それだけで十分だ。君がこれを身に着けて、時々、明子のことを思い出してくれれば……それが一番の供養になるような気がするんだ」
宗佑の提案は意外だったが、その表情は穏やかだった。まるで、重荷を下ろしたかのように。
沙織も、最初は戸惑ったが、父の真剣な眼差しを見て、何かを感じ取ったようだった。「お父さんがそう言うなら……美咲、お願いできるかしら。もちろん、いつか私たちに返してくれてもいい。でも、今はあなたが持っていてくれることが、父にとっても、そして天国の母にとっても、一番良いのかもしれない」
美咲は、二人の言葉を胸に、再びネックレスを手に取った。ずしりとしたプラチナの重みが、今度は温かく感じられた。それは、桐島夫妻の愛の物語、そして家族の絆の重みだった。
「わかりました。大切にします。そして、時々、お母様のことを思い出します。アムザの湯に浸かりながらでも」美咲は微笑んだ。
その言葉に、宗佑も沙織も、ふっと顔を綻ばせた。凍てついていた空気が、少しだけ和らいだ瞬間だった。桜の刻印は、ただの飾りではなく、愛と記憶の象徴として、美咲の首元で再び輝き始めた。それは、過去と現在を繋ぎ、そして未来へと続く希望の光のように見えた。このネックレスが紡いできた物語は、まだ終わらない。新たな章が、静かに始まろうとしていた。美咲は、アムザの湯がもたらす心身の浄化が、人間関係のわだかまりをも溶かしていく不思議な力を、改めて感じていた。
第五章：プラチナの絆、湯けむりの先の未来へ
桐島家を後にしてから数週間が過ぎた。美咲の首には、あのプラチナの喜平ネックレスが常にあった。それはもはや単なる装飾品ではなく、桐島夫妻の愛の物語と、沙織との新たな友情、そして宗佑の穏やかな笑顔を象徴する、かけがえのない存在となっていた。
ネックレスの重みを感じるたび、美咲は明子さんのことを思った。会ったこともない人なのに、まるで親しい人のように、その温かな人柄が伝わってくるような気がした。そして、その度に、自分も誰かにとってそんな温かい存在でありたいと願うのだった。
美咲は、相変わらずアムザに通い続けていた。サウナで汗を流し、水風呂で身を引き締め、休憩スペースでぼんやりと過ごす時間は、美咲にとって何よりも贅沢な癒やしだった。ある日、いつものように温冷浴を楽しんでいると、偶然にもあの彫金職人だったという初老の男性と再会した。
「おお、嬢ちゃん。ええ顔になったな。ネックレスもよう似合うとるで」男性はにこやかに言った。
「ありがとうございます。あの時、おじさんの言葉に励まされて…このネックレス、実は色んないきさつがあったんです」
美咲は、桐島家のこと、ネックレスが明子さんの形見だったこと、そして今、自分がそれを預かっていることを話した。男性は静かに耳を傾け、深く頷いた。
「そうか、そうか。やっぱりええもんは、ええ物語を引き寄せるんやな。嬢ちゃんがそれを繋いどるんや。そのネックレスは、もう嬢ちゃんのもんでもあるんやで。大切にしなはれ」
「はい」美咲は力強く頷いた。
その言葉は、美咲の心にすとんと落ちた。桐島家の思い出を大切にしながらも、このネックレスと共に自分自身の人生を歩んでいく。それでいいのだと。
アムザを出ると、空はすっきりと晴れ渡っていた。梅雨は明け、本格的な夏が始まろうとしている。美咲の心も、いつの間にか晴れやかになっていた。失業し、恋人と別れた時の絶望感は、もうどこか遠い過去のことのように感じられた。
数日後、沙織から連絡があった。「父の様子が、最近とてもいいの。美咲さんと会って、ネックレスのことがあってから、昔のように穏やかになって。時々、母との思い出話もしてくれるようになったわ。本当にありがとう」
「ううん、私の方こそ。沙織や桐島さんに出会えて、このネックレスの本当の価値を知ることができたから」
沙織とは、その後も頻繁に連絡を取り合うようになった。時には一緒にアムザへ行き、汗を流しながら語り合うこともあった。温冷浴は、二人の友情を深めるのにも一役買っていた。
美咲は、小さなデザイン事務所でアルバイトを始めた。まだ以前のような華やかな仕事ではないが、自分のペースで、本当にやりたいことを見つめ直す良い機会だと感じていた。ネックレスが与えてくれたのは、強さや自信というよりは、物事の本質を見つめる静かな力と、人との繋がりを大切にする心だったのかもしれない。
ある週末、美咲は久しぶりに祖母の墓参りに出かけた。墓前に花を供え、静かに手を合わせる。
「おばあちゃん、私、元気でやってるよ。おばあちゃんが教えてくれたアムザのおかげで、大切なものを見つけることができた。ありがとう」
首元のプラチナのネックレスが、太陽の光を浴びてキラリと輝いた。その輝きは、祖母の優しい眼差しのように感じられた。41.4グラムの重さは、今では心地よい安心感を与えてくれる。W6面カットの緻密な輝きは、複雑に絡み合いながらも美しく調和する人間関係そのもののようにも見えた。
F4003 SEIKO Pt850 W6面喜平ネックレス。メーカーと造幣局のマークがその品質を保証するように、このネックレスが紡いできた物語と、これから紡がれる物語は、確かな価値を持ち続けるだろう。それは、愛と記憶、そして再生の物語。
美咲は、ふと空を見上げた。どこまでも青い空が広がっている。ミナミの喧騒の中に佇むアムザ。あの湯けむりの向こうには、いつも温かな安らぎと、新たな発見が待っている。ネックレスと共に、美咲の新しい人生が、今、静かに、そして確かに始まろうとしていた。それは、プラチナのように色褪せることのない、確かな絆に支えられた、希望に満ちた未来だった。美咲は、そっとネックレスに触れた。その冷たさと重みが、生きていることの確かな手応えとして、彼女の心に深く刻まれた。アムザの温冷浴が教えてくれた、心と身体のリセット。そして、ネックレスが繋いでくれた、温かい人間関係。それらが、美咲の人生を豊かに彩っていくことを、彼女は確信していた。
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