メアリー・トレギア (M. Tregear) アシュモリアン美術館東洋美術部学芸員。“Catalogue of Chinese Greenware in the Ashmolean Museum, Oxford” 「中国の灰釉陶」他。
【各作品解説一部紹介】※機種依存文字等のため一部文字化けしています。英文名称、寸法記載あり
彩陶鉢 仰韶文化廟底講類型 河南省
Bowl with incurving rim. Painted with scroll design in unfired colour. Excavated at Miastikow, Shan-hsien, Homan. Miastikow type in the Yang-shas culture.
刷底清版型とは、河南省県南関付近にある期底清遺跡の最下層の文化層によって代表されるヤンシャオ文化で、半坡類型のそれとはまったく別のタイプの彩陶が出土している。
本例は、崩底清版型の典型的な彩陶の一つで、良質のきめの細かい土を用いた紅陶鉢で、焼成もよく硬い。
表面は淡紅褐色を呈している。「く」の字に折れ曲がる口縁部をもった大きな口部と、豊かに張った胴部から小さめの底部にかけては、なだらかなS字形の曲線を描いて屈曲し、非常に美しい特徴的な器形を作り出している。
文根はかなり複雑で、また変化に富み、三角文と曲線などから構成される連続帯状文が黒色顔料で施文される。半坡類型の彩陶の幾何学文は直解的要素が中心となるのに対して、底清類型のそれは、曲線的要素が中心となっており、本例のように全体としてのびやかで、しかも問然するところのない、きわめて流麗な図案を構成している。
彩陶双耳壺 甘粛仰韶文化馬家窯類型 甘粛省永靖県三坪出土 中国歴史博物館
馬家窯類型を代表する彩陶で、肩部がもっとも広く、そこから口部にかけてすぼまり、内傾した口縁をもつ。 口縁近く四箇所に鉤状の突起がつき、胴部には凸帯飾りのある把手がついている。良質の胎土を用いた紅陶の査で、器表は明るい赤褐色を呈している。施文部は丁寧に館で磨かれ、光沢がある。文様は、肩部から胴部にかけての文様帯に同心円文を基調とした旋回文、棘状突起付きの弧状文が描かれている。胴下半部には、上下に数条の平行線で区画された間に一本の波状文をめぐらし、その上下に片方の末端に円点のついた弧状文が配される。
彩陶双耳壺 甘粛仰韶文化半山類型
半山類型の典型的な彩は、泥質紅胸の壷で胴部が球状に張って半環状の把手がつき、厨下半部は截頭倒錐形を呈する器形である。これには、長頸で口部の比較的小さな壷と短頭で口のやや大きな壷がある。文様は一般に、 四大円?文,網文,鋸歯文,方格文、満文、葫蘆文などが黒色あるいは赤色顔料で描かれる。稀に藍彩された美しい彩胸もある。半山類型の彩陶は、馬家窯類型のそれよりも一段と種類が多く、かつ精緻で美しく、また器形もバランスよく整って、豪華胸爛たる半山類型の彩園を形成している。
本例は、いわゆるアンダーソン土器とも呼ばれた典型的な半山大道で、巻上げによってあらかた形ができたところで叩き締めて成形し、表面をよく磨き上げている。彩文は口部、胴部に描かれており、胴部には四箇所の満巻文の中心から左右両方に展開する四大円圏文と呼ばれる彩文が描かれている。
彩陶双耳壺 辛店文化 甘粛省 辛店出土
黄河の支流の湟水とその支流大夏河中下流においては、斉家文化のあとに辛店文化と呼ばれる別の種類の青銅器文化が興った。辛店文化は甘粛省臨洗県辛店遺跡に代表される文化で、夾砂粗紅陶と泥質灰陶があり、 手製の夾砂陶が中心となっている。辛店文化には二種類のものがあり、おもに洗河中下流域を中心に分布する姫家川類型(辛店甲組)と黄河沿岸と湟水、大夏河に分布する張家嘴類型(辛店乙組)である。(以下略)
灰陶透彫壷 青蓮岡文化崧沢期 上海市青浦県寺前出土 上海博物館
泥質灰陶に黒色のスリップをかける。口縁部を花弁形にかたどり、腹部はやや下ぶくれで稜がつく。腹部に二本一組の沈線を三条入れ、二段に分ける。各段には館描で連続する渦巻文を描き、渦巻の中心を円形、その上下の脇を三角形に刳り貫く。底部には外開きの高台を付すが、腹部と同様の透彫を施し、緑を花弁形にかたどる。 おそらく香炉の類だろう。壺形土器の類例をみないが、崧沢文化の碗や高坏の台脚に類似の文様がみられる。
黒陶高脚坏 山東龍山文化 山東省膠県三里河出土
卵殻のごとく、薄く見事に仕上げられた黒陶の脚坏であるが、この器のように、坏の口縁の部分が受皿状に横に大きく開いた形態をとるのが山東龍山文化期の黒陶脚坏の著しい特徴である。
この脚坏は、脚部の上端が坏の下半部を包み込む形態をとっている。その脚部に四、五条の鋭い刻線を斜めに交差させた方格文を描き、さらにその方格の中央に細長い透孔を設けている。この方格文様は大文口文化期の彩陶にしばしばみられる斜格文と通じるところがあり、あるいはその系統を引いたものかとも思われる。
この脚坏を出土した三里河遺跡は山東半島膠州湾近くの膠県にあり、1974-75年に調査された(『考古』1977-4)。上層がこの土器を含む山東龍山文化期、下層が大文口文化期であるが、両者とも典型的な龍山、あるいは大文口文化と異なる要素をもつことが指摘されている。
灰陶大口尊殷中期(二里岡期) 河南省鄭州市二里岡出土 河南省博物館
大口尊は、二里岡期に属す陶器のもっとも代表的な器形である。大口で、身は深い。口縁から肩部に二本の凸弦文と一本の凹弦文が施され、肩部の附加堆文上には、一対の鶏冠状把手が存在する。腹部から底部にかけては、 十本の横帯弦文が、肩部下と腹部下半には縄文が施されて、底部近くでは一部斜交差縄文となっている。この隠文は、拍子と呼ばれる叩き板に縄を巻いて叩いた文様で、縄を転がした日本の縄文とは異なる。大口尊の類は、 二里頭期と呼ばれる夏代乃至股代初頭に出現し、殷代の二里岡期に盛行し、小屯期にはすたれている。河南省偃師県二里頭や、河南省鄭州市二里岡,南関外などから数多く出土しているほか、湖北省黄陂県盤龍城や江西省清江県呉城遺跡における出土例も知られている。
灰釉尊股後期(小屯期) 上海博物館
灰釉陶は股中期に出現し、殷後期に入るとその資料数も増加している。殷代の灰釉陶は、白陶土を使用し、窯内において、1200度に近い高温で焼成されている。灰釉胸にかけられている釉薬は、灰を媒熔剤としたものが一般的であるが、石灰石と陶土を混ぜ合わせた石灰釉を使用した例も知られている。この灰釉弦文尊は、解放前の出土品であるが、製作技法は精巧で、器身全体に、黄緑色の精良な釉がかかっている。帳結によって製作されたこの灰釉弦文尊の器形は、大口尊の類に圏足のついたものとも、あるいは坏の類ともみることのできる形である。 (中略) 殷代の灰釉陶の技術は、西周時代の窯業技術に受け継がれ、やがて後に出現する青磁製作技術の母体になったのである。
黒陶壺 戦国伝河南省洛陽市出土
戦国時代の典型的な壷の器形で、副葬陶器として用いられたものである。このような画文のある副葬陶器は、 戦国時代の燕国の領域からの出土例が多く、洛陽市出土と伝えられるこの器も燕国との関連がうかがわれる。器形は口縁部が直立し、鼓腹である。口縁部と胴部には、虎と思われる画文が刻線によって刻まれている。肩部の文様帯は縦方向の波折文、三角形雷文と唐草文、菱形文と横方向の波折文からなっている。鋪首は型造りで、目、 角などを表現し、鼻部に環を通す孔があく。類似の器形と画文を有す泥質灰陶の壷が、北京市懐柔城の燕国に属す戦国墓から多数出土している。戦国時代の黒陶の代表的なものは、河北省平山県中山王墓出土の一群の黒陶であるが、動物画文はみられない。ただ、動物画文が変形したと思われる一種の獣形文や波折文が存在し、ここに示した黒陶画文壷との関連がうかがわれる。
灰陶加彩雲気文鍾 前漢(前三~後一世紀) 河南省洛陽市焼溝出土
河南省洛陽の焼溝漢墓群から出土した、基準的な加彩灰陶の例品である。胴の重心が低く平べったい形で、頸が少し長くなっているところなどからみて、前漢も末近いころの作と考えられる。胴の少し上、対称の位置に、 例によって型抜貼付けの鋪首がついている。甲盛りの高い蓋のついた完品であることも貴重だ。作はきわめて丁寧で斉整としているが、焼成後に膚に加えられた彩色の美しさは、稀にみるものだろう。胴の三箇所に平行の弦文が刻まれており、それに歩調を合わすように、およそ七、八本の水平の文様帯が赤、黒、白の顔料で賦彩されている。どうやら下地は初めに黄白色に塗られ、その上に加彩しているようだ。頸の付根にある複合菱文が注目に価する。
緑褐釉蟠龍文鍾 前漢末一後漢初(前一~後一世紀) 伝河南省南陽市出土
漢代に始まる中国の低火度鉛釉陶は、酸化鉄による褐釉が先行し、酸化銅を呈色剤とする緑釉が後発になる。 そして、褐釉は後漢に入ってしばらくすると消えてゆく。(中略)、いま遺存する二袖併用例はきわめて少ない。その中で、この鐘は、形制もしっかりしている上に両袖が安定した、稀にみる完璧の作といえよう。
緑褐釉蟠龍文鍾 前漢末一後漢初(前一~後一世紀) 伝河南省南陽市出土
漢代に始まる中国の低火度鉛釉陶は、酸化鉄による褐釉が先行し、酸化銅を呈色剤とする緑釉が後発になる。 そして、褐釉は後漢に入ってしばらくすると消えてゆく。そういう流れからすると、褐釉を一面にかけたあと、 緑釉で図文的な彩描をするこの式の作品は、前漢末から後漢初のわずかな期間に作られたものと考えられる。また、この二釉併用のものは、褐袖と緑釉の質の違いから、なかなかうまく定着せず、緑釉が落ちてしまうケースが多い。期間の短さと技術的な問題とが相乗するのだろうが、いま遺存する二袖併用例はきわめて少ない。その中で、この鐘は、形制もしっかりしている上に両袖が安定した、稀にみる完璧の作といえよう。
青磁神亭壷 三国・呉 永安三年銘(260) 浙江省紹興県出土 故宮博物院
1940年代に浙江省紹興県で出土したといわれるこの壷は、古越磁の遺例の中でももっとも早く注目された年代の明らかな重要資料である。これについては、陳万里氏の論述があり、河出書房版『世界陶磁全集』第八巻に小山冨士夫氏も紹介している。肩に小さな碑が立っており、 そこに「永安三年」 (260) の刻文が読まれるのである。 器形はいわゆる神亭の典型的な形式、頸の長い盤口壷が基本になっており、(中略)三国時代末期の古越磁の作風を知る基準作の一つといえる。
青磁天鶏壷 南朝(五一六世紀) 出光美術館
天鶏道にはさまざまの形式のものが知られているが、これはもっとも大型の、釉調も美しい優品で、鶏首も丁寧に作られている。頭の長い盤口瓶が基本になっており、左右に各一対の角耳、二頭の龍を並べた把手、大きな鶏冠をもった鶏首が取り付けてある。全体として洗練された優美な曲線が目立ち、とくに頭や胴がすんなりとのびて、引き締まった美しい姿を作り上げている。釉調は青緑色の透明釉で、釉層は薄く、一面に細かい貫入が生じており、またわずかに釉むらがあらわれている。この種の天鶏壷は、なぜかまだ浙江省では確かな出土例の報告がなく、一説には、やや南方の福建・広東方面の産ではないかともいわれる。しかし、器形のやや似た大形のものが、河北省河間県沙高村で出土していることもあり、産地はまだ確定できない。河北のものは東魏の遺跡からの出土といわれるから、六世紀前半のものである。したがって、この天鶏壷も五世紀後半か六世紀初頭のものであろう(『河北省出土文物選集』302図参照)。
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