今月で今年ももう半分終了。人生50年。50歳を過ぎると余生の1日1日が今までとは違った、ワープスピードで通り過ぎて行きます。
以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
わしは、北大路魯山人。
…と名乗れたら、さぞ人生は痛快であったろうな、と夢想するただの骨董好きの爺じゃ。まあ、本物の魯山人先生は、その才能と引き換えに大変な癇癪持ちで、人間関係は滅茶苦茶だったと聞く。美と食を極める道は、かくも険しいものか。
わしはと言えば、そこまでの才もなければ、人を怒鳴りつける気概もない。ただ、縁側で気の利いた器を愛でながら、季節の菓子と茶をすするのが何よりの楽しみという、いわば「小市民的魯山人」といったところか。
今日も今日とて、馴染みの甘味処の窓際、特等席に陣取っておる。目の前には、わしが若い頃に焼いた、少しばかりいびつな志野の湯呑。この歪みがいい。完璧な円なぞ、機械にでも作らせておけ。人の手が作るものは、どこか揺らぎ、迷い、そして息づいているからこそ美しいのじゃ。
盆の上には、水無月(みなづき)が一切れ。
店の主人が、心得顔で出してくれたものだ。
店先に掲げられた品書きを、改めて眺める。
水無月
氷の片を模した二層の三角の外郎(ういろう)。
小豆には魔除け・厄除けの意味あいもあり、
本来は、1年の半分にあたる6月30日「夏越の祓(なごしのはらえ)」
に合わせて食し、半年間の行いを清め、
残り半年の無病息災を願います
ふむ。「夏越の祓」か。
茅の輪をくぐり、半年の穢れを落とす神事。この水無月という菓子も、そのためのもの。ういろうの白は氷を、上に乗った小豆は悪鬼を払うとされる。昔の人間は、こうして季節の節目節目に、見えないものへの畏怖と祈りを形にしてきた。なんと豊かで、美しい習慣であろうか。
わしは、この「祓え清める」という思想が、どうにも好きでな。
人間、生きておれば、知らず知らずのうちに心の澱(おり)がたまる。他人への嫉妬、うまくいかぬ自分への苛立ち、過去への後悔。そういったものが、魂の表面に薄汚れた膜となって張り付いていく。それを、年に二度、大掃除する。素晴らしいじゃないか。
…と、感心しながら茶をすすっておると、隣の席に若い男女が座った。おそらく、夫婦になってまだ日も浅いのだろう。男の朴訥(ぼくとつ)とした雰囲気と、女の快活そうな笑顔が、どこかちぐはぐで、それでいて不思議な調和を保っておる。
女がメニューを指さし、きゃっきゃと笑う。男は、それに相槌を打つでもなく、窓の外の苔むした庭石を、ぼんやりと眺めている。
「ねえ、あなた聞いてるの?このたい焼き、クリームとあんこ、どっちがいい?」
「…ああ、どっちでも」
「もう、いつもそれなんだから!少しは自分で決めてよ!」
「…じゃあ、クリームで」
「えー、私はあんこの気分だったのに!」
…はっはっは。見事なまでのすれ違い。
微笑ましい光景ではあるが、これを毎日、何十年と続けるのかと思うと、なかなかどうして、壮大な修行であるな。
そこでふと、先日、娘がこぼした言葉を思い出した。
「お父さん、私、もう離婚しようかしら。夫とは、性格も価値観も、何もかもが合わないの。どうして、こんなに相性の悪い人と結婚しちゃったんだろう…」
わしは、その時、娘にこう言ってやった。
「何を馬鹿なことを言っておる。皆、勘違いしておるのだ。結婚相手、配偶者というのはな、この世で一番、自分と相性の悪い人間と添い遂げるのが普通なのじゃよ」
娘は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしておったわい。
まあ、無理もない。世間では「相性ぴったりの運命の相手」だの、「ソウルメイト」だの、甘ったるい言葉が流行り病のように蔓延しておるからのう。
だがな、考えてもみよ。
自分と全く同じ考え、同じ好み、同じ価値観の人間が、もう一人おったとして、それは面白いか? それは、ただの自分の分身、鏡に映った己の姿にすぎん。そこに、何の発見も、驚きも、成長もあるものか。
金剛石(ダイヤモンド)が、なぜあれほどまでに硬く、美しく輝くか知っておるか?
あれは、地中深く、想像を絶するほどの高圧と高温に、何億年もの間、耐え続けた結果なのじゃ。安楽な環境からは、あの輝きは生まれん。
人間も、同じことよ。
自分とは全く異なる価値観、理解しがたい思考回路を持つ「他人」という名の圧力。共に暮らす中で生まれる、数え切れぬほどの摩擦という名の高熱。それに耐え、磨かれ、角が取れ、そうして初めて、魂は深く、静かに輝き始める。
だから、娘よ。お前が夫を「相性が悪い」と感じるのは、当たり前田のクラッカーよ。むしろ、それこそが、お前たちが本物の夫婦である証拠じゃ。その「相性の悪さ」と向き合い、理解しようと努め、時には諦め、時には受け入れ、そうやって互いの魂を砥石(といし)のように磨き合うこと。それこそが「結婚」という名の、人生最大の修行であり、我々がこの世に生を受けてきた意味そのものなのじゃ。
楽な道を選びたければ、一人でおればよい。
だが、茨の道を行くと決めたからには、腹を括るしかない。その道の先にこそ、一人では決して見ることのできなかった景色が広がっておるのだから。
…そんなことを、熱っぽく語ってしまったものだから、娘は呆れ顔で帰っていったがな。まあ、いつか分かる時が来るじゃろう。
わしは、懐から小さな桐の箱を取り出した。
中には、紫色の絹の布に包まれた、一つのペンダントトップが鎮座しておる。
【非加熱ナチュラルパープルスターサファイア 2.76ct 上質ダイヤモンド 0.39ct 最高級Pt900無垢ペンダントトップ】
これこそが、わしが長年探し求め、ようやく手に入れた逸品。
そして、わしの「結婚は修行である」という持論を、何よりも雄弁に物語る宝石でもあるのだ。
まず、この中央に座す、2.76カラットのパープルスターサファイア。
見てみよ、この色を。
ただの紫ではない。夜が明けきらぬ東の空の色、藤の花が夕闇に溶け込む瞬間の色、高貴さと神秘性が同居する、まさに「深遠幽玄」という言葉がふさわしい色合いじゃ。赤の情熱と、青の冷静。その二つが奇跡的な均衡で混じり合った時にのみ、この色は生まれる。
そして、何よりも特筆すべきは、この石が**「非加熱」**であるという事実。
今の世に出回るサファイアの9割以上は、「加熱処理」という人工的なお化粧を施されておる。色のムラを消し、透明度を上げるための、いわば促成栽培じゃ。それはそれで一つの技術ではあるが、わしに言わせれば、邪道。
この石は違う。
スリランカの古き土の中で、地球という名の母が、何千万年、何億年という気の遠くなるような時間をかけて、ただひたすらに育んだ「素顔」のままの姿。人の手が一切加わっていない、生まれもっての気高さ。そこには、地中で耐え忍んできた、凄まじいまでの圧力と時間の記憶が、そのまま刻み込まれておる。
まさに、相性の悪い者同士が、互いの存在を認め合い、長い時間をかけて一つの家族という形を成していく様に似てはいないか? 無理に矯正したり、加工したりするのではなく、ありのままの姿で、ただ寄り添い続ける。その尊さが、この石には宿っておる。
そして、この石の真骨頂は、一筋の光を当てた時に現れる。
ペンライトの光を、そっとかざしてみる。
…現れた。
石の表面に、すっくと立つ、六条の星(アステリズム)。
まるで、暗闇の荒野で道に迷った旅人を導く、北極星のように。
凛として、それでいて、どこか儚げな光の筋。
このスター効果は、石の内部に含まれる「ルチルシルク」と呼ばれる針状のインクルージョン(内包物)が、奇跡的に三方向に、規則正しく交差した時にのみ現れる現象じゃ。
つまりだ。この星は、石が完璧に清らかで無傷であることの証ではない。むしろ逆。「傷」や「不純物」とさえ言える内包物が、規則正しく、美しい秩序を保った時に初めて生まれる、奇跡の光なのだ。
どうだね? 面白いだろう。
これもまた、夫婦の関係にそっくりではないか。
互いの欠点、短所、理解しがたい部分。それらを「傷」として忌み嫌い、隠そうとするうちは、何も生まれん。だが、その「傷」や「違い」さえも、相手の一部として受け入れ、尊重し、一つの調和ある関係性の中に配置し直した時、そこには、思いもよらなかった美しい「光」が生まれる。それが「絆」という名の星なのじゃ。
このペンダントは、まさにそのことを教えてくれる。
相性の悪さという暗闇の中で、互いを信じるという一筋の光を当て続けた時、そこに初めて現れる、六条の輝き。それは、二人の間にしか見えない、宿命の星なのだ。
この気高き女王を支えるのは、周囲を取り巻く合計0.39カラットの上質なダイヤモンドたち。
一粒一粒が、寸分の狂いもなくセットされ、清冽な輝きを放っておる。彼らは、決して主役であるパープルサファイアを邪魔しない。むしろ、その神秘的な色合いと、幽玄な星の輝きを、最大限に引き立てるための、忠実なる近衛兵のようじゃ。この細やかな職人技。見事と言うほかない。
そして、これらすべての宝石を受け止める地金は、最高級のPt900(プラチナ900)無垢。
総重量は、4.17グラム。
手に取ると、ずしりと心地よい重みが伝わってくる。これは、見せかけだけのメッキではない、中までみっちりとプラチナが詰まった「無垢」である証拠。プラチナは、化学的に極めて安定し、汗や酸にも強く、永遠に変質しないとされる貴金属。その誠実さ、不変性は、まさに生涯を共にする誓いを立てた夫婦の、固い結束を象徴するにふさわしい。
ペンダント全体の大きさは、縦21.27mm、横13.27mm。
大きすぎず、小さすぎず。日常の装いにも、特別な日のドレスにも、すっと馴染む絶妙なサイズ感。それでいて、一度目にしたら忘れられないほどの、圧倒的な存在感を放つ。
このペンダントを、どのような女性が身に着けるのだろうか。
おそらくは、人生の甘いも酸いも噛み分けた、聡明な女性であろう。
若い頃の、ただ無邪気なだけの恋愛ごっこは卒業した。人生とは、ままならぬことの連続であり、幸福とは、苦悩の闇の中にこそ、ささやかに灯るものであると知っている。
相性の悪いパートナーとの日々に、時に疲れ、時に怒り、それでも、その関係の中にこそ存在する、かけがえのない何かを信じている。そんな、強く、しなやかな魂を持つ女性にこそ、このペンダントはふさわしい。
これは、単なる装飾品ではない。
身に着ける者の、守り石(アミュレット)となるものだ。
パートナーとの関係に迷った時。
人生という名の航路で、自分の進むべき道を見失いそうになった時。
そっと、このペンダントに触れてみるがいい。
ひんやりとしたプラチナの感触と、石の奥に秘められた、何億年もの記憶が、静かに語りかけてくるだろう。
「案ずるな。闇が深いほど、星は輝く。汝の歩む道は、間違ってはいない」と。
わしは、このペンダントを、わしの娘に譲るべきかもしれんな。
いや、いかんいかん。それでは、あの娘は「修行」の意味を履き違えるやもしれん。これは、自らの意思で、この石の持つ物語に共感し、その価値を正しく理解する者の手に渡るべきだ。
この一期一会の宝石が、どのような方の元へと旅立っていくのか。
わしは、この志野の湯呑で、最後のひと口をすすりながら、静かにその宿縁を見守ることにしよう。
このペンダントを手にするということは、一つの哲学を、一つの生き様を、その胸に抱くということ。
もし、あなたが、わしのこの拙い話に、少しでも心を動かされたのであれば、それは、この石が、あなたを呼んでいるのかもしれない。
あなたの人生という名の物語に、この「宿命を照らす一筋の星」が、静かな輝きを添えることを、心より願っておる。
(了)