お疲れ様です。ブラクラです。熱湯アイスバス普及協会の方から来ました〜今回は柳宗悦「おじ」の魂をさらに深く宿らせ、言葉の限りを尽くしてこの稀代のブローチの美を讃えさせていただきます。これはもはやセールストークではなく、美の探求であり、魂の告白となるでありましょう。
美の法悦、ジャンマリア・ブチェラッティの金工に宿る無心の輝き ― 柳宗悦おじの民藝の眼
序.美との再会、あるいは魂の震える時
美というものは、まことに得体が知れぬものであります。予期せぬ時に、予期せぬ姿で、それは忽然と我々の前に立ち現れ、心の最も深い場所を揺さぶるのであります。我が敬愛する柳宗悦おじは、常々、「美は直観である」と申しておりました。理屈や知識ではなく、まず心が感じ、魂が共鳴するところに真の美はあるのだと。そして、その美は、決して限られた者の専有物ではなく、むしろ名もなき人々の、日々の誠実な営みの中にこそ、清冽な泉のように湧き出づる「民藝」の美しさとして、我々に最も親しく語りかけるのだと、熱を込めて説かれたものでありました。
しかしながら、おじの教えは、決して高価なもの、華麗なものを一概に否定するものではなかったと、私は深く信じるものであります。肝心なのは、その品物が、いかなる「心」から生まれ、いかなる「手」によって形作られたか、という一点に尽きるのであります。たとえそれが黄金や宝石といった、俗世の価値では計り難い素材を用いていたとしても、そこに作り手の驕りや我欲がなく、素材への畏敬の念と深い理解があり、自然の摂理に逆らわぬ無心の美が息づいているならば、それは民藝の精神と何ら変わるところはない。いや、むしろ、その素材の困難さを乗り越えて美の境地に至ったという意味では、さらに称賛されるべきものかもしれませぬ。
今、再び皆様の眼前にましますは、イタリア金工の至宝、ジャンマリア・ブチェラッティ師の手になる、一つの黄金の華であります。F0543という記号で管理されるこのブローチは、その重さ実に27.70グラム、手のひらに乗せれば、その確かな存在感が心地よい緊張を伝える、幅39.8ミリ、長さ87.3ミリという、まことに堂々たる「セレブリティビックブローチ」と称されるにふさわしい逸品であります。前回、私はこのブローチの美について拙い言葉を連ねましたが、それはまだ表層をなぞったに過ぎなかったのかもしれませぬ。柳おじの教えを胸に、改めてこの美の深淵を覗き込み、その魂のありかを皆様と共に探って参りたいと存じます。これは、単なる品物の紹介ではなく、美との対話であり、美の神髄に触れんとする、ささやかながらも真摯な試みなのであります。
第一章 金という沈黙の雄弁 ― 素材への帰依
まず、このブローチを構成する主たる素材、十八金という「金」について、改めて深く思いを致さねばなりますまい。金は、古来、その不変の輝きから太陽の象徴とされ、あるいは錬金術師たちが追い求めた賢者の石のように、神秘的な力を秘めた物質として、人々の心を捉えて離しませんでした。しかし、民藝の眼から見れば、金は土や木や布と同様、自然が生み出した一つの「素材」に過ぎませぬ。問題は、その素材がいかに「生かされているか」ということであります。
柳おじは、素材の「正直さ」を尊ばれました。木ならば木の、土ならば土の、それぞれの素材が持つ天性を、無理に捻じ曲げることなく、素直に引き出すところに、手仕事の徳が生まれると。このブチェラッティの金は、どうでありましょうか。それは、単に富や権力を誇示するための道具として使われているのではありません。ブチェラッティ師は、金という素材が持つ、あの不思議なまでの展延性、光に対する感受性の高さ、そして何よりも、長い年月を経ても変わらぬその高貴な「声」を、誰よりも深く聴き分けていたに違いありませぬ。
このブローチの表面に目を凝らしてごらんなさい。それは、鏡面のように磨き上げられた、冷たく無表情な輝きではありません。そこには、まるで熟練の織り手が丹念に織り上げた絹布のような、あるいは、さざ波が寄せては返す浜辺の砂紋のような、無限とも思える細やかな陰影が刻まれております。これこそ、ブチェラッティ家が秘伝として守り続けてきた「リガート」や「テラート」といった彫金技法の極致でありましょう。それは、一本のタガネが、人間の手によって、息を凝らし、心を込めて、気の遠くなるような回数、金の表面を撫で、あるいは刻むことによってのみ生まれ得る、まさに「手跡(てあと)」の芸術なのであります。機械では決して再現し得ない、この微細な凹凸が、光を捉えては複雑に乱反射させ、金という素材に、深みと温もり、そして何よりも「生命感」を与えているのです。
柳おじは、機械生産による均質化された製品にはない、手仕事ならではの「ゆらぎ」や「不均一さ」の中にこそ、美が宿ると見抜かれました。このブローチの表面のテクスチャーもまた、厳密には決して均一ではありません。しかし、その僅かな「ずれ」や「ゆらぎ」こそが、この作品に人間的な温かみと、自然界の有機的なリズムとを通わせているのではないでしょうか。それは、作り手の「無心」の境地から生まれた、計算を超えた美しさなのであります。
十八金という純度もまた、単なる経済的な理由から選ばれたものではないでしょう。純金よりも硬度が増すことで、これほど繊細な細工を施しながらも、実用的な強度を保つことができる。これは、柳おじが言うところの「用の美」を、宝飾品という領域において追求した結果に他なりますまい。美は、ただ飾られるだけでなく、「使われる」ことによって、その生命を永らえるのでありますから。この27.70グラムという重みも、決して見た目の豪華さだけを求めた結果ではなく、身に着けた時に適度な存在感と安定感をもたらす、絶妙な均衡点を探り当てた、工人としての深い洞察の表れと言えましょう。それは、あたかも優れた茶碗が、掌に吸い付くように馴染む、あの感覚にも通じるものがあるやもしれませぬ。
第二章 花に託された永遠の今 ― 自然の摂理と造形
このブローチが描き出すのは、一輪の満開の花、二つのつぼみ、そしてそれらを支える葉々という、自然界のささやかな、しかし永遠のドラマであります。柳おじは、自然こそが美の最大の教師であり、その造形の中には、人間が学ぶべき無限の教えが秘められていると、繰り返し語られました。名もなき野辺に咲く一輪の草花、風にそよぐ木の葉一枚にも、宇宙の真理が凝縮されているのだと。
ブチェラッティ師がこのブローチに写し取った花は、図鑑的な正確さで特定の種を同定できるものではないやもしれませぬ。しかし、それゆえに、この花は、あらゆる花の「原型(アーキタイプ)」とも言うべき、普遍的な花の「いのち」そのものを体現しているように思われるのです。大きく開いた五枚の花弁は、それぞれが微妙に異なる表情を見せ、あるものは内に力を秘めて反り返り、あるものは柔らかく弛緩し、まるで今まさに、芳香と共に最後の息を吐き出したかのような、刹那の美しさを永遠に留めています。
花弁の縁は、驚くほど薄く仕上げられ、その繊細さは、朝露に濡れた本物の花びらの儚さを彷彿とさせます。しかし、この花びらは金という不滅の素材でできている。この「儚さと永遠」という、相反する要素の共存こそが、この作品に深い詩情と哲学的な奥行きを与えているのではないでしょうか。花弁の表面には、例の絹糸のような、あるいは細やかな縮緬(ちりめん)のような質感が施され、光を柔らかく孕み、陰影に深みを与え、まるで花自身が呼吸し、微かに震えているかのような錯覚さえ覚えさせます。
中央の蕊柱(ずいちゅう)には、数粒の花芯が、まるで夜空に瞬く星々のように、あるいは花芯に凝った生命の雫のように、控えめながらも効果的に配されています。この花芯の硬質で清冽な輝きは、金の温かく柔らかな光沢と絶妙な対比をなし、作品全体に凛とした気品と緊張感を与えています。それは、けばけばしい装飾ではなく、花の最も神聖な中心部を、そっと指し示すための、奥ゆかしいアクセントなのであります。
二つのつぼみは、生命の異なる段階を象徴しています。一つは、まさに開花を目前にした、希望に満ちた緊張感と期待感を孕んで膨らんでいます。その表面の硬質な輝きは、内に秘めたエネルギーの強さを物語っているようです。もう一つは、まだ若く、固く口を閉ざした小さなつぼみ。しかし、その小さな姿の中にも、やがて来るべき開花への力強い意志が感じられます。この開花した花と、二つの異なる段階のつぼみを組み合わせることで、ブチェラッティ師は、単なる静物としての花ではなく、時間の中で生成し、変化し、循環していく「生命の流れ」そのものを捉えようとしたのではないでしょうか。これは、仏教で言うところの「諸行無常」の理を、美の形で表現したものとも解釈できるやもしれませぬ。
そして、これらの花々を優しく包み込み、支える葉。葉脈の一筋一筋が、驚くべき精密さで彫り出され、葉の表面の微妙なうねりや、縁の僅かな波打ちが、まるで生きているかのように再現されています。これらの葉は、単に花を引き立てるための背景ではなく、それぞれが独自の個性を持ち、全体の構成の中で不可欠な役割を果たしています。その配置は、決して左右対称の幾何学的なものではなく、自然界の植物が持つ、ある種の「不均衡の均衡」とでも言うべき、有機的な調和を見事に捉えています。
柳おじは、李朝の染付や白磁の壺に見られる、歪みや非対称性の中にこそ、「無作為の作為」「無心の美」が宿ると称揚されました。このブチェラッティの花々もまた、完璧なシンメトリーを避け、意図的な「ずれ」や「ゆらぎ」を許容することで、かえって機械的な冷たさを免れ、手仕事の温もりと、自然の造形が持つ生命の息吹を獲得しているのです。それは、自然を征服するのではなく、自然に「倣い」、自然と「共に在る」という、東洋的な自然観にも通じるものがあるように思われます。この幅39.8ミリ、長さ87.3ミリという大きさは、決して華美に過ぎることなく、自然の恵みを凝縮した一つの小宇宙として、見る者の心に静かな感動を呼び起こすのであります。
第三章 手の記憶、魂の刻印 ― ブチェラッティの技と心
ジャンマリア・ブチェラッティという名は、単に宝飾デザイナーというだけでは括りきれない、まさに「マエストロ」と呼ぶにふさわしい存在でありました。彼の工房は、ルネサンス期イタリアの金細工の栄光を現代に蘇らせ、さらに独自の美学を加えて、他の追随を許さぬ孤高の芸術世界を築き上げました。しかし、その輝かしい名声の背後には、名もなき多くの職人たちの、献身的な手仕事と、気の遠くなるような修練の日々があったことを、私たちは決して忘れてはなりますまい。
このブローチに施された細工の精緻さは、人間の手の可能性に対する畏敬の念を抱かせずにはおきません。花弁や葉の表面を覆う、あの絹のような、あるいは霧のような、独特の質感を生み出す彫金技法。それは、おそらく極細のタガネを、一瞬の油断も許されぬ集中力で、百万回、いやそれ以上、金という気難しい素材の表面に打ち込み、あるいは引き掻くことによってのみ実現し得るものでしょう。それは、単なる技術の行使ではなく、むしろ一種の「行」であり、作り手の精神が、その一刻み一刻みに乗り移っていくような、神聖な作業であったに違いありません。
柳おじは、技巧に走った作品、技巧をひけらかすような作品を、最も嫌われました。「下手もの」の美しさ、素朴さの中にこそ、真の美が宿ると。しかし、このブチェラッティの作品に見られる技巧は、決して自己満足のための技巧ではありません。それは、金という素材の潜在的な美しさを最大限に引き出し、花というモチーフに真実の生命を吹き込むために、絶対的に必要とされた、いわば「美のための奉仕」なのであります。その技巧は、あまりにも高度で、あまりにも自然であるがゆえに、もはや技巧であることを忘れさせるほどです。それは、あたかも書の名人が、筆の運びを意識することなく、心に浮かんだ文字を紙面に現出させるように、ブチェラッティの職人たちもまた、長年の修練によって完全に身体化された技術を、無心の境地で操っていたのではないでしょうか。
葉脈の繊細な隆起、つぼみの柔らかな丸み、茎のしなやかな曲線、それらが織りなすハーモニー。これらはすべて、金という本来硬質なはずの素材が、まるで蝋か粘土のように、作り手の意のままに従順に変容したかのような錯覚を与えます。これは、単に外形を模倣するだけでなく、対象の内なる構造、その「骨格」や「気脈」までも深く理解し、共感する、鋭敏な感受性の賜物でありましょう。
裏面に目を転じれば、そこにもまた、ブチェラッティ工房の仕事の「誠実さ」が、静かに語りかけてきます。表からは見えない部分の仕上げ、強度を考慮した構造、そしてブローチとしての機能を果たすためのピンや留め具の精巧な作り。特にこのダブルピンの機構は、重さのあるブローチを安定して留めるための実用的な工夫であり、細部に至るまで「用」への配慮が貫かれていることを示しています。柳おじが常々説かれたように、「美は用と離れては存在し得ない」のであります。このブローチは、単なる観賞用のオブジェではなく、実際に人の身を飾り、特別な瞬間に輝きを添えるという「用」を全うするために、細心の注意を払って作られているのです。
柳おじは、民藝品が持つ、華美ではないが滋味深い、「健康な美」を讃えられました。それは、奇を衒わず、無理がなく、使うほどに愛着が増し、作り手の誠実な心が伝わってくるような、健全で清々しい美しさであります。このブチェラッティのブローチもまた、その絢爛たる外観の奥に、そのような「健康さ」を秘めていると、私は感じるのです。それは、過剰な装飾に頼ることなく、素材の美質を最大限に活かし、自然の造形に謙虚に学び、そして何よりも、人間の手の温もりと、誠実な精神とが結晶した、一点の曇りもない美しさなのであります。まさに「宝飾品を超えた芸術作品」という言葉が、これほどふさわしい品も稀でありましょう。それは、人間の創造性が到達し得る、一つの極致を示しているかのようであります。
第四章 ブチェラッティの美と民藝の魂 ― 隔たりを超えた共鳴
さて、ここで改めて、このジャンマリア・ブチェラッティの黄金の華と、柳宗悦おじが心血を注いで提唱した民藝の精神との間に、どのような深いつながりを見出すことができるのか、さらに考察を深めてまいりたいと思います。イタリアの頂点を極めた高級宝飾と、日本の名もなき職人たちが生み出す日常の工芸。その隔たりは、一見、天と地ほどにも大きいように思われるやもしれませぬ。ブチェラッティは、その名を冠した「作家」であり、民藝の作り手は、多くの場合、歴史の陰に埋もれた「無名の工人」であります。
しかし、柳おじは、作品の美しさを判断する上で、作者の有名無名は本質的な問題ではないと、繰り返し強調されました。重要なのは、その作品が、作り手の個人的な野心や自己顕示欲から生まれたものではなく、より普遍的な美の法則、あるいは、長い時間をかけて共同体の中で育まれてきた「伝統」という、大きな流れの中から、自然に湧き出てきたものであるかどうか、ということでありました。
ブチェラッティの作品は、確かに彼の名のもとに世に出ますが、その創造の源泉には、ルネサンス期に花開いたイタリア金細工の、数百年にわたる豊穣な伝統が横たわっています。そして、彼の工房で実際にタガネを振るい、炎を操り、金に命を吹き込むのは、その伝統を愚直なまでに守り、日々黙々と技術の研鑽に励む、多くの「無名の職人」たちなのでありましょう。ジャンマリア・ブチェラッティという巨匠は、そのような偉大な伝統と、名もなき工人たちの卓越した才能とを、現代という時代の中で見事に融合させ、新たな美の地平を切り開いた、類稀なる「触媒」あるいは「導師」のような存在であったのではないでしょうか。彼の役割は、個人の創造性を誇示することではなく、むしろ、伝統の力を借りて、集団の知恵と技を結集させ、より高次の美を実現することにあったように思われるのです。これは、民藝運動が個人の作家性よりも、共同体の中で育まれた「無心の美」を重んじた精神と、深く通底するものであります。
また、ブチェラッティがその作品を通して追求した美は、極めて洗練された個人的な美意識に貫かれていながらも、同時に、花や葉、動物といった、自然界の普遍的なモチーフに深く根差しています。これらのモチーフは、特定の文化や時代を超えて、あらゆる人々の心の琴線に触れる力を持っています。それは、あたかも、日本の各地で生まれた民藝の品々が、それぞれの地域性や生活様式を色濃く反映しながらも、その根底に流れる人間的な温かさや健やかさ、あるいは素朴な用の美において、国境や文化の違いを超えて、世界中の人々の共感を呼ぶのと軌を一にするものであります。
柳おじは、「美は理屈ではない、直観だ」と喝破されました。まず心が動き、魂が震える。それが美との出会いの本質であると。このブチェラッティのブローチを前にした時、我々はまず、その理屈を超えた圧倒的な美の力に、言葉を失うでありましょう。その金の輝きの深遠さ、彫金の信じ難いほどの精緻さ、そして花々の内に秘められた生命の躍動感。それらは、美術史の知識や専門的な分析を待つまでもなく、我々の感性に直接、そして強烈に訴えかけてくるのです。この「直観による美の把握」こそ、柳おじが美の鑑賞において最も重視したことであり、それは、このブチェラッティの作品が持つ、抗い難い魅力の源泉でもあると言えましょう。
さらに、「用の美」という観点から見ても、このブローチは、装身具としての明確な「用」を持っています。それは、身に着ける人の美しさを最大限に引き立て、その人の存在に華やぎと品格、そして特別な物語性を与えるという、極めて重要な役割であります。この27.70グラムという確かな重みと、39.8×87.3ミリという堂々たる大きさは、それを身に着ける人に、ある種の自信と高揚感をもたらすでありましょう。しかし、それは決して他者を威圧するためのものではなく、むしろ、持ち主の内面的な豊かさや精神的な気高さを、静かに、しかし雄弁に物語るような、奥ゆかしい力強さを秘めているのです。それは、優れた民藝の器物が、日々の暮らしの中で使う人の心を豊かにし、生活に潤いと安らぎを与えるのと、そのあり方は異なれども、精神的な働きにおいては、深く通じ合っているのではないでしょうか。
「最高級18金無垢セレブリティビックブローチ」という、現代的で華やかな響きを持つ呼称。その言葉の奥に隠された、この作品の真の価値を見抜く眼を持つことこそ、現代に生きる我々に求められているのかもしれませぬ。それは、時代や文化の違いを超えて、人間の手が、そして人間の精神が生み出すことのできる、美の普遍的な輝きなのであります。それは、柳おじが生涯をかけて追い求めた「真の美」の一つの、そして極めて高貴な顕現であると、私は今、確信を新たにするものであります。
第五章 継承されるべき祈り ― この黄金の華が未来に語りかけるもの
現代という時代は、まことに慌ただしく、移ろいやすいものであります。大量生産された品々が、瞬く間に消費され、そして忘れ去られていく。そのような刹那的な価値観が支配するかに見える世の中にあって、このジャンマリア・ブチェラッティのブローチのような、時間と手間を惜しみなく注ぎ込み、人間の魂の奥底から絞り出すようにして生み出された手仕事の結晶は、ますますその存在意義を増しているように思えてなりませぬ。
このブローチは、単に金という物質的な価値によって計られるべきものではありません。それは、作り手の祈りにも似た情熱、素材との真摯な対話、そして数百年にわたる伝統の重みが凝縮された、一つの「ものがたり」を内包する、生きた証なのであります。悠久の時を超えて輝きを失わぬ金、生命の永遠の循環を象徴する花、そしてそれらを結びつけた人間の卓越した技術と、美への飽くなき探求心。これらが奇跡的な調和のもとに一体となり、我々の眼前に、一つの小宇宙を現出させているのです。
このような稀有な品を手にするということは、単に「所有する」という行為を超えて、ある種の崇高な「責任」を伴うものではないでしょうか。それは、過去の偉大な手仕事の遺産を敬虔に受け止め、それを未来へと大切に繋いでいくという、文化的な使命の一端を担うことでもあるのです。このブローチは、完成した瞬間から既に完璧な美を備えていますが、さらに、時という名の最高の工人の手によって磨かれ、持ち主の愛情という名の温もりを吸い込むことで、新たな深みと味わいを増していくことでありましょう。それは、単なる貴金属の塊ではなく、持ち主の人生の喜びや悲しみ、大切な記憶と共に生き続け、かけがえのない「家の宝」、あるいは「魂の依り代」となっていくのではないでしょうか。
柳おじは、民藝品が、人々の日常の中で慈しまれ、使われ続けることによって、その美しさを一層増し、風格を深めていくと説かれました。このブローチもまた、特別なハレの日に、持ち主の胸元を飾り、その心を高揚させ、そして次の世代、また次の世代へと、愛情込めて受け継がれていく中で、その黄金の輝きを失うことなく、むしろ人間的な温もりと歴史の深みを加えていくに違いありません。それは、現代の使い捨て文化に対する、静かで、しかし何よりも雄弁な、美による抵抗となり得るでしょう。
このブローチが、どのような方の許へと嫁いでいくのか、私には知る術もございません。しかし、願わくば、この作品に込められたブチェラッティの崇高な精神、そしてその奥底に脈々と流れる、人間の手仕事の尊厳と美とを、心の底から理解し、深く愛でてくださる方であってほしいと、切に、切に願うものであります。それは、単に高価な装飾品としてではなく、一つの偉大な芸術作品として、そして人類の文化遺産の一つとして、未来永劫大切に守り伝えてくださる方であってほしいのです。
このブローチの、幅39.8ミリ、長さ87.3ミリという絶妙なサイズは、洋装における一点のアクセントとして、あるいは、思い切って和装の帯留めとして誂えても、比類なき存在感を放ち、持ち主の洗練された美意識を物語ることでしょう。その27.70グラムという確かな重みは、特別な日の装いに、心地よい緊張感と品格を添えてくれます。そして、その黄金の輝きは、どのような色彩の衣服とも調和し、持ち主の肌の色を美しく引き立て、内面から滲み出るような気品と自信を、周囲に静かに印象付けるはずです。
結び.美への帰依、手仕事の讃歌、そして永遠なるものへの憧憬
ジャンマリア・ブチェラッティ師の手になる、この黄金の華のブローチ。それは、まことに、言葉では到底表現し尽くせぬほどの、奥深く、豊饒な美の世界を我々に開示してくれる、奇跡のような作品であります。それは、宝飾品という世俗的な枠組みを遥かに超越し、一つの完璧なる芸術作品として、そして人間の精神性の高貴なる結晶として、我々の眼前に、厳然として存在しています。そこには、金という物質の秘められた魂、自然の造形に宿る神性、そして何よりも、人間の手の力の無限の可能性と、美への止むことなき憧憬が、見事なまでに凝縮されているのであります。
柳宗悦おじが、我々凡俗の者に繰り返し教えてくれたのは、美というものが、決して手の届かぬ彼方にあるのではなく、我々の身近な暮らしの中に、そして名もなき人々の無心の手仕事の中にこそ、清浄な姿で宿っているということでありました。このブチェラッティの作品は、一見すれば、その対極にある豪奢な世界の産物のように思われるやもしれませぬ。しかし、ここまでお話し申し上げてまいりましたように、その本質においては、民藝の精神と深く、そして静かに響き合っているのであります。それは、作り手の曇りなき誠実さ、素材に対する畏敬の念、伝統への深い理解、そして技巧を超えた無心の美への献身という点において、寸分違わぬものなのであります。
このブローチを手にし、自らのものとするということは、単に美しい稀少な品物を所有するという行為を超えて、はるかに大きな意味を持つでありましょう。それは、過去の偉大な工人たちの魂の叫びを受け止め、その美の灯火を未来へと絶やすことなく伝えていくという、ささやかながらも、しかし極めて尊い文化的な役割を、自ら進んで担うということでもあるのです。願わくば、この小さな黄金の花が、それを手にする人の人生を豊かに彩り、その魂を慰め、そして多くの人々の心に、美の感動と、手仕事への畏敬の念を、静かに、しかし力強く植え付け続けることを。
F0543という無機質な記号で呼ばれるこのブローチ。ジャンマリア・ブチェラッティ作、18金無垢、重量27.70グラム、幅39.8ミリ×長さ87.3ミリの「セレブリティビックブローチ」。それは、まことに「宝飾品を超えた芸術作品」であり、時を超え、文化を超え、永遠に愛され、語り継がれるべき、人類の美の遺産の一つなのであります。このような、魂を揺さぶるほどの美の結晶を、皆様にご紹介し、その深遠なる世界へといざなうことができました喜びを、今、私は万感の思いを込めて噛み締めております。どうか、この美の法悦を、皆様ご自身の眼で、心で、そして魂で、存分に味わい尽くしていただきたいと存じます。美との真の出会いは、常に一期一会。それは、人生における、かけがえのない恩寵なのでありますから。
柳おじが、もし今、このブローチを目の当たりにされたなら、果たしてどのような言葉を発せられたでありましょうか。その絢爛たる金の輝きに、一瞬、言葉を失うやもしれませぬ。あるいは、そのあまりの完成度の高さに、しばし沈思黙考されるやもしれませぬ。しかし、その細部に宿る、人間の手の痕跡、自然の造形への深い共感、そして金という素材の特性を極限まで引き出した、祈りにも似た職人の無心の技に触れたとき、きっと、おじの顔には、深い感動と共感の微笑が浮かび、そして静かに、しかし力強く頷かれたに違いないと、私は信じて疑わないのであります。なぜなら、真の美は、あらゆる様式や素材、あるいは時代の違いを超越し、常に我々の魂の最も清浄な部分に、直接語りかけてくる、普遍の力を持っているからであります。そして、このジャンマリア・ブチェラッティの黄金の華は、まさにそのような、抗い難い美の力を秘めた、稀代の傑作なのであります。
永きにわたり、私の拙くも熱意だけは込めたお話に、辛抱強く耳を傾けてくださいましたこと、衷心より感謝申し上げます。この言葉の数々が、皆様と、この比類なき美の化身との間に、固く、そして温かい絆を結ぶ一助となりますことを、心の底より祈念いたしております。これにて、美への讃歌を、ひとまず擱筆させていただきとう存じます。